2020-01-11

キラキラした、もしくはギラギラした人生/『メッセージ 告白的青春論』丸山健二


『穴と海』丸山健二
『さらば、山のカモメよ』丸山健二

 ・キラキラした、もしくはギラギラした人生

『ミッドナイト・サン 新・北欧紀行』丸山健二
『野に降る星』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二
『見よ 月が後を追う』 丸山健二
『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』丸山健二
『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二
『逃げ歌』丸山健二
『鉛のバラ』丸山健二
『荒野の庭』丸山健二

必読書リスト その一

 サラリーマンは上からの命令であまりにも立ち入った重大なことが左右され過ぎる。おれが小学校の6年生になるとき親父は転勤を命じられ、おれもいっしょに引っ越しをしなければならず、だがその新しい土地は実にくだらなかった。子どもながらにもおれはひどく腹を立てたものだ。自分の気に入った土地にも住めないなんて、ひどく屈辱的な立場ではないかと思った。世間にはそれがよくあることでも、おれには許せなかった。「この世にはままならないことがたくさんあるのだ」というような忠告には耳を貸したくなかった。
 おれの胸のうちにポカっと穴があいたのは、おそらく自由な生きざまへの入口の扉が開いた瞬間ではなかっただろうか。その計り知れない空しさの奥へ突っこんで行かなければ、キラキラした、もしくはギラギラした人生を歩むことができなかったのではないだろうか。何度でも繰り返すが、それは誰のためでもなくおれの人生だった。だから当然、時間も空間もすべておれのものでなければならなかった。社会的な、あるいは道義的な制約の存在などおれの知ったことではなかった。

【『メッセージ 告白的青春論』丸山健二(角川書店、1980年/角川文庫、1985年)】

 一部が『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』に収められている。こうして見るとあまり書評を書いていないことがわかる。『逃げ歌』までの作品は粗方(あらかた)読んだ。

 私が初めてインターネットの回線を引いたのは1998年のことだ。Windows 98が搭載されたデスクトップパソコンは15万円以上した。パソコンに詳しい友人を伴って秋葉原の電気街を歩き回り、店員を騙して値引きさせたことを憶えている。私は既に友人宅でネット上の丸山健二情報を検索していた。「丸山健二ファンのページ」なるサイトがあって、書き込みデビューもそこの掲示板だった。翌年には読書グルームのサイトを自ら立ち上げ、少し経って「雪山堂」(せっせんどう)なる古本屋を開業した。2000年代初期において丸山健二の古書を最も扱ったのは間違いなく私であった。

 読書チームや古本屋の掲示板を通して実に様々な出会いがあった(『臨死体験』をめぐる書き込み)。元はと言えばこれまた丸山健二を通してつながった人脈だった。男臭い人々が多かったのは当然だろう。はみ出し者とまでは言わないが、少しばかりアウトローの雰囲気を漂わせるタイプが目立った。例外は品行方正を絵に描いたような私だけだ。

 私の父も転勤が多かった。旭川~函館~札幌~苫小牧~帯広と私が生まれてから8年間で四度も引っ越している。嫌がらせの意味もあったようだと後年母から聞いた。業を煮やした父は札幌で独立する。単身赴任という言葉を耳にするようになったのは1980年代のこと。幼い子供にとって転校は深刻な問題である。今までの友達全員を失うのだから当然だ。私も三度転校しているが皆の前に立って挨拶をするのも大きなストレスとなる。北海道内の転校だったから差別のようなものはなかったが、訛(なま)りの異なる地方へ行くことともなれば、いじめられることもあり得るだろう。

 会社の都合で家族が振り回されるというのがサラリーマン一家の宿命だ。嫌なら辞めればいい。そもそも人生の有限を思えば通勤に1時間以上かけるのは馬鹿げている。往復で2時間、つまり1週間で10時間、1年で21日間もの時間を移動に費やすこととなる。

 最近聞かれなくなったサラリーマンとは俸給生活者の謂(いい)である。日本企業の70%を占める中小企業も元請けの言いなりにならざるを得ないという点ではサラリーマンと大差がない。最大の問題は喧嘩ができなくなることだ。譲ってはいけない部分や越えてはならない一線で闘うのが普通だが、サラリーマンは賃金と引き替えにこれを手放す。小さな忍耐を繰り返すうちに家畜のような人生の色合いになってゆく。もう一つは会社という狭い世界の出来事ばかりが関心の対象となり、会社員以外の可能性が見えなくなってしまうことだ。一旦社会の規格にはまってしまうとそこから抜け出すことは思いの外難しい。

 バブル景気が絶頂に差し掛かった頃(1990年)、社畜なる言葉が生まれた。その後登場するブラック企業を想起させる言葉だ。ただし当時はそれほど悲惨な印象を受けなかった。給与は上がっていたし使える経費も多かった。東京ではコンビニエンスストアが次々と開店した。カラオケがブームとなり、外食産業は隆盛の一途をたどった。当時と比べると「魂を売り渡す金額」が明らかに下落している。

 キラキラするのは水で、ギラギラするのは油だ。こんな言葉にも丸山の流動性志向が表れている。その対比は「動く者」と「動かざる者」として『見よ 月が後を追う』 で描かれる。一歩間違えればやくざ者になりかねなかった丸山が二十歳(はたち)で芥川賞を受賞した。彼にとっては短刀とペンの違いでしかなかったことだろう。本書を開くと自立の強風が至るところに吹いている。

2020-01-10

知覚の限界/『交通事故学』石田敏郎


『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕

 ・知覚の限界

 自動車が発明されて拍手喝采で世の中に迎えらられたとき、将来大変なことになる、と言った心理学者がいたそうである。彼の心配は、人間はその知覚特性から見て、動いているものの速度や距離の見積もりが非常に苦手ということだった。予言は的中し、毎年世界中で何十万人もが自動車事故で亡くなっている。

【『交通事故学』石田敏郎〈いしだ・としろう〉(新潮新書、2013年)】

 私自身、若い頃から「人間が走る以上のスピードで移動する時、何かがおかしくなるのではないか?」と思ってきた。ジェット機に乗ったスー族は魂の到着を待った(『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン)。我が意を得たりと膝を打った覚えがある。一方、本川達雄〈もとかわ・たつお〉は「エネルギーを使えばつかうほど時間が早く進む」と言う(『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』)。相対性理論と逆行するようだが言いたいことはわかる。距離と時間は時空と言い換えてよい。文明は人生の時空を拡大し、情報の密度を高めた。ただし、それがもたらした結果はよくよく吟味する必要があるだろう。我々の社会は自動車という利便性のために交通事故の死傷者を受容している。戦争で死者が出るのは当然だが、文明の発達もまた死者を必要とする。果たしてそんな考えでいいのだろうか?

 もう一つ昔から考えているのは、犬や猫がタイヤの音に反応できないことである。昔はクルマに轢(ひ)かれた犬猫を見ることは珍しくなかった。普段は人間以上にすばしっこい動物がなぜクルマを避(よ)けることができないのか不思議に思っていた。やがてタイヤが原因であることに気づいた。動物は足音には反応するが滑らかに転がるタイヤには対応できないのだ。

 交通事故を防ぐためには、1.自動車と歩行者の分離、2.運転未熟ドライバーの排除、の二本柱で望むのがいいと思う。1については時間を要するだろうが、まず自宅に駐車するのをやめて500メートル区画ほどの住宅地はクルマの進入を禁止する。運送・配送・緊急車両のみ通行可とし制限速度は20kmとする。2は簡単だ。運転することには公的責任が伴うためプライバシーを制限する。全車にカーナビ&GPS及びドライブレコーダーを義務づけ、明らかにおかしな運転をする者を検知できるシステムを構築する。これで95%くらい事故を減らすことができるだろう。

 日常の移動手段としては路面電車程度の速度が最も望ましい。自動車を減らして路面電車網を全国に張り巡らすのが私の考える理想である。

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2020-01-08

貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 ・貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

宗教とは何か?

山極●世界宗教と呼ばれる宗教は、最初は価値の一元化、倫理の一元化を目指して文化を取り込んでいき、それぞれが交じり合うこともあったと思いますが、いずれも大きな壁にぶつかってしまった。それを追い越していったのは経済のグローバル化だと思うんですよ。

小原●経済活動の拡大が宗教に及ぼした影響は、間違いなく大きいです。

山極●貨幣が、モノの流通が宗教を追い越していった。宗教の境界があるにもかかわらず、モノはどんどん交換され、貨幣は流通していった。だから、貨幣はユーロという統一を果たしましたが、言語までは変えられなかった。つまり、言語の一元化はできなかった。同様に、文化の一元化もなかなか起こりえない。なぜならば、言語や文化というものは身体化されたものだからです。一方、貨幣というのは、いうなれば幻想の価値観を一定のルールのもとに共有しているに過ぎない。ですからそれは普及しやすい。それによって、宗教の力がどんどん圧縮されて、経済の方が実は宗教としての力を持つようになってきている。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 思いつくままに関連書を挙げたが一冊の本が脈絡を変える。何をどの順番で読むかで読書体験は新たな扉を開く。それは一種の「編集」と言ってよい。実は細胞の世界でもコピー、校正、編集が繰り返し行われている(『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー)。ミクロからマクロに至るあらゆる世界で実行されているのは「情報のやり取り」だ。

「貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった」理由は情報の速度にあったのだろう。人々が「信じる」ことによって価値は創出される。神は存在があやふやだし、祝福には時間を要する。その点キャッシュ(貨幣)はわかりやすい。誰もがその価値を信用しているから即断即決だ。祈り(労働対価)と救済(消費)が数秒で交換される。

 日本で貨幣が流通するようになったのは鎌倉時代である。つまり宗教改革と金融革命が同時に起こった。更に国家意識が高まった事実も見逃せない。元寇によってそれまでは地方でバラバラになっていた武士集団が日本を守るために一つとなった。

 敗戦後に新宗教ブームが興ったが、これも高度経済成長で熱が冷めた。宗教は経済に駆逐される。

 貨幣は万人が信ずるという点において最強の宗教と化した。今となっては疑う者は一人もあるまい(笑)。果たしてマネーの速度を超える情報は今後生れるのだろうか? 経済を超える交換の仕様は成立するのだろうか? 現段階では全く思いつかない。