2020-08-09
2020-08-03
命のつながり/『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
・『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
・『心晴日和』喜多川泰
・『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
・命のつながり
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
・『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
・『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰
・『ソバニイルヨ』喜多川泰
・『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰
秀平は自分の命の重み、そしてつながりを感じていた。
自分の人生は、自分以外のものに生かされてきた歴史だ。
祖父の代が、命をかけてつないでくれた命を、両親がまた命をかけてつないでくれた。そして、それは子供たちのために自分の命をかける決意をしてくれた人たちの歴史でもあった。
秀平は電車の中にいる見ず知らずの人たちの顔を見た。
そこにいつもの顔ぶれはなく、多くは、お盆休みに入り、買い物に出かけるカップルや帰省のために大きなリュックをしょった小学生らしき子供を連れた家族連れだった。
思わず、平壌に帰る汽車に乗っている、俊子を膝に抱えた正一と理津子と千鶴子、そして義雄、浪江の姿が脳裏に浮かんだ。
「ここにいる一人ひとりも一緒だ。俺のじいちゃんたちのように命をつないでくれた先人たちがいたからこそ、今ここにいるんだ」
自分が知るはずもない時代の空気を吸うことによって肌で感じたのは、秀平が見た自分の家族の過去の歴史は、この国に住む、すべての家族の過去でもあるということだった。
あの時代に、命をかけて家族の命を守り、命を捨てて家族の命を守ろうとしたのは、義雄や浪江、英司だけではない。
あの時代のすべての人たちがそうだったのだ。
誰一人として、安全なところにいて難を逃れた人などはいない。
秀平は、見知らぬ人一人ひとりの肩をたたき、
「なあ、お互い、よくここまで命をつないでもらったよな。本当にありがたいよな」
と言って回りたいほどの感動が波のように何度も押し寄せてきた。
【『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年/大和書房、2011年『母さんのコロッケ 懸命に命をぐなぐ、ひとつの家族の物語』改題・新作短篇)】
2冊読む羽目になった。出版社の意向もあるのだろうが古い作品がわからなくなる改題には問題がある。タイトルに英文を入れるのも妙に気取った印象があって好きになれない。ゴーギャンのパクリっぽい。しかも新作短篇の出来があまりよくない。
喜多川の小説は当たり外れがはっきりしているのだが本書は当たりだ。私塾を立ち上げる主人公には喜多川自身の経験が反映されていることだろう。
キヨスクで偶然買った「ルーツキャンディ」を舐(な)めると祖父や父の体験が目の前で繰り広げられる。最初はわけがわからなかったが主人公は徐々に「自分がどこから来たか」を知る。歴史を学ぶと全てを知った気になるが実はそうではないことがわかる。我々は自分の父や祖父の感情の軌跡すら知らないのだ。自分の誕生をどれほどの喜びで迎えてくれたか。家族のためにどのような思いで戦争に臨んだか。そうした感情の一つひとつが人類の歴史を織り成しているのだ。
命はつながり、そして流れる。人々の思いは確かな痕跡となって大河の方向を決めるのだろう。
2020-08-02
2020-08-01
高砂義勇隊員は糧秣を届けた直後に餓死した/『証言 台湾高砂義勇隊』林えいだい
・『高砂族に捧げる』鈴木明
・高砂義勇隊員は糧秣を届けた直後に餓死した
私は帰還した朝鮮人特別志願兵を韓国に訪ねた。
日本軍は敵の物量作戦による徹底的な攻撃にさらされた。熱帯特有の人間を寄せつけない自然環境による病気、そして飢餓で兵士はバタバタと倒れていった。戦闘よりも大部分の兵士が、病気と飢餓で命を落としたのであった。
いよいよ食べる物がなくなるにつれて、自分の小便を飲んだり、友軍の兵士を殺して食べたと、元皇軍兵士たちは告白した。
「敵兵よりも友軍の日本兵のほうが怖かった。将校でさえも例外ではなく、殺人集団に入って戦友を射殺して食った」といった。
それまで射殺した敵兵の人肉を食べた話が戦友会で語られているということは聞いたことがある。しかし、友軍の日本兵の人肉を食べたとは、私にはとても信じられないことだった。飢餓に陥ると、人間は最後の一線さえも越してしまうものかと、戦争のもたらした悲劇に息をのんだ。飢餓は人間を変えてしまうものだ。もし自分自身が、生か死かの極限の状況に置かれた場合、あえて死を選ぶ勇気が果たして自分にあるのだろうかと自問した。
ソウルの張炳黙さんの第二十師団第七十八連帯では、千数百人のうち二人しか帰還しなかったという。彼は五十余回の戦闘で、負傷二十五個所、貫通傷五個所、盲貫二十余個所、体は蜂の巣のように穴だらけ、いまも銃弾や破片が残っている。まさに生きていることが不思議である。
糧秣がなくなった時、張さんは同胞が友軍の人肉を飯盒で煮て食べているのを見た。食べたい誘惑にかられて、つい手を出そうとして止めた経験を語ってくれた。
「台湾の高砂義勇隊がわが部隊に糧秣を担送していたが、彼らの律儀さには驚いたよ。自分は食べないで、担送してきた途端に死んじゃった」
と、全羅南道の金在淵は語るのだった。
その高砂義勇隊員は、ジャングルの湿地帯を通り、険しい山を越えて四十キロの行程を、何日もかけて背負子で担送してきて、飢えのために死んだと説明した。
「俺なら自分で食ってしまうよ。日本軍に義理立てして死ぬことはない。馬鹿馬鹿しいったらないよ。とにかく高砂義勇隊は正直というか、日本の国のためにといって死んでいったよ。朝鮮人の志願兵なら、まず自分が生きることを先に考える」
自分は飢えても、担送した糧秣を届けて死んだという話に、私は深い感動を覚えた。
【『証言 台湾高砂義勇隊』林えいだい(草風館、1998年)】
わざわざ「元皇軍兵士たち」と書いたのは林の父親が特高警察に拷問されて死んだことに対する恨みが込められているのだろう(Wikipedia)。日本を愛することはできなかったに違いない。国家の誤ったハンドリングが敵対者を作ることは決して少なくない。戦時中の思想取り締まり、シベリア抑留の放置、水俣病患者の補償問題、野放し状態の学生運動、薬害問題、災害対策、そして拉致被害など、この国はきちんと国民を守る気があるようには見えない。その延長線上にいじめ被害がある。
高砂義勇隊は軍属であった。原住民ということで何らかの差別があったのかもしれない。優れた五感、抜きん出た身体能力で高砂族は行き詰まった日本軍を強力にサポートした。そんな彼らに対して日本は無保証・給与未払いで応じた(Wikipedia)。こんな国は戦争に敗れて当然だ。私はどうしても大東亜戦争を賛美する気になれない。
台湾には今でも「日本精神」(リップンチェンシン)という言葉がある(日本精神│日本台湾平和基金会)。そして高砂族は戦後も大和魂のままに生きた。東日本大震災の時は人口2350万人の台湾が253億円もの義捐(ぎえん)金を寄せてくれた(データで見る東日本大震災の台湾からの義援金250億円 | nippon.com)。先日物故された李登輝元総統や蔡英文総統は常々日本語でメッセージを送ってくれている。そんな世界一の親日国である台湾と日本は国交すら結んでいないのだ。中国に侵略されるのは時間の問題だろう。安全保障はアメリカに依存し、経済は中国に依存するというだらのしない国に落ちぶれてしまった。「自主・独立」といった言葉を気安く語る政治家を絶対に信用してはならない。
日本は直ちに台湾と国交を結び、重ねて安全保障条約を締結すべきである。
2020-07-31
シベリア抑留を援護射撃した社会党
シベリア抑留 > 日本側の対応
1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。
1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている。
1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見や国会での報告で「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」などと虚偽の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追及を受けている。
【Wikipedia】
もはやソ連の手先といってよい。かような政党を1990年の土井ブームまでのさばることを許した自民党と国民の責任は大きい。しかも弱小政党になったとはいえ、まだ消滅していないのだ。
野溝勝のページには次の記述がある。
シベリア抑留問題への対応
シベリア抑留問題では未だ1000人余の未帰還者がいる状況であった1955年に超党派の訪ソ議員団が結成され、このうち社会党左派の議員のみハバロフスクの戦犯収容所への訪問がソ連側から許された。野溝はこの視察団の団長となるが、この視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであった。
一方、抑留者らは議員の来訪を察知し、営倉入りを覚悟の上でサボタージュを行い、議員との面会にこぎつけた。なお、以前に行われた高良とみの収容所訪問では健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の他の収容者はどうしたのかとの問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と応えている。
議員らに対し収容者を代表して挨拶を行った尾崎清正元中尉は、決死の覚悟で収容所の実態を伝えるとともに自分たちを犠牲にしてもかまわないのでソ連の脅しに屈することなく国策の大綱を誤まらないで欲しいと訴え、数人がこれに続いた。これに対し、浅原正基が発言をしようとして他の収容者から野次や怒号を浴びた。騒然とした様相に視察団は呆然としていたが野溝は「思想は思想で戦うようにし、同胞はお互いに仲良くしてください」とお茶を濁した。野溝は収容所の売店に立ち寄り、所長の中佐から「日本人は賃金をたくさんもらうので、日常こんな品物を自由に買って、生活を楽しんでいる」という説明を受けたが、その場で所長の言葉を通訳した朝鮮人収容者から「みんな出鱈目ですよ。あなた方に見せるため昨日運び込んだもので、あなたがたが帰られたらすぐに持って行ってしまうものです」と言われて苦笑したという。
日本人抑留者らは視察団に家族への手紙を託したが、仲間の釈放のための外交努力を求めるとともに将来の日本の国策のためならば祖国のためにこの地に骨を朽ちさせても悔いはないとする収容者らの決意を認めた国民や議員に宛ての7通の手紙も一緒にこのとき手渡されている。しかし、野溝らはこれら7通の手紙を握りつぶし、議員団団長である北村徳太郎への報告もしなかった。抑留者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、野溝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追求を受けている。これに対し野溝は「発表の技術等の不手ぎわの点についてのおしかりならば、私は大いに考えなければならぬし、その点について不徳の点があるならば、私は大いに反省をいたします。」としながらも他意はなかったと弁解している。稲垣武は、野溝がこのような破廉恥な行為を敢えてしたのは、公表すれば自分たちに都合が悪いと思ったからであろうとしている。
帰国の途上、野溝は戸叶里子と共に香港で記者会見を行い、知っていたはずの真実を隠匿し収容所側の説明に沿うかたちで以下のような発言をしたことが新聞に記載されている。
・「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」
・「戦犯の生活として、カロリーは科学的に計算されているという事で、皆んな元気そうな顔付であるのにホットした。顔付は、普通人並でラーゲルとしては普通といってよいだろう。」
・「ソ連人一般の悩みでもあるが、冬に生野菜が欠乏するのをかこっていた。食堂、調理とも清潔で、ここには罐詰等も配給があり集合所にも使われていた。」
【Wikipedia】
野溝は縛り首にすべき人物であると私は考えるが、なんと勲章(正三位勲一等瑞宝章)を授与されている。大東亜戦争終盤における指導階級の混乱はそのまま戦後も維持されたと認めざるを得ない。
旧社会党勢力は民主党に紛れ込み、現在は立憲民主党と改称している。在日外国人の通名みたいなものだ。同胞を売った売国奴どもを私が許すことはない。
太陽系のダイナミズム
太陽系は太陽を中心に回っているわけではない。太陽系の共通重心が中心になっているという。
地球と月の場合、共通重心は地球内部にあるため動きは抑えられる。
もっと驚かされるのは太陽系そのものが天の川銀河を2億年かけて1周していることだ。我々の常識は静的な宇宙モデルに支配されていて太陽系のダイナミズムを実感することが難しい。
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