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2012-10-09
2012-10-08
迫真の肖像力
いやはや、またぞろ凄いのを発見したよ。「偽りの画像が生む本物の迫真性」で紹介した klikatu's photostream に匹敵する衝撃を受けた。記事タイトルの肖像力とは「肖像が持つ力」ではない。「肖像を捉える力」である。私は画像処理を施した写真はあまり好きじゃないのだが、被写体の本質を引き出すためのデフォルメであれば歓迎する。数枚見ただけで、「これは厳選しなければ膨大な数になってしまう」と憂慮しながらも、tumblrにこれだけの枚数をアップした。撮影者は意図的に物語性を排除していると思われる。悲哀や寂寥(せきりょう)はない。ただ「ありのままの事実」にアプローチしているだけだ。その率直さが写真に独立性を与えている。どの作品を見ても心が震える。震えてならない(枚数が多いため画像を小さくしてある。是非ともクリックして元画像をご覧いただきたい)。
・Alέxandros Bairamidis' photostream
既知からの自由
「既に知っていること」で「新しいこと」を解釈するのではなくて、「新しいこと」を使って「既に知っていること」を解釈する方がいいと思う。「既に知っていること」は知っている「つもり」であるので、それ使って新しいことを受け入れるのは実は受け入れたことにならないから。
— びゅうろうさん (@bu_reau) 10月 5, 2012
これをクリシュナムルティは「既知からの自由」と表現した。
・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ
このマントラはよい。思わず一緒に口ずさんでしまった。アルボムッレ・スマナサーラはスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)シャム派の日本大サンガ主任長老を務める人物(Wikipedia)。著作も数多く刊行されている。
・仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
2012-10-07
本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・ただひとりあること~単独性と孤独性
・三人の敬虔なる利己主義者
・僧侶、学者、運動家
・本覚思想とは時間論
・本覚思想とは時間的有限性の打破
・一体化への願望
・音楽を聴く行為は逃避である
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ
サンニャーシ、同胞愛の士そしてユートピア主義者のいずれも、明日のため、未来のために生きている。かれらは世間的な意味では野心的ではなく、栄光も富も人に認められることも望んでいない。しかしかれらは、もっと微妙な形で野心的なのである。ユートピア主義者は、世界を再生させる力があると彼の信じているある集団と自分を一体化させていた。同志愛の士は、精神的高揚を渇望しており、サンニャーシは自分の目標に到達することを願っていた。いずれも彼ら自身の成就、目標達成、自己拡張に汲々としていた。かれらは、そうした願望こそが、同胞愛を、そして至福を否定するものであることが分かっていないのだ。
いかなる種類の野心も――それが集団のため、自己救済、あるいは霊的(スピリチュアル)な成就のためであれ――行為を先へ先へと引き延ばすことである。願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在(いま)は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】
書名で検索したところ自分で書いた記事を発見した。削除しようかとも思ったのだが、面倒だからそのままにしておく。私の場合、45歳を過ぎてから精神的に目まぐるしい変化を遂げているので主張の変化が激しい。
今回紹介してきたのは「三人の敬虔なる利己主義者」と題された冒頭のテキストである。オルダス・ハクスレーに促されて書き始め、クリシュナムルティにとっては初めての著作となった(※それ以前に講話集は刊行されている)。
第二次世界大戦が迫る中で平和を説くクリシュナムルティを人々は受け入れなかった。トークの途中で去ってゆく人々もいた。戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。
・コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
人々が殺戮へと駆り立てられる中でクリシュナムルティは沈黙のうちにペンを執った。
最初に書かれたのは「時間の終焉」についてであった。これはデヴィッド・ボームとの対談集タイトルにもなっている(『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』渡辺充訳、コスモス・ライブラリー、2011年)。
人生には限りがある。その時間的限定性を打ち破ろうとすれば、ただ現在に生きるしか道はない。将来や来世は所詮自我の延長戦だ。あたかも連続ドラマのように「続く」と終わりたいわけだ。残念ながら続かないよ(笑)。自我なんてものは、脳内で反復し続ける反応に過ぎないのだから。その意味から申せば、「心」や「命」という言葉は概念としては存在するが決して実在するものではない。ゆえに諸法無我となるわけだ。
生命という言葉は魂と同義であるといってよい。その意味での生命は存在しない。我々が確認し得るのは生命活動、生命反応、生命現象のみである。諸法無我とはこれなり。生命は関係性(縁起)の中でのみ発揮される。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 14, 2012
時間的有限性を死後に延長するのではなくして、現在という瞬間に無限に押し広げてゆく。これが本覚思想の本質である。検索してみたところ、私以外には本覚思想を時間論で捉えている人はいないようだ。嚆矢(こうし)と威張ってみせたいところだが、ま、クリシュナムルティのパクリに過ぎない(笑)。
「【なること】は、【あること】を含まない」――簡にして要を得た言葉は悟りそのものだ。しかも、「なること」に潜む野心まで明かしている。理想とは形を変えた欲望なのだろう。我々は自我を満たすためにあらゆるものを利用する。時間的な経過が欠乏感を埋めることは決してない。今日よりは明日に、そして今世よりは来世に希望を託しながら現在の不幸を忍ぶ。
簡単な思考実験をしてみよう。もしもあなたが「明日までの命」と医師に告げられたとしたら、最後の24時間は中途半端で無駄な時間なのだろうか? 大病を経験した人々の多くが劇的な生の変貌を遂げる。医師の井村和清は『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』の中で「世界が光り輝いて見えた」体験を綴っている。これが本覚(ほんがく)だ。
発見は老若男女を問わない。つまり本覚論である。発見を気づきに置き換えるとわかりやすい。発見する自由。/ロシア北部の11歳少年、「世紀のマンモス」を発見 写真2枚 国際ニュース : AFPBB News afpbb.com/article/enviro…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 7, 2012
無我、非我にならえば、本覚論は無理、非理なのだろう。覚り(悟り)とは「生の感受性」といってよい。生を味わい尽くす人をブッダと名づける。/超越論的認識とは何か systemicsarchive.com/ja/a/transcend…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 7, 2012
衣裏繋珠の喩えは本覚論である。/法華七喩 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 7, 2012
・時間を超える/『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
・愚かさをありのままに観察し、理解する
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
五木寛之、吉村昭、長谷川集平
2冊挫折、1冊読了。
『サイレント・ラブ』五木寛之(角川書店、2002年)/30年振りに五木寛之を読んだ。「この人は何か性的なコンプレックスがあるのだろうか?」と思った瞬間、薄気味悪くなって挫けた。150円程度の内容だ。
『漂流』吉村昭(新潮社、1976年/新潮文庫改版、1980年)/いい内容なんだが、今の私には必要がないと判断した。序盤の科白が江戸っ子に見えて仕方がなかった。土佐の読者は違和感を覚えないのだろうか?
57冊目『はせがわくんきらいや』長谷川集平〈はせがわ・しゅうへい〉(すばる書房、1976年/地方・小出版流通センター、1993年/復刊ドットコム、2003年)/著者の自伝的絵本である。長谷川は森永ヒ素ミルク事件(1955年)の被害者であった。1ページ目から涙。最後のページで滂沱。絵と手書きの文字が迫力に満ちている。多分生きることそのものが凄絶であったのだろう。時に画面が垂直方向へ歪むのは長谷川の視点の高さを示している。見返しに描かれた哺乳瓶が墓標に見えて仕方がなかった。森永乳業に善意があるなら、本書を絶版にしてはなるまい。本社の玄関に飾っておくべきだ。
2012-10-06
本覚思想とは時間論/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・ただひとりあること~単独性と孤独性
・三人の敬虔なる利己主義者
・僧侶、学者、運動家
・本覚思想とは時間論
・本覚思想とは時間的有限性の打破
・一体化への願望
・音楽を聴く行為は逃避である
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ
彼(※サンニャーシ)の関心と活力とはすべて、自分が来世においてきっとひとかどの者になるのだという確信に向けられていた。われわれはかなり長いこと話し合ったが、彼の強調点は常に、明日、未来に置かれていた。彼は言った、過去は存在するが、それは常に未来との関係においてである、と。現在は単に、未来への通路にすぎず、今日は明日あるがゆえにのみ興味を与えるにすぎないのである。もしも明日がなければ、――彼は問うた――努力して何になるのか? そうならば、人はぼんやりと、おとなしい牛のようにしている方がましだ、と言うのである。
生の全体は、過去から現在の瞬間を通って未来へと続く、一個の連続運動である。彼は言った、われわれは、未来において何かになるために現在を利用すべきなのだ、と。そしてその何かとは、賢明で、強く、情け深くなることである。現在も未来もともに一時的ではあるが、果実が熟するのは明日においてのみなのである。今日は踏み石にすぎないから、それについて気を使いすぎたり、あれこれ言いすぎてはいけない、と彼は強調した。われわれは、明日の理想を明瞭にし続け、それに向けて首尾よく旅しなければならないのである。要するに、彼には、現在ががまんならない代物だったのである。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】
来世や将来を重んじることは「現在を軽視する」という点で一致している。よく考えてみよう。技術の獲得や学問の体得には時間を要する。確かに蓄積や経験が必要だ。しかし「生のアート」を同じ次元で考えてはなるまい。真の幸福が自由を悟ることであれば、それは技術ではないはずだ。
知識の習得と聡明であることも同様だ。こうしたことを混同するがゆえに我々の生は技術志向となり、機械化してゆくのである。ただ、のんべんだらりと寿命を永らえることを「生きる」とはいわない。
「成仏」という言葉には二つの読み方がある。「仏に成(な)る」と「仏と成(ひら)く」。「なる」と読めば来世志向で、「ひらく」と読めば本覚論である。
・本覚論の正当性/『反密教学』津田真一
つまり本覚思想とは時間論なのだ。凡夫即仏は「凡夫がそのまま仏」という意味ではなくして、「凡夫であり仏でもある」と読むのが正しいのだろう。煩悩即菩提も一緒だ。「煩悩がそのまま菩提と【なる】」と読むのではなく、「煩悩があり菩提も具(そな)わる」と水平次元で見つめているのだ。左脳に煩悩、右脳に菩提ってわけだよ。
もうひとつ付言すると、日蓮遺文において本覚思想が濃厚なものは偽書の可能性が高いと判断されているが、ひょっとすると作成者の意図は「初期仏教への原点回帰」にあったのかもしれない。
サンニャーシ(出家者)の言葉を吟味してみよう。「過去は存在するが」――本当にそうだろうか? 存在するのであれば確認できるはずだ。では過去はどこにあるのだろうか? それは「記憶」の中だ。もう一歩突っ込むと、「現在の記憶」の中に過去は存在するのだ。記憶喪失や日常的な忘却によって消えてしまうような存在といってよい。
人生は川の流れに例えられる。過ぎ去った流れを辿ることは可能だろう。しかし観測した時点でそれは現在となるのだ。おわかりだろうか? 本当は過去も未来も存在しない。我々はただ「現在」を生きるのだ。
・川はどこにあるのか?
資本主義経済は全参加者を「ひとかどの者になる」競争へと駆り立てる。我々は今日の苦役に耐えながら明日を目指して走り続ける。「24時間戦えますか」(リゲインCM)――戦えるとも。こうして多くの人々が過労死していった。
人間最後は死ぬのである。理想主義や未来志向は死によって灰燼(かいじん)に帰す。【続く】
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
2012-10-05
遺伝子組み換えの餌を与え続けたラットに突出した死亡率
モンサント社のGMO(遺伝子組み換え作物)の餌を2年間与え続けたラットに腫瘍が発生し、突出した死亡率を記録している。
・モンサント社が開発するターミネーター技術/『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
福島県の農民と漁師によるデモを報じないメディア
今日は、福島県の農民と漁師あわせて2500人がデモ行進して、東電前に押しかけているのですが、テレビはニュース番組で全く取り上げませんでした。どういうことなのでしょう。これ、JAと漁協のデモですよ。市民団体の主催じゃない。少し前なら、必ず大きな扱いで放送したはず。#genpatsu
— 世に倦む日日さん (@yoniumuhibi) 8月 12, 2011
僧侶、学者、運動家/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・ただひとりあること~単独性と孤独性
・三人の敬虔なる利己主義者
・僧侶、学者、運動家
・本覚思想とは時間論
・本覚思想とは時間的有限性の打破
・一体化への願望
・音楽を聴く行為は逃避である
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ
先日、三人の敬虔な利己主義者が私のところにやってきた。一人は、〈サンニャーシ〉、世俗を断念した人物であった。二番目は、東洋学者(オリエンタリスト)であり、同朋愛の熱烈な支持者であった。三番目は、すばらしいユートピアの実現を確信している活動家であった。三者はそれぞれ、各自の仕事を熱心に務めていたが、他の二人の心的傾向や行動を見下(くだ)しており、各自の確信によって身を固めていた。いずれもその特定の信念形態に激しく執着しており、三人とも奇妙な具合に他人に対する思いやりが欠けていた。
かれら三人は――ユートピア主義者は殊にそうであったが――自分の信ずることのためであれば、自分自身だけでなく友愛をも犠牲にする覚悟がある、と私に言った。かれら三人は――同朋愛の士はとりわけそうであったが――温厚な様子であったが、そこには心の硬さと、優秀な人間特有の奇妙な偏狭さがあった。自分たちは選ばれた人間であり、他人に説明して聞かせる人間であった。かれらは知っており、確信を持っているのであった。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】
大衆とは労働者の異名である。ビジネスパーソンと言い換えれば颯爽とした印象を受けるが、所詮形を変えた奴隷にすぎない。こうした搾取に抵抗する立場が僧侶、学者、運動家であろう。温度やアプローチ方法は異なるが彼らは一様に社会改革を目指す。
「三人の敬虔な利己主義者」は「他の二人の心的傾向や行動を見下(くだ)しており、各自の確信によって身を固めていた」――絶妙な表現だ。彼らは「自分こそが正しい」と考える人々であった。普通の頭を持っていれば「自分以外はすべて誤っている」という思い込みが幼稚な傲慢であることに気づく。しかし彼らは気づかない。「自分たちの理想を疑う」ことを知らないためだ。理想の奴隷と化した彼らは必然的に他の人々を手段化する。過激な原理に彩られた政治・宗教を見よ。随所に様々な様相をした自爆テロが見受けられる。
三人はそれぞれクリシュナムルティを説得したに違いない。自分たちの側にクリシュナムルティを引き入れようと試みた可能性もある。だがクリシュナムルティはただ彼らをじっと見つめ、あるがままの姿を観察していた。賛否や評価から離れた筆致が玲瓏(れいろう)な月光を思わせる。【続く】
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
2012-10-03
【ポリウレタン防寒防水手袋】ダイローブ・102F インナーが出せる二重防寒手袋
冬の雨に備えてバイク用の防水手袋を物色し続けてきたが最終的にこれで決まり。
DAILOVE(ダイローブ)のポリウレタン防寒手袋、雪かき、作業に!【防寒防水手袋】ダイローブ・... |
2012-10-02
小野田寛郎の盟友・小塚金七の最期
小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉がルバング島で任務解除~投降(※横井庄一と異なり発見されたわけではない)したのが1974年のこと。実はその2年前に盟友であった小塚金七がフィリピン警察によって射殺された。小野田の著作では触れられていないが、吉村昭著『漂流』(新潮社、1976年/新潮文庫改版、1980年)でフィリピン法医学官の検視証明書が紹介されている。吉村は被弾した小塚が島民の手で撲殺されたとしているが、実際は遺体損壊だったのではないか。いずれにしても小野田の手記を読んできた一人として歴史の事実に粛然とせざるを得なかった。
・陸軍中野学校の勝利と敗北を体現した男/『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
・言葉の重み/『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎
・小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月
・ザ・ラスト・サムライ~小野田寛郎
清水潔著『桶川ストーカー殺人事件 遺言』が増刷
ひとりの週刊誌記者が、殺人犯を捜し当て、警察の腐敗を暴いた……。埼玉県の桶川駅前で白昼起こった女子大生猪野詩織さん殺害事件。彼女の悲痛な「遺言」は、迷宮入りが囁かれる中、警察とマスコミにより歪められるかに見えた。だがその遺言を信じ、執念の取材を続けた記者が辿り着いた意外な事件の深層、警察の闇とは。「記者の教科書」と絶賛された、事件ノンフィクションの金字塔! 日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞受賞作。
・腐敗しきった警察組織/『桶川ストーカー殺人事件 遺言』清水潔
「ボニーとクライド」の拳銃2丁が競売に、合計3900万円で落札
1930年代の米国で強盗を繰り返した男女2人組「ボニーとクライド」が射殺されたときに所持していた拳銃2丁が9月30日、米ニューハンプシャー(New Hampshire)州ナシュア(Nashua)で競売にかけられ、合わせて50万ドル(約3900万円)以上で落札された。競売会社RRオークションズ(RR Auctions)が1日に発表した。
ボニー・パーカー(Bonnie Parker)が持っていた38口径のコルト(Colt)製回転式拳銃「ディテクティブ・スペシャル」は26万4000ドル(約2060万円)で、クライド・バロウ(Clyde Barrow)が持っていた45口径のコルト製セミオートマチック拳銃「ガバメント」(M1911)は24万ドル(約1870万円)で競り落とされた。落札者はテキサス(Texas)州の収集家で匿名を希望している。
ボニーとクライドは1930年代、米国中部で多数の強盗や警官数人の殺害といった悪事を働いて大恐慌が始まったばかりの同国で伝説的存在となったが、1934年5月にルイジアナ(Louisiana)州ビエンビル(Bienville)郡で警官隊に待ち伏せされ、ボニーは23歳、クライドは25歳で射殺された。
落札された2丁の拳銃は文字通り2人の遺体から回収された珍しいもの。ボニーの銃は太ももに医療用テープで固定され、クライドの銃はズボンのベルトの下に差し込まれていた。
拳銃はテキサス州の作家で収集家の故ロバート・デービス(Robert Davis)氏が所有していたもので、競売にはこのほか、同氏のコレクション130点余りが出品された。コレクションには多数の銃弾が撃ち込まれたボニーとクライドの車から見つかった、女性用のシルク製ストッキング、未使用の銃弾1個、眼鏡のつる1本、小型のねじ回しとアスピリンの空き瓶も含まれており、5品セットで1万1400ドル(約89万円)で落札された。
【AFP 2012-10-02】
・ボニーとクライド~映画『俺たちに明日はない』
2012-09-30
ということは事故が起こった原発も安全
事故が起こっていない原発は安全だから動かす。動いている原発は安全だから動いてる。だから動かし続ける。事故が起こった原発は、事故以前には安全に動いていたということは安全だったはずだから事故が起こるのはおかしいのだから実質的には安全。ということは事故が起こった原発も安全。
— 小田嶋 隆さん (@tako_ashi) 9月 30, 2012
本覚論の正当性/『反密教学』津田真一
・本覚論の正当性
・本覚思想とは時間論/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
上級者向け。私の知識不足もあるのだろうが、どうもこの手の本は知に傾いて、溺れているような印象を受ける。ところどころで嫌な臭いが鼻につく。
尚、「改訂新版」には「『法華経』・願成就の哲学」という論文が追加されている。
個人的にはブルトマンを読んだ直後にブルトマンの名を目にしたのが嬉しい驚きであった。
・新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
書き始めたものの遅々として進まないので、覚え書きを断続的に記しておこう。
「印」とは端的にシールあるいはスタンプ、すなわち何らかの文書や証書に或る人は法人の名前を押す印鑑、ないしは、それによって押されたその人や法人の名前の痕跡のことです。日本では、例えば詔勅といって天皇の声明や宣言が発せられるとき、それが書かれた紙に天皇の【印】、すなわち玉璽が押され、その声明や宣言の絶対性・絶対的な真理性を、その声明や宣言を発した主体である天皇の【存在】において表示します。天皇の【印】は天皇の権威の表示であり、それにとどまらず、さらに、天皇の【存在】の表示なのです。すなわち、その【印】において天皇が現にそこに存在している、さらに言うならば、その【印】が天皇をそこに存在せしめているのです。このことは、アナロジーとして、そのまま『法華経』が「実相」すなわち「法の自性」の「印」であることにあてはまります。
【『反密教学』津田真一(春秋社、2008年改訂新版/リブロポート、1987年)以下同】
署名捺印の法的根拠もこの辺にあるのだろう。アナロジーについては以下を参照されよ。
・アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
・アナログの意味/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆
しかしだな、こんな言い分は所詮、大乗仏教ルールに基づく考えであって、外野~観客席~球場外の社会にまで響く言葉ではない。確かにシンボルという点ではマンダラを考えるヒントにはなり得る。だがそこを突き詰めてゆくと、必然的に言葉のシンボル性にまで辿り着いてしまう。「人間は個々の解釈世界に生きる動物である」と私が考えるのはこのためだ。経典・教義は受け手(=信者)の解釈によって歪められる。
水戸黄門の印籠は水戸黄門そのものではない。にもかかわらず水戸黄門を直接知らない人々にとっては、本人以上に印籠の方が社会機能を果たすのである。これを悪用したのが印章偽造や印鑑盗難だ。
つまり法華経が悟りや真理を表現したものであったとしても、それ自体が悟りそのものではないということだ。
「一乗」とは、やはり、「すべての人は【成仏できる】」、「【仏になりうる】」という思想ではなく、(その前半において)「すべての人は【すでに仏なのである】」(【引用二】における第六一偈)という思想なのです。そして、(おなじ第六一偈における)「その請願はすでに満たされている」という一句が見落とされているが故に、敢えていうならば、件の〈『法華経』のゲニウス〉の見えざる手によって平川博士の慧眼さえも覆われていたが故に、博士ですら、ついにその認識には立ち得なかったのです。
と前置きした上で津田はこう述べる。
したがって、「一乗」とは、その完全な形式においては、(ひとまず、)
〈汝は(ないしは一切衆生は)すでに【仏なのである】〉 しかも、 〈汝は(ないしは一切衆生は、すでに【仏である】にもかかわらず、修行して自(みずか)ら仏に【なるべきなのである】)〉
という命題によって指し示されるべき思想なのであります。この命題は、〈「直接法 INdikativ〉」、しかも、「命令法 Imperativ」〉という、完全な弁証法形式をとっておりますが、このことを念頭に入れた上で、議論を、さきに触れた問題、すなわち、『法華経』が「実相の【印】」、「法自性【印】」であるとして、この「一乗」ということをその「実相」、「法自性」とそのままイコールにしてよいのか、という問題、逆に言うなら『法華経』とはこの「一乗」という論理としての真理を説く経典なのだ、と言ってそこで終ってしまってよいのか、いや、そうではなくて、その奥にもう一つ真の問題、『法華経』の思想の究極の問題があるのではないか、という問題に戻したいと思います。
これを卓見とすべきではあるまい。原典に忠実であろうとする求道心が誠実な解釈を可能にしたのだ。
そもそも大乗仏教自体が教団の政治力学に彩られた存在であったことだろう。思想的進化といえば聞こえはよいが、その実態は政治性に基づいた理論武装であったと私は推察する。部派仏教を「小乗」と貶(けな)す姿勢に高い精神性は見受けられない。
では私なりに敷衍(ふえん)してみよう。まず大前提として宗教はスポーツではない。これを見落とす人が意外と多い。スポーツや芸術など身体が伴う技能を有する人々はそれぞれ何らかの真理を探り当てている。我々はともするとこの延長線上に宗教や信仰を位置づける。
「するとあれか、練習なしでイチローになれるってことか?」とついつい考えがちだ。しかしそうではない。「悟る」とは「気づく」ことだ。気づきは老若男女という条件に支配されない。時に子供の言葉や詩歌に大人が深い感動を覚えるのもこれが理由だ。
・子供の詩
・『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
・女子中学生の渾身の叫び/『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
すなわち悟りとは経験や学識に左右されるものではない。ここ、アンダーライン。修行をしなければ成仏できないとの論理は、大人にならなければ悟りを得られないと言っているようなものである。とすれば夭折(ようせつ)は修正の効かない不幸と化す。
もしも悟りに時間を要するのであれば、「悟っていない現在」は否定される。このようにして我々は「何者かに【なる】」ことを強要されるのだ。「今がどんなに苦しくとも将来のために頑張れ」などと。
時間を必要とするのは知識や技術であろう。悟りとは正真正銘の自由を意味する。ブッダはただ「離れよ」と教えたはずだ。
現在という一瞬の中に無限の広がりを見つめたのが仏法である。瞑想は何十年も先のゴールを目指して行うべき代物ではあるまい。
それでも尚、修行必要論にしがみつく大乗信徒どもに私は尋ねよう。「でさ、修行して悟りを開いた人ってどこにいるの?」と。悟りが「教わるもの」であれば、それは知識なのだ。
「〈汝は(ないしは一切衆生は、すでに【仏である】にもかかわらず、修行して自(みずか)ら仏に【なるべきなのである】)〉」――同じことをクリシュナムルティが鮮やかに言い切っている。
「いったんはじめられ、正しい環境を与えられると、気づきは炎のようなものです」 クリシュナムルティの顔は生気と精神的活力で輝いた。「それは果てしなく育っていくことでしょう。困難は、その機能を活性化させることです」
【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】
クリシュナムルティの言葉が次々と浮かんでくる。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです」「理想を否定せよ」「あらゆる蓄積は束縛である」「心は心配事から自由でなくてはならない」「悟りはそれ自体が歓喜である」「生それ自体が君の師で、君は絶えず学んでいる境地にいます」「〈もっとよいもの〉は〈よいもの〉ではありません」「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです」……。
「人はどのようにして変容し、『なる』(ビカミング)から『ある』(ビーイング)ことへのこの根源的変化を起こしたらいいのでしょう?」――クリシュナムルティの問いかけによって私は本覚論の本質を悟った。
こうしたことは既に事実として判明しつつある。ジル・ボルト・テイラー著『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』によれば、右脳は常に悟っている状態らしい。
2012-09-29
マーサ・スタウト著『良心をもたない人たち 25人に1人という恐怖』が文庫化
一見、魅力的で引きつけられるが、身近につきあってみると、うそをついて人を操る、都合が悪いと空涙を流して同情を引き、相手に「自分が悪い」と思わせる、追いつめられると「逆ギレ」して相手を脅しにかかる……そんな人たちがいる。彼らは自分にしか関心がなく、他者への愛情や責任感によって行動が縛られることがない。つまり「良心」をもたないのだ。出世であれ遊び暮らすことであれ、手段を選ばず自分の欲求をみたそうとするので、周囲の人は手ひどいとばっちりを受ける。だが本人は悪びれず、自分こそが被害者だと言いつのる。本書は、25人に1人いるという「良心のない人」の事例をタイプ別に紹介し、もし彼らにかかわってしまったらどうればいいのか? 事前に見分ける方法はあるのか? そんな疑問にすべて答えてくれる。
・人格障害(パーソナリティ障害)を知る
ニーチェ、北川貴英、他
2冊挫折、1冊読了。
『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』ニーチェ:適菜収〈てきな・おさむ〉訳(講談社+α新書、2005年)/語尾に作為を感じる。その邪(よこしま)な意図に誑(たぶら)かされるほど私は若くない。やはり、『ニーチェ全集 14 偶像の黄昏 反キリスト者』を開くべきだ。
『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)/飛ばし読み。冒頭に古今亭志ん生を持ってくるあたりが憎いところ。斎藤隆介とサローヤンが面白かった。
56冊目『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英(マガジンハウス、2011年)/数年前から呼吸法や瞑想を研究しているのだが、いざ実践となると中々難しいものだ。私は本書で呼吸法が格段に上達した。「システマ」とは旧ソ連軍の格闘術であり、合気道と似た発想をするようだ。呼吸を意識すること、呼吸を見つめることから瞑想は始まる。しっかりと呼吸をコントロールすれば劇的に視野が広がる。
2012-09-28
目撃された人々 29
よちよち歩きの女の子が恐るべき注意力を払って周囲を見回していた。「初めて見る」驚きにあふれているような瞳であった。その視線が私の顔で止まった。ニヤリと笑って見せたのだが、幼児の目は丸く見開かれたままだった。2~3mと離れたところで若いお母さんが蛇行しながら歩く子供を見守っていた。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
このお母さんが偉いのは子供を誘導せず、自主性に任せていたことだ。きっと彼女も親御さんから大切に育てられたのだろう。擦れ違ってから少し経って私が振り向くと、女児も同時に振り返った。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
私が「見るものは」と呟くと、幼児が「見られるものである」と囁いた。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
最後のは作り話だ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 28, 2012
・目撃された人々(旧)
2012-09-25
「 Boom!(ブーン!)」マイア・ヒラサワ/九州新幹線CM総集編
2012-09-24
ジャパン・ハンドラーズが来日
来月、アーミテージ、ナイ、キャンベル、ハムレCSIS所長、マイケルグリーンが来日する。日経CSISシンポでは彼らの他に玄葉外相、前原誠司、石破茂、北岡伸一、藪中三十二が講師⇒bit.ly/1Zmqyp 翌日⇒bit.ly/PuOBlM ※どちらも日経。
— HEATさん (@HEAT2009) 9月 24, 2012
プロジェクション・マッピンク「The 600 Years」
1410年に作られた天文時計の600周年記念イベントでのプロジェクション・マッピング(2010年10月9日チェコ・プラハ)。
The 600 Years from the macula on Vimeo.
2012-09-23
Bob Dylan - I Shall Be Released のカバー9曲
私はボブ・ディランをまったく聴かないのだが、カバー作品は好んで聴くという変則的なファンである。ビートルズやプレスリーも歌っていたとは知らなかった。他にもたくさんあるのだが出来のいいものだけピックアップした。
2012-09-22
原発ゼロ「変更余地残せ」 閣議決定回避 米が要求
野田内閣が「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前、米政府側が閣議決定を見送るよう要求していたことが21日、政府内部への取材で分かった。米高官は日本側による事前説明の場で「法律にしたり、閣議決定して政策をしばり、見直せなくなることを懸念する」と述べ、将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めていた。
政府は「革新的エネルギー・環境(エネ環)戦略」の決定が大詰めを迎えた9月初め以降、在米日本大使館や、訪米した大串博志内閣府政務官、長島昭久首相補佐官らが戦略の内容説明を米側に繰り返した。
14日の会談で、米高官の国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官はエネ環戦略を閣議決定することを「懸念する」と表明。この時点では、大串氏は「エネ戦略は閣議決定したい」と説明したという。
さらに米側は「2030年代」という期限を設けた目標も問題視した。米民主党政権に強い影響力があるシンクタンク、新米国安全保障センター(CNAS)の(パトリック・)クローニン上級顧問は13日、「具体的な行程もなく、目標時期を示す政策は危うい」と指摘した。これに対して、長島氏は「目標の時期なしで原発を再稼働した場合、国民は政府が原発推進に突き進むと受け止めてしまう」との趣旨で、ゼロ目標を入れた内閣の立場を伝えていた。また交渉で米側は、核技術の衰退による安全保障上の懸念なども表明したという。
エネ環戦略は14日に決めたが、野田内閣は米側の意向をくみ取り、「エネ環政策は、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という短い一文だけを閣議決定。「原発稼働ゼロ」を明記した戦略そのものの閣議決定は見送った。
大串、長島両氏は帰国後、官邸で野田佳彦首相に訪米内容を報告している。
政府関係者は「事前に米側に報告して『原発稼働ゼロ』決定への理解を求めようとしたが、米側は日本が原発や核燃サイクルから撤退し、安全保障上の協力関係が薄れることを恐れ、閣議決定の回避を要請したのではないか」と指摘している。
◆「判断変えてない」大串政務官
原発ゼロをめぐる米国との協議について、大串博志内閣府政務官は21日、本紙の取材に対し「個別のやりとりの内容は申し上げられないが、米側からはさまざまな論点、課題の指摘があった。米側からの指摘で日本政府が判断を変えたということはない」と話した。
◆骨抜き背景に米圧力
《解説》「原発ゼロ」を求める多数の国民の声を無視し、日本政府が米国側の「原発ゼロ政策の固定化につながる閣議決定は回避せよ」との要求を受け、結果的に圧力に屈していた実態が明らかになった。「原発ゼロ」を掲げた新戦略を事実上、骨抜きにした野田内閣の判断は、国民を巻き込んだこれまでの議論を踏みにじる行為で到底、許されるものではない。
意見交換の中で米側は、日本の主権を尊重すると説明しながらも、米側の要求の根拠として「日本の核技術の衰退は、米国の原子力産業にも悪影響を与える」「再処理施設を稼働し続けたまま原発ゼロになるなら、プルトニウムが日本国内に蓄積され、軍事転用が可能な状況を生んでしまう」などと指摘。再三、米側の「国益」に反すると強調したという。
当初は、「原発稼働ゼロ」を求める国内世論を米側に説明していた野田内閣。しかし、米側は「政策をしばることなく、選挙で選ばれた人がいつでも政策を変えられる可能性を残すように」と揺さぶりを続けた。
放射能汚染の影響により現在でも16万人の避難民が故郷に戻れず、風評被害は農業や漁業を衰退させた。多くの国民の切実な思いを置き去りに、閣議での決定という極めて重い判断を見送った理由について、政府は説明責任を果たす義務がある。(望月衣塑子)
【東京新聞 2012年9月22日】