・『免疫の意味論』多田富雄
・『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
・身体障碍の現実
・『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄
・『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
・『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
・『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
そのとき突然ひらめいたことがあった。それは電撃のように私の脳を駆け巡った。昨夜、右足の親指とともに何かが私の中でピクリと動いたようだった。
私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので決して元に戻ることがないくらいのことは、良く理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてあり得ない。神経細胞の再生医学は今進んでいる先端医療の一つであるが、まだ臨床医学に応用されるまでは進んでいない。神経細胞が死んだら再生することなんかあり得ない。
もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを摑むんだとしたら、それは私ではない何者かが摑むのだ。
私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った。得体のしれない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるもののに期待と希望を持った。
新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重(どんじゅう)だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた。
【『寡黙なる巨人』多田富雄(集英社、2007年/集英社文庫、2010年)】
多田富雄は脳梗塞で右麻痺となり言葉を失った。嚥下(えんげ)障害の苦しさを「自分の唾に溺れる」と記している。感情の混乱についても赤裸々に書いており、妻への感謝を表現できずイライラばかりが募る様子に身体障碍(しょうがい)の現実が窺える。それでも多田は表現することをやめなかった。本書は左手のみのタイピングで著した手記である(柳澤桂子)。
地べたに叩きつけられたような現実の中で多田は大いなる生の力を実感した。「寡黙なる巨人」とは卓抜したネーミングである。不思議な運命の糸を手繰り寄せ、生かされている事実を見出すことは難しい。決して大袈裟ではなく「全てを失った」時に“生きる力を奮い立たせる”といった言葉はあまりにも軽すぎる。ルワンダ大虐殺やシベリア抑留にも匹敵する極限状況といってよい(『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル)。
「凄いなあ」と感心して終われば他人事である。そうではなく我々の日常も「小さな極限状況の連続」と捉えるべきだ。命に関わるような重大な出来事はなくても、些細な暴力や抑圧、恐怖や不安はあるものだ。そこでどう判断して動くか。ただただ耐えているだけなら、いつか殺される日を待っているようなものだろう。いじめやパワハラも最初は小さな仕打ちから始まる。その時「やがて命に関わる問題になる」と見抜くことができれば対応の仕方は変わってくるだろう。
多田が体の自由を奪われた時に見出した「巨人の力」を私は自分の内側に感じない。私は本当に生きているのだろうか?