2011-02-15

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・宗教の原型は確証バイアス
 ・自閉症者の可能性

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

宗教とは何か?
必読書 その五

 正真正銘の神本(かみぼん/神の如く悟りを得られる本)だ。著者のテンプル・グランディンは、オリヴァー・サックス著『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳、早川書房、1997年)のタイトルになっている人物。自称「火星の人類学者」は自閉症(※アスペルガー症候群と思われる)の女性動物学者であった。

 これは凄い。とにかく凄い。本書とトール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』とレイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を合わせて、「科学本三種の神器」と私は名づけたい。

 網羅、渉猟、越境の度合いが生半可でないのだ。本物の知性は統合に向かうことがよく理解できる。緻密さや細部で勝負する知性はカミソリみたいなもので、切れ味は鋭いものの骨肉を断ち切るところまで及ばない。それに対して豊かな広がりをもつ知性は、専門領域を通して高い視点を示すことで世界の風景を変える。

 テンプル・グランディンは自閉症患者が動物の気持ちを理解できるとしている。彼女は幼い頃から動物の感情を知っていたのだ。大人になるまでそれが特殊な能力であることに気づかなかったという。ここから様々な動物の生態を通して人間との違いや人類の歴史を綴っている。

 まあ、一回こっきりの書評で紹介できる作品ではないため、時間が許す限り何度でも書いてみせるよ(笑)。数多(あまた)ある驚天動地の内容で最も驚かされたのがこれ──

 動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。
 たとえば、食べ物が出てくる直前に明かりがつくボタンつきのかごにハトを入れると、ハトはすぐに、食べ物を手に入れようとして、明かりがついたボタンをつつくようになる。これは、確証バイアスによって、最初のできごと(ボタンの明かりがつく)が2番目のできごと(食べ物が出てくる)を引き起こしていると考えるようになるからだ。ハトは、たまたま何回かボタンをつついて食べ物が出てくると(ボタンの明かりがついているときに、かならず食べ物が出てくるので)、こんどは、明かりがついているときにボタンをつつくから食べ物が出てくるという結論を出す。
 ハトの行動は、ウサギの足のお守り〔行為のまじないとして持ち歩くウサギの左の後ろ足〕を持っていたらチームが野球の試合に勝てると考える人に似ている。それで、B・F・スキナーはこういった行為を「動物の迷信」と呼んだ。ピッチャーがウサギの足を持っていたときに登板した試合で勝ったのは、ハトが明かりがついたボタンをつついたあとに何回が食べ物を手に入れたのと同じことだ。どちらの場合も、相関関係が原因だと考えた。

【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

確証バイアス confirmation bias

 既に何度も紹介済みだが、相関関係と因果関係の混同である。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 つまり脳というシステムは、相関関係を因果関係に仕立てることで物語を創造していると言い換えることも可能だ。例えば歴史は権力者のトピックにすぎない。それゆえ歴史の大半は戦争という糸で紡がれている。圧倒的に膨大な量がある一般人の日常が年表に記されることは、まずない。捨象、切り捨て、無視ってわけだ。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。

 ここでいう「迷信」とは「非科学的」という意味であろう。だとすると殆どの宗教は迷信になる。なぜなら因果関係を証明することができないからだ。幸不幸の原因は神が下したものかも知れないし、家の方角の善し悪しかも知れないし、単なる偶然かもしれないのだ。

 たまたま朝一番でつけたテレビの番組で星座占いをしていたとしよう。あなたのラッキーカラーはピンクだ。ピンクのものさえ身につけておけば万事が上手く運ぶ。昨日、上司から叱られ、恋人と喧嘩をしたあなたの脳は敏感に反応することだろう。で、ピンクのネクタイを締め、颯爽と出社する。

 こうして一日の中の好ましい出来事は「ピンクのネクタイのおかげ」となるのだ。

予言の自己成就/『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ
人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 占いを信じる人は、占いに沿った思考となり、占いに当てはまらない事実は印象に残らなくなる。このようにして「占い物語」という人生が進んでゆく。

 ところが、ほかの豚も、これまた確証バイアスにもとづいて、囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには、何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いているときに中に入り、それから餌桶に近づき、地面を踏み鳴らしはじめた。足を踏み鳴らしつづけていると、そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて、タグが読みとれ、餌が出てきた。どうやら豚は、たまたま足を踏みならしていたときに餌が出てきたことが何回かあって、餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。わたしたちの脳は、偶然や思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。わたしたちは生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや、見つける必要があるもの学ばせる脳の同じ部分が、妄想じみた考えや、陰謀じみた説も生み出すのだ。

 これだ。多分ここから宗教が生まれたのだ。宗教という現象は人間特有のものではなかったのだ。とすると宗教感情がいかに脳の深い部分にあるか知れようというもの。動物にもあるわけだから新皮質より下部にあることだろう。きっと情動も絡んでいるはずだ。

 とはいうものの物語なしで我々は生きてゆけない。はっきりと書いておくが、かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。聖書や仏典が伝えられてから2000年以上も経過しているが、今尚人類は争い合っている。

 混乱はバラバラの物語が衝突し合っている姿といってよい。同じ宗教を信じていても考え方は違うだろうし、それこそ人の数だけ思想や価値観が存在するのだ。

 まして高度な社会になればなるほど、幸不幸はヒエラルキーや経済性に依存してしまう。我々の幸不幸は比較の中にしかない。

 結局、情報と情報をどう結び合わせるかという問題なのだろう。「私」という情報をどう扱うか? エゴイズムと無縁の物語はあるのか? 人生からそんな宿題を与えられているような気がする。



テンプル・グランディン:世界はあらゆる頭脳を必要としている
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱/『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
合理性を阻む宗教的信念/『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
スロットマシンプレーヤーの視点/『ゾーン 最終章 トレーダーで成功するためのマーク・ダグラスからの最後のアドバイス』マーク・ダグラス、ポーラ・T・ウエッブ
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド
ミツバチのコミュニケーション/『言葉を使う動物たち』エヴァ・メイヤー

2011-02-11

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之


 ・ニューエイジで読み解く宗教社会学

『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀
『スピリチュアリズム』苫米地英人
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ニューエイジ・ムーブメントとは、アメリカ西海岸を発信源として1960年代後半から80年代にかけて盛り上がりを見せた霊性復興運動のこと。ベトナム反戦運動が高まる中、近代合理主義や伝統的キリスト教に反発する形でカウンターカルチャーと同時に現れた。

ニューエイジ・精神世界 1

 ヒッピー・ムーブメントも一緒だな。多分。彼らは叫んだ。「セックス、ドラッグ&ロックンロール」と。

 戦争や神様に対するウンザリ感は何となく理解できる。特にアメリカの場合、ヨーロッパと比較しても原理主義的傾向が顕著で、暴力性を帯びている。

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ

 そして今もなお天地創造説を信じ、進化論を否定する連中が山ほどいる国でもある。

米国では大人の半分が天地創造を信じている/『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム

 キリスト社会に亀裂を入れた一点においてニューエイジを私は評価する。ただし宗教性という次元では子供騙しにすぎないと考えている。

図1 ニューエイジ度の尺度

            反ニューエイジ的←→ニューエイジ的
世界観   二元論(善悪の対立、絶対者)←→一元論(自己変容)
実践形態      厳格な規律、上下関係←→ゆるやかなネットワーク
担い手の意識 教祖や教義を崇拝、他者依存←→自立的、スピリチュアル 

【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之(渓水社、2003年)以下同】

 ま、わかりやすいといえばわかりやすいのだが、社会形態も同じように変化していることを弁える必要がある。結局、制度宗教への反発は社会への反発でもある。なぜなら制度宗教そのものが宗教の社会化であり、二次的社会を形成しているからだ。

 ヒーラスは、ニューエイジを「自己宗教(self religion)」と呼ぶ。彼は、1960年代の対抗文化の発達にともない、個人は聖なる存在に近いものとして捉えられはじめたと考える。そこでは、表現的個人主義(原文略)の広がりも影響して、自己発達、自己実現というテーマが絶えず重要な役割を果たしていた。

 私なら「宗教ごっこ」と名づける。「自慰宗教」でも構わない。そもそも「個人」という言葉は神と向き合う一人の人間を意味する。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 神に背を向けるのはよろしい。しかし、自らの内部に聖性や神秘性を見出そうとする時、そこに同じ神を見出すことになりはしないだろうか? はたまた極端な自然志向が動物的な生き方へと導く可能性もある。

 自己実現の「自己」にも、やはり神の匂いがする。実現と未実現とのヒエラルキーを避けようがない。未来を重んじることは現在を軽んじることでもある。

 また、ベラーらは、現代アメリカ社会に於いて「自己を宇宙的原理に高めてしまうほど徹底して個人主義的な」宗教形態を「神秘主義」、あるいは「宗教的個人主義」と呼んだ。宗教的個人主義の先行形態は、19世紀の思想家であるエマーソン、ソロー、ホイットマンに見いだせるが、この宗教現象は20世紀の後半になってから主要な宗教形態として発達してきていると分析する。もちろん宗教的個人主義は、ニューエイジそのものではない。しかし、「現代の宗教的個人主義は、自分のことを述べるのに『宗教的(レリジャス)』とは言わずにむしろ『霊的(スピリチュアル)』というような言い方をしばしばする」との言及からも分かるように、極めてニューエイジに近い宗教現象だといえよう。このような、「自己宗教」や「宗教的個人主義」として捉えられるニューエイジ思想は、自己を越えた他者や社会全体での関心を示すことのない、自己中心的な思想としてしばしば批判されてきた。

 スピリチュアリズムとは「非科学的な物語」といってよい。その意味では、意外かもしれないが鎌倉仏教の流れを汲む日本の大半の宗教が実はスピリチュアリズムと判断される。密教的系譜はおしなべてスピリチュアリズムである。

 筆者は、ニューエイジの思想的な特徴は、究極の「リアリティ(状態、目的)」とそこへいたる「手段(媒介)」から成り立っていると捉えている。ニューエイジでは、ホリスティック(全体論的)でトランスパーソナル(超個的)な世界観が究極のリアリティとしてあり、その究極にいたる手段として個人の聖性が強調されるのである。

 上手い説明なんだが、ニューエイジに接近しすぎているきらいがある。私は「内なるユートピア思想」がニューエイジの特徴であると考える。ひょっとすると制度宗教の戒律が時代性とそぐわなくなっているのかもしれない。

 つまり、ニューエイジ思想は、究極にいたる手段が、家族や地域共同体と分離した個人に力点がおかれる点で新しい宗教性を示しているのである。

 それが「宗教性」といえるのであれば、「社会性」に置き換えることも可能だろう。人と人とを結び合わせるのが宗教性であり社会性である。ニューエイジには散逸、離散、放射というベクトルがあるように思われる。

 続いて宗教の世俗化という骨太のテーマが展開される。特筆すべきは以下の部分──

 スタークとイアナコーニは、世俗化論一般を批判する際に、宗教に市場経済モデルを適用して、制度宗教を宗教企業、信者を宗教消費者ととらえる。従来の宗教社会学者は、宗教消費者に焦点を置き、表1、2に示したデータから宗教の世俗化、つまり人々の宗教での関心が低下していると結論づけてきた。これに対してスタークらは、信者の行動でなく宗教を供給する企業側に注目し、次のように問う。「もしも少数の怠惰な宗教企業しか存在しなかったとしたら、潜在的な宗教消費者はどのような行動をとるだろうか」と。
 スタークらは、自分たちの経済モデルに立地でした「供給サイド・モデル」の有効性を検証するためにいくつかの命題を提出している。本論との関連のみをまとめるなら、要するに、ある国で人々の教会出席率や教会所属率が低いのは、宗教企業が宗教消費者の多様なニーズにこたえるような形態となっておらず、結果的に個々人が教会に関心を示さなくなっているためであるということだ。

 言い換えれば、世俗化と誤解されている状況は、独占的宗教企業が人々に魅力的で亡くなったことに起因し、個人の宗教心が衰えたためではないのだ。(※スタークらの議論)

 宗教社会学と行動経済学の融合(笑)。教団と信者を需給関係で捉えることはあながち間違ってはいない。経済の発達に伴って「聖」と「俗」の二元論的世界観は崩壊する。霊媒師は政治家と変わり、生け贄はクリスマスケーキとなる。世俗化は社会のシステム化と関連している。

 宗教のパラダイムシフトが進展しないのは、欲望が多様化しているせいもあるのだろう。とすると人々が望んでいるのはカスタマイズ化された宗教なのかもしれない。

 宗教社会学入門としては良質なテキストだ。ただしネット恋愛に1章を割いてしまったことで、後半はかなり失速している。ヴァーチャル(仮想)の意味を履き違えており、それこそスピリチュアリズムの言い分と同じレベルになっている。

 電話を通して聞こえる声だって、音声を電気信号に変えているゆえヴァーチャルなのだ。つまり、脳が受け取る情報は仮想であろうと現実であろうと違いはない。スピリチュアリズムの短絡性や安易さをインターネットと結びつけようとして完全に失敗している。



世俗化とは現実への適応/『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世
「精神世界」というジャンルが登場したのは1977年/『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二編
ヴェーダとグノーシス主義

2011-01-23

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ


 ・両親の目の前で強姦される少女

『不可触民 もうひとつのインド』山際素男

必読書リスト その二

 読んだのは二度目だ。三度目は多分ないだろう。私は確かにプーランの怒りを受け取った。胸の内に点火された焔(ほのお)が消えることはない。私が生きている限りは。

 若い女性に読んでもらいたい一冊である。できることなら曽根富美子の『親なるもの 断崖』と併せて。女に生まれたというだけで、酷い仕打ちにあった人々がどれほどいたことか。

 プーラン・デヴィは私よりも少し年上だと思われる。つまり昭和30年代生まれだ(Wikipediaでは私と同い年になっている)。少なからず私は同時代を生きたことになる。しかし彼女が生きたのは全く異なる世界であった。

 わたしは読むことも書くこともできない。これはそんなわたしの物語だ。

【『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ:武者圭子〈むしゃ・けいこ〉(草思社、1997年/草思社文庫、2011年)以下同】

 本書は口述筆記で編まれたプーラン・デヴィの自伝である。ガンディーの説いた非暴力がたわごとであったことがよくわかる。どこを開いても凄まじい暴力に満ちている。たとえ親戚であったとしても、カーストが違うというだけで大人も子供も殴られる。

 プーランは両親の目の前で複数の男たちから強姦される──

 だれかがわたしの毛布を引き剥がした。声を出す間もなく、手がわたしの口をふさぐ。
「待て、ムーラ。動くな」と、声がする。「そこにいて、俺たちがおまえの娘をどうするか、ようく見ていろ」
 若い男の一団だった。手にライフルをもったサルパンチの息子と、前に見たことのある男がいた。だが暗くて、ほかの男たちの顔はわからなかった。わたしは怖くて目を閉じた。
 ひとりがわたしの両手を押さえつけ、別の男たちが脚を開かせる。母が殴られ、しっかり見るんだと言われているのが聞こえた。それから父の泣きながら懇願する声……。
「お願いです。勘弁してください。娘を連れて、あした出て行きますから。もう、この村は出て行きますから。お願いです、それだけは……」
 蝋燭の最後の輝きのように、わたしの気力は一緒戻ったが、すぐにまた潮がひくように消えていった。泣き叫ぶ声も懇願も、罵声もののしりも遠くなった。二つの肉体、二つのあわただしいレイプだった。わたしは目を固く閉じ、歯茎から血が出るほど強く、歯を噛みしめていた。

 まだ、10代そこそこの時であった。その後、父と共に拘留された警察署内でも10人ほどの警官からレイプされた。

 インドは滅ぶべきだ。ブッダもクリシュナムルティも関係ない。とっとと世界地図から抹消した方がいい。心からそう思う。そもそもカースト制度自体が暴力そのものなのだ。

 プーランは盗賊にさらわれ、彼らと一緒に生きる道を選んだ。若いリーダーと恋に落ち、結婚。だが愛する夫は仲間の裏切りによって殺される。プーランは夫亡き後、リーダーとして立ち上がった。

 プーランの復讐に怯える男たちの姿が浅ましい。彼らは村に戻ってきたプーランを女神として敬った。

 わたしを尊重し、心を開かせ、愛してくれた男はたったひとりだった。そのひとは教えてくれた──台地が川の流れを遮ることはないということを、この国がインドという国であり、貧しく低いカーストに生まれたものにもほかの者と同じ権利があるということを。
 だが彼は、わたしの目の前で殺された。その瞬間に、あらゆる希望がついえ去った。わたしにはもう、一つのこと──復讐しか考えられなかった。それだけが、生きていく目的になった。わたしは戦いの女神ドゥルガとなって、すべての悪魔を打ち負かしたいと願った。そして闘ってきた。そのことにいま、後悔はない。

 彼女はカーストにひれ伏して、ただ涙に暮れる父親とは違った。復讐することをためらわなかった。圧倒的な暴力が支配する世界で、他の生き方を選択することが果たして可能であっただろうか?

 私からすれば、まだ生ぬるい方だ。やるなら徹底的にやらなくてはいけない。道徳も宗教も関係ない。求められるのは生のプラグマティズムであって、言葉や理屈ではないのだ。

 プーランは甘かった。親戚を始末することができなかった。インドのしきたりに負けたのだ。

 投降後、刑務所で勉強をしたプーランは1996年5月、インド社会党から立候補し見事当選。盗賊の女王が国会議員となった。

 そして2001年7月25日、自宅前で射殺された。暴力によって立った女神ドゥルガは暴力によって斃(たお)れた。

 悠久の大地から陸続と第二、第三のプーランが生まれ出ることを願わずにはいられない。

 

プーランデヴィ講演会 京都精華大学創立30周年記念事業
不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男
強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
王者とは弱者をいたわるもの/『楽毅』宮城谷昌光
「何が戦だ」/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
少女監禁事件に思う/『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二

2011-01-22

フロンティア・スピリットと植民地獲得競争の共通点/『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一


 ・フロンティア・スピリットと植民地獲得競争の共通点

『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 微妙な本だ。正直に書いておくと、最初から最後まで違和感を覚えてならなかった。多分、企画ミスなのだろう。とてもじゃないが文明論的考察とは言い難い。文明論的教養を盛り込んだエッセイである。つまりタイトルと新書という体裁で二重に読者を騙(だま)しているとしか思えない。これが文庫本で『エッセイ 砂と石と泥の文明』であったなら、評価は星三つ半ってところだ。

 全体的に様々な事実を示した上で、「──と個人的に思う」といったレベルにとどまっていて、新書レベルの考察すら欠いている。医学セミナーへ行ったところ実は健康食品の販売だった、ってな感じだ。

 というわけで、文明論入門の雑談として読むことをお勧めしておこう。

 しかも、毎年毎年同水準の生活や産業を維持してゆくだけなら、同じ規模の土地を「エンクロージャー(囲いこみ)」して守っていけばいいが、その水準をあげてゆくためには、土地の規模を拡大していかなければならない。かくして、北フランスやイギリスなどの石の風土に成立した牧畜業は、不断に新しい土地(テリトリー)を外に拡大する動きを生む。これが、いわゆるフロンティア運動を生み、アメリカやアフリカやアジアでの植民地獲得競争(テリトリー・ゲーム)を激化させるのである。
 つまり、西欧に成立し、ひいてはアメリカにおいて加速されるフロンティア・スピリットは、本来、牧畜を主産業とするヨーロッパ近代文明の本質を「外に進出する力」としたわけである。これは、ヨーロッパ文明に先立つ、15〜16世紀のスペイン、ポルトガルが主導したキリスト教文明、いわゆる大航海時代の外への進出と若干その本質を異にする。
 いわゆる大航海時代の外への進出は、17世紀からのイギリスやオランダやフランスが主導した、国民国家(ネーション・ステイト)によるテリトリー・ゲームとは若干違う。大航海時代というのは、キリスト教文明の拡大、つまり各国の国王が王朝の富を拡大するとともに、その富を神に献ずる、つまり「富を天国に積む」ことを企てるものであった。

【『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一(PHP新書、2003年/岩波現代文庫、2012年)以下同】

 わかりやすい話ではあるが、牧畜がヨーロッパの主産業であったという指摘は疑わしい。ここだけ読むと、農業をしていなかったように思い込んでしまうだろう。危うい文章だ。

 更に指摘しておくと、大航海時代に至った要因には様々なものがあって、貴金属の不足によって悪貨が出回り、新たな貴金属を求めて始まったとする説もある。また、モンゴル帝国が陸上輸送という弱点(コストが高い)を抱えて崩壊していったという背景も見逃せない。松本の指摘はファウスト的衝動に含まれる。

 たとえば、西欧の牧場で羊や牛を飼っている家で、子どもが生まれたり、子どもを学校に行かせたり、あるいはもう少しいいものを食べたいと思えば、その分だけ羊や牛を増やさなければならない。仮に100頭いる羊を120頭にしたいとおもったとしたら、牧場を20パーセント分ひろげる必要がある。いわゆるエンクロージャーした土地を外に拡大しなければならないわけだ。
 こうして牧場をひろげていくと、フロンティアの精神が顕著になる。それによってヨーロッパが発展するためには、ヨーロッパ外に進出しなければならない。ニューフロンティアを求めてアメリカに渡り、アメリカで足りなければアフリカに行き、またアフリカで足りなければアジアで進出する。西欧の近代は、そういう意味で「外に進出する力」というものを文明の本質として持つようになったのである。

 これも話としては理解できるが、根拠が何ひとつ示されていない。歴史的事実であったのか、それとも単なる例え話なのかが不明だ。極端に言えば農業に置き換えることも可能な内容となっている。

 こういった牧畜文明としてのヨーロッパ・アメリカの「外に進出する力」と、農耕文明としてのアジアの「内に蓄積する力」とが激突したのが、160年まえから100年まえあたりの「西力東漸」、言い換えるとアジアにおける「ウェスタン・インパクト」であった。

 これが真実であるなら、まずヨーロッパ圏内で牧畜vs農業の激突が起こってしかるべきではないのか? 日本国内でも起こっているはずだろう。

 何だかんだと言いながら、散々腐してしまったが決して悪い本ではない。



「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
資本主義のメカニズムと近代史を一望できる良書/『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫

2010-12-14

人間が人間に所有される意味/『奴隷とは』ジュリアス・レスター


『奴隷船の世界史』布留川正博

 ・「わしら奴隷は、天国じゃ自由になれるんでやすか?」
 ・奴隷は「人間」であった
 ・人間が人間に所有される意味

『砂糖の世界史』川北稔
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

世界史の教科書

 黒い人間が白い人間に所有された。人間が人間に所有されるとはどのような状態なのであろうか? 所有する側と所有される側の間にはいかなる関係性が成立しているのだろうか? 奴隷をこき使った人々と奴隷にされた人々が過去に実在した。あなたや私はどちらの側にいるのだろうか?

 奴隷とは力によって支配された人間の異名である。欲望を実現させるために力が発動する時、そこには必ず暴力性が立ち上がってくる。

 アフリカの黒人は餌に釣られた魚も同然だった──

 アフリカでは、こぎれいなものといってはほとんどなかったし、それに赤い色の布は全然なかったんだよ、とジューディスおばあさんは言いました。じっさい、布なんて全くなかったんです。ある日のこと、青白い顔をした見知らぬ人たちが、何人かやってきて、赤いフランネルのちいさな切れっぱしを、地面に落っことしたんです。黒人たちはだれもかれもが、その切れっぱしを取りあいました。つぎには、もっと大きな切れっぱしが、もう少しさきの方で落とされました。で、こんなふうにして、とうとう川のところにまでやってきたんです。するとこんどは、大きな切れっぱしが、川の中と川の向こう岸に落とされました。落とされるたびにその布切れを拾おうとしながら、みんなは、だんだんと先の方へ誘われていったんです。とうとう船のところまでたどり着いたとき、大きな切れっぱしが、舷側から突き出した板のうえと、もっと先の船のなかに、落とされました。こんなぐあいにしてついに、おおぜいの黒人たちが、積めるだけその船に積みこまれました。すると、船の門が鎖をかけて閉められ、もう誰ももどれなくなってしまいました。こんなふうにして、アメリカへ連れてこられたんだよ、とジューディスおばあさんは言ってます。(リチャード・ジョーンズ ボトキン、57ページ)

【『奴隷とは』ジュリアス・レスター:木島始〈きじま・はじめ〉、黄寅秀〈ファン・インスウ〉訳(岩波新書、1970年)以下同】

 赤い布切れは「小さな嘘」だった。奴隷は「騙された人々」でもあったのだ。黒人たちは立つこともままならぬ船倉に閉じ込められてアメリカへ輸送された。

 アフリカは紀元前から侵略され続けてきた。多分平和な人々であったのだろう。さらわれたアフリカ人は労働力として酷使された。鞭で打たれながら──

 鞭のひびきと、黒人の男女の泣き叫ぶ声につれて、奴隷所有者とアメリカは、裕福になっていった。

 いつの時代も繁栄を支えていたのは奴隷のような人々だった。富を生むのは労働力である。繁栄とは余剰の異名であり、搾取の分け前に与(あずか)ることを意味する。

 人間が奴隷にされうる二つの方法がある。
 ひとつは、力によってだ。人間は、垣根の背後に閉じこめられ、絶えまなく見張られ、ほんのちょっとした規則でも破ったら、手ひどく罰され、絶えまない恐怖のうちに暮らすようにされうる。
 もうひとつは、主人がしてもらいたいと望んでいるとおりのことをすれば、じぶんの利益には一番かなうのだと、そう考えるように人間を教えこむことだ。その人間は、じぶんが劣っているのだと、そして、奴隷制度を通してのみ、じぶんがやっとまあ主人の《水準》にまで達しうるのだと、そう教えこまれる(ママ)ことができるのだ。
 南部の奴隷所有者は、この両方を使った。

 我々も奴隷だ。「やってられねーよな」と言って会社を休むことは許されない。現代のシステム化された国家機能において、奴隷は教育制度を通して選別される。そして最優秀の奴隷は官僚となる。あるいは一流企業への入社を許される。

 憲法や法律が変わろうとも内実は変わらない。社会とは人間が人間を手段にする修羅場なのだ。比較と競争に明け暮れながら、我々はヒエラルキー内部の階段を上がってゆくしか選択肢がない。なぜなら国家が有する軍事力や警察力(どっちも暴力ね)に依存せずして生きてゆくことができないためだ。

「柔らかな奴隷制度」とでも名づけておこう。

 じぶんじしんの名前がなくては、奴隷がじぶんを主人から切りはなして見る能力は、弱められるのだった。奴隷は、けっして、きみは誰だね、と尋ねられることはなかった。奴隷は、「だれの黒んぼだね、おまえは?」と尋ねられるのであった。奴隷は、切りはなされた本来の自分というものを、まるで持っていなかった。かれは、いつも、何某氏の黒んぼなのであった。

「名前がない」という意味については、岡真理(『記憶/物語』)やガヤトリ・C・スピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』)が鋭く考察している。

 自分は何者なのか? 生きてゆく中で難問が現れたり、苦難に襲われた時に「俺は俺だ」と言える人はまずいない。世界から取り残されたような思いに取りつかれ、誰も手を差し延べてくれない情況において人は透明な存在と化す。

 確かに哲学や宗教、そして人間関係は砦(とりで)たり得るが、最終的には自分の内なる世界でもって外部世界に対抗するしかないのだ。

 私に名前はあるだろうか? 世論調査のパーセンテージや選挙の一票としてカウントされ、要介護者400万人や死亡者数114万2467人(2009年人口動態統計)に含められ、消費者・納税者・視聴者として扱われる私に果たして名前はあるのだろうか? いつでも交換可能な部品のように働かされる私に名前はあるのか?

 国家によって私が労働力として扱われているとすれば名前はないのだろう。私は無色透明な日本人となる。すなわち国家が所有する奴隷が国民の実体ではあるまいか?

 あらゆる奴隷たちが、必ずしも同じ経験をもっていたわけではなかった。なかには、あまりにも奴隷らしくなってしまっていたので、奴隷制度が終わったとき、悲しんだものもいた。

 これがシステムの恐ろしさだ。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた世界だ。システムが人間を完全に支配すると、システムに準じて脳内のシナプス結合が行われる。特に顕著なのは宗教や政治、高度な学問世界に【依存する】人々だ。絶対的な価値観に束縛された挙げ句、物事を疑うことができなくなる。

 奴隷制度という限られた狭い世界が全世界に格上げされると、中には心地よさを覚える者まで出てくるのだ。何とも恐ろしい限りである。まったく同様に、真の自由を求めていない人は社会の奴隷といえよう。

 最後に奴隷の相対性理論を。奴隷を必要とする奴隷の所有者は、奴隷に依存していると見ることができる。つまり所有者もまた欲望の奴隷なのだ。

 所有という問題、そして比較と競争の残酷さを暴いてみせたのが、ブッダとクリシュナムルティであった。



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