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2014-12-03

徳には盛衰がない/『奇貨居くべし 天命篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 鮮乙〈せんいつ〉のおどろきは深く、
「主(しゅ)の強運は比類がない」
 と、しきりにいった。が、呂不韋〈りょふい〉はゆるやかに首をふり、
「運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにしかず、だ」
 と、誨(おし)えた。

【『奇貨居くべし 天命篇』宮城谷昌光(中央公論新社、2001年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 光を放つ言葉がある。その光が自分の内側の柔らかな部分に射(さ)し込む。心は瞬時に反応し躍り上がる。

 運とは風のようなものであろう。風向きは季節によって異なる。いつも背中を押してくれるとは限らない。人生には嵐のような逆風を真正面から受けることが必ずある。時に風が進路を妨げることもあるだろう。そこで環境を嘆くのか、自分の内部を見つめるかで人生は二つに分かれる。

 呂不韋は順境にあって「徳には盛衰がない」と自らを戒めた。彼の心には旅で巡り会った大人物たちの影がくっきりと残っていた。成功に酔うと人は足元が見えなくなる。

 諸子百家は六家に分類されるが、現在の大学教育で採用されているのは法家のみである。せめて道徳学科(儒家)や無為学科(道家)はあって然るべきだと思う。法律と経済で回る社会は人々の欲望を認めるため最終的には戦争に向かう。徳が得に置き換えられたのが大衆消費社会だ。

    

2014-11-16

宮城谷昌光書評一覧 年代順


・『天空の舟 小説・伊尹伝』
・『太公望』
・『管仲』
『重耳』(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)
『介子推』(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)
・『孟夏の太陽』
・『沙中の回廊』
・『夏姫春秋』
『晏子』(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)
・『子産』
・『湖底の城』
『孟嘗君』(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)
『楽毅』(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)
・『青雲はるかに』
『奇貨居くべし』(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年)
・『香乱記』
・『草原の風』
・『三国志』

2014-11-11

深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず/『奇貨居くべし 飛翔篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 ――もっとも深いところまで行った者だけが、もっとも高いところまで行ける。

【『奇貨居くべし 飛翔篇』宮城谷昌光(中央公論新社、2000年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 これが本書の主題である。荀子曰く「深谿(しんけい)に臨まざれば地の厚きことを知らず」と。高峰(こうほう)を極めなければ天の高さはわからないし、深い谷に下りた者でなければ大地の厚さを知ることはない。

 君子曰はく、
「学は以て已むべからず。」と、
 青は、之を藍より取りて、藍より青く、
 氷は、水之を為して、水より寒し。
 木直くして縄に中るも、輮めて以て輪と為さば、
 其の曲なること規に中り、槁暴有りと雖も復た挺びざるは、
 輮むること之をして然らしむるなり。
 故に、木、縄を受かば則ち直く、金、礪に就かば則ち利く、
 君子博く学びて日に己を参省せば、
 則ち智明らかにして行ひに過ち無し。

 故に高山に登らざれば、天の高きを知らず、
 深谿に臨まざれば、地の厚きをしらず、
 先王の遺言を聞かざれば、学問の大なるを知らざるなり。
 干越夷貉の子、生まれたるときは而ち声を同じくするも、
 長ずれば而ち俗を異にするは、教へ之をして然らしむるなり。

青はこれを藍より取りて藍より青し 勧学篇第一より

 先ほど探り当てたページである。本書はこの部分を小説化したといっても過言ではない。そう思い至ってページを繰ってみると、荀子との出会いに始まり、様々な場面にこの教えが散りばめられている。

「知る」という行為の深さには行動が伴う。「人は天空を飛べない。そのことがほんとうにわかっているのは、この世で、わしくらいなものだ」(火雲篇)と荀子は語っている。つまり限界を知った上で自らの意志を働かせながら行動した者だけが「知る」ことができる。過去の経験から学ばぬ者は多い。「経た」ことは「知った」ことにならない。

「之(これ)を知る者は之を好む者に如(し)かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」と孔子は説いた。牽強付会(けんきょうふかい)ではあるが、「好む」は感情であり「楽しむ」は意志であると読みたい。すなわち真に「知る」者とは「楽しむ」者である。

 一流の登山家が生きとし生けるものを拒む高みを目指す。実際には苦しいだけの営みだ。だがそこに「楽しみ」がある。つまり苦しみを通らずして楽しみを味わうことはできない。

 人知れず苦労をし、暗闇の中を一人歩むことが人生には必ずある。その時、自分の魂を青々と染め上げている自覚を失ってはならない。

    

2014-11-09

楚国の長城/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


「呂氏、長城が気にいったか」
 勘ちがいをした向夷〈きょうい〉が、ぼんやりとたたずんでいる呂不韋の肩をたたいた。
「ああ、あきれるほど気にいったよ」
 そういういいかたしかできないほど長城は無益なものにみえた。為政者の見識の低さを如実にあらわしているのがこれであるといえる。おおげさにいえば、人類の成長をとめ、可能性をさまたげるのが長城である。とくに庶民は、いちどは長城を有益なものと信じたがゆえに、その存在が無益なものであることがわかった時点から、為政者にたいして不信をつのらせ、人の営為そのものにむかう意味を阻喪(そそう)したであろう。楚(そ)の崩壊も、秦(しん)の圧力に耐えきれなくなったというより、内なる崩れが原因なのではあるまいか。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 以下2003年のニュースである。

「中国最古の長城は河南省の楚長城」専門家が指摘

  楚長城学術シンポジウムがこのほど、河南省魯山県で開かれた。参加した専門家と学者の見解は「紀元前688年に建設された楚国の長城が、中国最古の長城である」という意見で一致した。
河南省に現存する楚長城は、上部が丸まった形状をしており、西線、北線、東線の3つの部分に分かれている。平頂山市の魯山県と葉県、舞鋼市、南陽市の方城県と南召県にまたがり、全長にはおよそ800キロ。特に南召県板山坪鎮南部の周家寨楚長城は、全長20キロ以上が、ほぼ完全な形で残っている。

「人民網日本語版」2002年10月30日

 楚の国名は「四面楚歌」との言葉で現在にまで伝わる。

 作家のW・G・ゼーバルトは「途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している」(『アウステルリッツ』)と指摘する。権勢を誇るための巨大な建物は「長城」と考えてよかろう。カトリック教会の麗々しさはその典型だ。

 それを嗤(わら)うのは簡単だ。だが、その一方で豪邸や高級車を羨む自分がいる。現代における欲望は金銭への執着という形で具体化される。欲望から離れるための修行に「喜捨」(きしゃ)がある。これが六波羅蜜布施行(ふせぎょう)となる。葬儀や法要で僧侶に渡すお布施の布施だ。

 自分で稼いだお金を惜しみなく捨てる。捨てるのが嫌なら使うでも構わない。何かを買う、ご馳走を食べる、映画やコンサートへゆく、書籍を購入する。もう少し頑張って慈善団体に寄付をする。あるいは困窮している友人に返ってこなくても困らない範囲でカネを貸してやる。何かをプレゼントするのもいいだろう。

 この国のシステムはきちんと税金が循環しないところに経済的な致命傷を抱えている。それを打開するには一人ひとりがお金を使うしかないのだ。皆がカネを使えば景気はあっと言う間に浮上する。

 中国戦国時代の大商人は社会や人々に投資をした。それによって社会を改革した。少ない額でも他人に投資してみると、驚くほど人生は豊かになる。

    

2014-11-03

「蔽(おお)われた者」/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 孫子(※荀子)という儒者は激しいところのある人で、いまの世に妥協しておのれに満足する者を、憎悪していた。孫子は、蔽(おお)われている人が嫌いなのである。世は変化する。それゆえ、世に役立つ者になるためには、自己を改革しなければならない。自己の改革は一朝一夕に成るものではない。努力しつづけよ、としばしば孫子(※荀子)が呂不韋〈りょふい〉に教えていたことが、ふたりからすこし離れたところにいた雉〈ち〉の耳底に残っている。いまになって孫子の言動をふりかえってみると、そこには情熱があった。つまり孫子は呂不韋のなかにすぐれた資質をみつけ、その資質が未熟におわらぬように、熱い息を吹きかけていたのではないか。孫子は呂不韋を愛したのである。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「蔽(おお)われる」とは見慣れない字だが、遮蔽物(しゃへいぶつ)の訓読みが「遮(さえぎ)る」「蔽(おお)う」であることに思い至ればイメージがつかみやすい。「覆(おお)い隠す」の「覆う」は同訓異字であろう。現状に甘んじて、出る杭(くい)となることを避ける官僚のような姿勢を荀子は嫌った。職能が「務(つと)める」のに対して、学問は「努(つと)める」道である。力加減がまったく違う。

 荀子と別れた後も師の言葉は呂不韋の精神を鞭打ち続けた。

 呂不韋は家をでた。そのことによってはじめて実家がどういうものであったかがわかったように、賈人(こじん)は利をでなければ利というものがわからない。でる、という行為は、じつはおびただしい勇気と努力とを必要とする。それを知らない者を、
「蔽(おお)われた者」
 と、師の孫子はよんだ。
 しかしながら、蔽われない者とは、つまり、人と世というものがわかる人のことであり、それならば、人をでて、世をでなければ、人と世とはわからないことになり、死んでこの世を去ってこそ人と世がわかるのでは、生きてゆくことに意義をうしなう。そうでないところに孫子の哲理の玄妙さがあるのであろう。

 賈人(こじん)とは商人のことである。「利をでる」とは利から離れて利の意味を見つめることか。人を利に向かわせるのは欲望だ。新自由主義のように個々人の利得という小利を社会的に容認すれば格差社会が生まれるのは必然だ。白圭(はくけい/『孟嘗君』)や呂不韋のような中国戦国時代の大商人は自己の利益だけではなく国家全体の利益、すなわち大利を目指した。

 荀子は性悪説で広く知られるが、性悪であればこそ死ぬまで努力することが重要なのだ。人の性が善であれば礼や法も不要だ。「蔽(おお)われた者」は人間に巣食う悪性に引きずられる。万人に潜(ひそ)む堕落しやすい性分を荀子は性悪説としたのではあるまいか。

「学は没するに至りてしかるのちに止(や)むべきなり」との師の教えを呂不韋は忠実に生きた。死ぬまで学問を手放すことがなかった。

    

2014-10-31

孟嘗君の境地/『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 唐挙〈とうきょ〉は貴族相手の人相見で大金を稼いでいた。呂不韋〈りょふい〉は慈光苑(じこうえん)の伯紲〈はくせつ〉という人物の元へ遣(つか)わされる。慈光苑は戦乱の中で独りでは生きてゆくことが難しい孤児や寡婦(かふ)のための施設であった。唐挙が呂不韋に託したのは寄付金であった。慈光苑に着くと伯紲〈はくせつ〉は留守であった。そこに異彩を放つ老人がいた。思わず目を瞠(みは)った呂不韋はその老人が孟嘗君であることを後に知る。宮城谷ファンはここでエクスタシーに達する。やはりリンクで示したように『孟嘗君』、『楽毅』、本書と読み進むことが望ましい。

「わしは老いた」
 食事の席で孟嘗君〈もうしょうくん〉はいった。
 ――何が老いたのか。
 呂不韋〈りょふい〉はそう反発したくなった。慈光苑(じこうえん)で、孟嘗君は田圃(でんぽ)にはいって農作業をしていたではないか。そこには老懶(ろうらん)のきざしさえなかった。が、みずから老いたという。
「老いると、人事がうとましくなる」
 まるで孟嘗君は呂不韋の胸裡に浮きあがった疑問にこたえるようにいった。
 太古、人は小集団をなして天地のあいだをさまよっていた。天地のあいだというのは山岳のことである。地におりれば、人は死ぬ。平原などというものは、太古の人々にとって死地以外のなにものでもない。やがて人は農耕をおぼえ、その死地を生地に変えようとした。が、そのことによって、おそらくなにかが歪みはじめた。たとえば、いままでたれのものでもなかった平原が、人によって占有化されるようになった。鳥獣と共存していた人が、人だけの住居区をつくった。そのため人は人とはべつな生物や現象に語りかけていたことばをうしなったといえる。ことばは、人境のためだけにある、と人は錯覚した。

【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「政治」ではなく「人事」としたところに言葉の重みが増す。むろん人事異動の意味ではなく、「人間に関する事柄」全般を指した言葉であろう。孟嘗君の「出家」を思わせる境地である。この文章は次のように続く。

「わしは往時にうしなわれたであろうことばに、あこがれるようになった。人が好きでたまらなかったわしが、そういう憧憬(しょうけい)をもつ。これがすなわち老いたあかしである」
 孟嘗君がそういいきった瞬間、呂不韋は胸中に火を投げ込まれたように赫(かつ)とからだが熱くなった。
 ――この人は、老いたのではない。
 真の君主になったのだ、と呂不韋は痛感した。君主は自分のことを寡(か)とか孤(こ)というではないか。君主は生まれながらに孤児なのである。それゆえに人のことばに偏曲(へんきょく)を求めず、この世に公平をさずけることができる。が、君主は真に孤独でないために、偏失(へんしつ)をくりかえし、世の人々の尊敬を受けることができない。しかしながら孟嘗君は古代の聖王たちの心境に達したのではないか。呂不韋はそう思った。おもっただけではなく、恐れながら、と口をひらき、自分の想念を述べた。
 孟嘗君は目もとを明るくして、いちど口をすぼめ、それから、
「呂氏とは、こういう人です。魯(ろ)先生、おわかりいただけましたかな」

 孟嘗君の悟りといってよい。そこに想いが届くのは、やはり呂不韋が「学ぶ人」であったためだろう。魯先生とは魯仲連〈ろちゅうれん〉である。

 こうして呂不韋は孟嘗君の賓客(ひんきゃく)となる。呂不韋に従う雉〈ち〉も大きく成長してゆく。

 多くの言葉を弄(ろう)するよりも、沈黙の中でひたすら味わうべき魂の邂逅(かいこう)である。