・『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
・『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三
・琉球漂流民殺害事件と台湾出兵
1868年に、アジアに異変が起こった。日本が明治維新をおこし、近代国家に変容したのである。
周辺の中国・朝鮮は、儒教という超古代の体制のままだったから、この衝撃波をうけた。
近代国歌である手はじめは、国家の領土を、アジア的「版図」の概念から脱して、西洋式の領土として明確にすることだった。ただし、国際法など法知識については、明治初期政権は、御雇(おやとい)外国人から借りた。
たとえば琉球は、両属(清の版図と日本の版図)だった。
たまたま明治4年(1871)、琉球国の島民66人が台湾の東南海岸に漂着し、そのうち54人が山地人に殺された。山地人は、西海岸の漢人だとおもったという。
日本はあざやかすぎるほどの手を打った。まずその翌明治5年9月、琉球王国を琉球藩にし、国内の一藩とした。清はのどかにもこれに対し、抗議を申し入れなかった。
殺された琉球の島民は、日本人になった。この基礎の上で、使者を北京に送り、清朝に抗議した。
清側は口頭でもって、「台湾の蛮民は化外(けがい)の者で、清国の政教はかれらに及ばない」と答弁した。
日本はその後、一貫してこの口頭答弁を基礎とし、台湾東半分は無主の地であるという解釈をとった。
その後、清国は表現を変えた。両国のあいだで水掛け論がかさねられた。
この時期、明治維新の主勢力だった旧薩摩藩(鹿児島県)が、新政府に不満で、半独立を維持し、他の府県の不平士族とともにいつ暴発するか、きわどい状態にあった。
日本政府は、国内に充満したガスを抜くべく、まったく内政的配慮から、兵を台湾東部に出した。明治7年(1874)のことである。
清国は、おおらかだった。
ほどなく、清国はこの討伐費を日本に支払ったのである。支払うことによって、清国は台湾東部が自国領であることを証拠づけた。
さらに清国は台湾が自国領であることを明確にするために、明治18年(1885)、台湾を台湾省に昇格した。つまり、“国内”になった。“国内”は、10年つづいた。
明治27~28年(1894~95)、日清戦争がおこり、下関条約の結果、台湾は日本領になった。
【『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎(朝日新聞社、1994年/朝日文庫、2009年)】
琉球と台湾がチベットやウイグルと重なる。帝国主義の大波が小国を呑み込む。戦争の勝敗を分けたのは戦術よりも武器の進化であった。科学の進歩は戦争によって花を開かせてきた。第一次世界大戦(1914-1918年)では迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・戦車・戦闘機が登場した。第二次世界大戦(1939-1945年)は空中戦の様相を示し、ドイツの弾道ミサイル「V2ロケット」が生まれ、アメリカの原爆が日本に止(とど)めを刺した。二度の大戦は戦争を国家の総力戦に変えた。
台湾に漂着した琉球民は首を狩られた。「出草」(しゅっそう)である。これを「琉球漂流民殺害事件」という。悲惨ではあるが異なる文明の衝突が生んだ事故であったのだろう。
映画『セデック・バレ』を観てから私の内側で台湾への関心が高まった。それから八田與一〈はった・よいち〉を知り、高砂義勇隊を知った。
戦争を経験した台湾の老人たちには、いまだ大和魂が受け継がれているという。