2011-05-30

グレッグ・ルッカ


 1冊挫折。

 挫折20『天使は容赦なく殺す』グレッグ・ルッカ/佐々田雅子訳(文藝春秋、2007年)/50ページほどでやめる。程度の低い娯楽ミステリーとしか思えない。しかも上下二段とはいえ、370ページのソフトカバーで2700円という値段。文藝春秋社はよほどこの本を売りたくないのだろう。表紙に配されたイラストは漫画そのもので持ち歩くことを困難にしている。タラ・チェイスという女性版007のようなシリーズらしい。設定も現実離れしていて、あざとさを感じる。今後、私がこのシリーズを読むことはなさそうだ。

2011-05-29

素粒子衝突実験で出現するビッグバン/『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック


『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング
『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

 ・素粒子衝突実験で出現するビッグバン

・『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン
『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック

「あ、そうだ。画像を探さなくっちゃ……」と思い立ってから既に1時間以上経過している。前に保存しておいたのだが、パソコンが成仏してしまったのだ。目的の画像を見つけるまで、それほど時間はかからなかった。何の気なしに「Big Bang」で画像検索をし、更に「LHC」(大型ハドロン衝突型加速器)で調べたのが過ちであった。あるわあるわ(笑)。おかげで動画まで辿ることができた。そして書く気が完全に失せてしまった(笑)。

 著者のフランク・ウィルチェックは2004年にノーベル物理学賞を受賞している。だからいい加減なことは書いていないはずだ。多分。私程度の知識ではかなり難しかった。それでも何とか読み終えることができたのだから、わかりやすく書いてあるのだろう。

感覚と世界模型

 そもそもわたしたち人間というものは、奇妙な原材料を使って自分たちの世界の模型を作っている。その原材料を収集しているのが、情報に溢れた宇宙にフィルターをかけて、数種類の入力データの流れに変えられるように、進化によって「設計」された信号処理ツールだ。
「データの流れ」といっても、ぴんとこないかもしれない。もっと馴染み深い呼び名で言えば、視覚、聴覚、嗅覚などのことだ。現代では、視覚とは、目の小さな穴を通過する電磁輻射の幅広いスペクトルのなかで、虹の七色に当たる狭い範囲だけを取り上げて標本抽出するもの、と捉えられている。聴覚は、鼓膜にかかる空気の圧力をモニターし、嗅覚は、鼻粘膜に作用する空気の化学分析を提供するが、その分析は不安定なこともある。ほかに、体が全体としてどんな加速をしているか(運動覚)や、表面の温度や圧力(触覚)について大雑把な情報を与えるもの、舌のうえに載った物質の化学組成について数項目の粗雑な判定を行なうもの(味覚)、そして、ほかにも数種類の感覚系統が存在する。

【『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック:吉田三知世〈よしだ・みちよ〉訳(早川書房、2009年)以下同】

 既に何度も書いてきた通り、感覚されたもの=世界である以上、世界とは感覚された情報空間を意味する。つまり世界は目前に開けているわけではなく、感覚の中にのみ存在するのだ。世界とは感覚であると言い切ってしまっても構わない。目をつぶれば全くの別世界が立ち上がってくる。光のない世界だ。しかしながら構成が変わっただけで感覚がある限り世界は厳然とある。

 世界の深奥(しんおう)にある構造は、その表面構造とはまったく異なる。人間に生まれつき備わっている感覚は、人間が作り上げた、最も完全で正確な世界模型にはうまく対応できない。

 マクロ宇宙では時空が歪んでいるし、ミクロ宇宙では光子が粒なのか波なのかすら判然としない。人間の感覚で知覚できるサイズは限られている。物質に固体・液体・気体という位相があるように、宇宙にも位相があるのだろう。

 実際、質量保存則が、ものの見事に成り立たない場合もある。ジュネーヴ近郊のCERN研究所で1990年代に稼働していた大型電子陽電子コライダー(LEP)では、電子と陽電子(電子の反粒子)が、光速の99.999999999パーセントに迫る速度に加速される。この速度で逆向きに回転する電子と陽電子を衝突させると、衝突の残骸が大量にできる。典型的な衝突ではπ中間子が10個、陽子が1個、そして反陽子が1個生じる。さて、衝突の前後の送出量を比べるとどうなるだろうか?
(式、中略)
 でてくるものが、入ってきたものの約3万倍も重いことになる。

 表紙に配されているのは高エネルギーで重イオンを衝突させた実験の画像である。


 誰もが「何じゃ、これは!」とジーパン刑事の台詞(せりふ)を口にしたことと思う。確かに我々の感覚世界を超越してますな。しかも、1×1の衝突が3万となるのだ。願わくは1円玉と1円玉をぶつけて、3万円にして欲しいものだ。

 この状態を「スモール・ビッグバン」と称する。動画があったので紹介しよう。


 いやあ興奮してくる。だが、この実験に反対する科学者もいる。素粒子の衝突で生じた莫大なエネルギーがブラックホールを生成する可能性があるというのだ。

超大型粒子加速器でブラックホール製造実験

 自然界の基本相互作用は四つの力で、強い力・弱い力・電磁力・重力で構成されている。強い力は距離に反比例して離れれば離れるほど強くなる。原発事故を見てもわかるように、微小な世界にとんでもない力が隠れている。

 では、他の画像も紹介しよう。詳細は不明だが、いずれもスモール・ビッグバン直後の様相を撮影(またはモデル化)したものと思われる。


 ねー、凄いでしょー。しかし何なんだろうな、この感動は。「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(旧約聖書、創世記)ってな感じだわな。

 一般的に、運動している物体や、相互作用する物体の場合、エネルギーと質量は比例しません。E=mc²は、まったく成り立たないのです。

 静止状態と関係性が織り成す現実世界との相違。

 じつのところ、光そのものが、たいへん印象的な例だ。光の粒子、光子は、質量がゼロである。なのに、光は重力によって曲がってしまう。と言うのも、光子のエネルギーはゼロではなく、重力はエネルギーに作用するからだ。

 ってことは光の場合、E=cになるってことなのか? 頭の中にフックが引っ掛かるのだが、如何せん知識が追いつけない。

 すべてのものは電子と光子でできている。原子は、電子と原子核でできている。原子核は、すべての電子が集まった電子殻よりもはるかに小さい(原子核の半径は、電子殻のそれの約10万分の1)が、そこに正の電荷がすべて存在し、また、原子の質量のほとんど全部──99.9パーセント以上──が集中している。電子と原子核が電気的に引き付け合うことで、原子は一体に保たれている。最後に、原子核は陽子と中性子でできている。原子核を一体に保っているのは、電気力とはまた違う、はるかに強いが短い距離しか働かない力である。

原子の99.99パーセントが空間

 つまり、パチンコ玉(11mm)の向こう側にサッカー場の長い方を30個並べた状態で、質量はパチンコ玉に集中しているわけだ。

 クォークとグルーオン──厳密には、クォークとグルーオンの場──は、完璧で完全な数学的対象物だということだ。クォークとグルーオンの性質は、サンプルを提供したり、測定したりすることは一切必要なしに、概念だけを使って、完全に記述することができる。そして、その性質は、変えることができない。方程式をいじくりまわせば、式を損なわずには済まされない(実際、式は矛盾するようになってしまう)。グルーオンは、グルーオンの方程式に従うものなのだ。ここでは、物質(イット)がビットそのものなのである。

 クォークが素粒子の一種であることは知っているが、グルーオンというのがわかりにくい。膠着子(こうちゃくし)だってさ。動きの悪そうな名前だよね。

 ジョン・ホイーラーが「世界のありとあらゆるものは情報であり、その情報(bit)を観測することによって存在(it)が生まれる」と提唱した(宇宙を決定しているのは人間だった!?  猫でもわかる「ビットからイット」理論、を参照した)。

 ところが、ミクロ世界においてはイット=ビットとなる場合があるというのだ。いやはや驚いた。きっと万物は情報なのだろう。存在=情報。

1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?/『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド
生命とは情報空間と物理空間の両方にまたがっている存在/『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人

 で、本書を読めば「物質のすべては光」であることが理解できるかというと、そうは問屋が卸さない。やや尻すぼみになっている印象もある。ただ、科学が全く新しい宇宙の前に立っていることだけは凄まじい勢いで伝わってくる。

 知性は前へ進み続ける。宇宙の成り立ちを理解した時、人間の内なる宇宙も一変するに違いない。



ブラックホールの画像
大型ハドロン衝突型加速器(LHC)とスモール・ビッグバン

2011-05-28

皮肉な会話と皮肉な人生/『奪回者』グレッグ・ルッカ


 皮肉な科白(せりふ)に込められた諧謔(かいぎゃく)は高い知性に支えられている。聞き手を選ぶような側面もある。説明を求められてしまえば台無しだ。「クックックッ」と笑ってもらうのが望ましい。皮肉とは会話におけるスパイスであり、洒脱なフェイントでもある。グレッグ・ルッカは、皮肉な人生と皮肉な会話を描くの巧みだ。

 前作で親友を喪ったアティカス・コディアックはうらぶれた姿で、ボンデージ・クラブのパート用心棒をしていた。

 用心棒(バウンサー)とは、人を見る稼業だ。注視し、そして無視することの繰り返し。厄介ごとになりそうな人間を探す──厄介ごとの種(トラブル)を選びだす。そして待つ。自分が抱えている相手がほんとうに厄介ごとになると確信するまで、行動は起こせないからだ。

【『奪回者』グレッグ・ルッカ:古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉訳(講談社文庫、2000年)以下同】

 そこへ、かつて警護をしたことがあるワイアット大佐の娘が現れた。エリカはまだ15歳だった。酔客から襲われそうになったエリカをコディアックが守る。エイズで死に掛けていた父親からエリカの警護を依頼される。エリカを付け狙う敵は、なんとSAS(英国陸軍特殊空挺部隊)のチームだった。

 ワイアット大佐一家との過去と前作での精神的ダメージが伏線となっており、SASの存在が謎となっている。

 ワイアット大佐は傲慢を絵に描いたような人物で、離婚したダイアナは何でも割り切るタイプだ。で、娘のエリカは小生意気ときている。幼い頃、アティカスに約束を破られたことが心の傷となっていた。

 われわれのどちらも身動きせず、じっとしていた。みぞれと川、その水音に耳を傾けているのは、この世でわれわれだけのようだ。ハドソン川沿いのこの部屋で3個の暖房機とうんざりするほどの過去を抱えたふたりの男だけ。

 中年と書かないところがミソ。

「アティカス!」やたら嬉しそうな声だった。「まいったな、きょう電話しようと思っていたんだ。今晩バー巡りをして、アメリカの若者を腐敗させたいかどうか訊こうとしてな」

 一杯呑みにゆく、とも書かない(笑)。いやあ、上手いよねー。

 恋人のブリジット・ローガンも中々振るっている。

「これはなんだい?」わたしは訊いた。
「『プレゼント』と呼ばれているやつだよ。いいかい、ある種の文化では、だれかが別の人を好きになり、当該(とうがい)人物になにかすてきなことをしたくなったときに、贈り物を贈るというという純然たる喜びのため、商品の形を借りて相手にお金を支払うのさ。古くからあり、尊ばれている資本主義の伝統なんだ」
「ご説明ありがとう、マーガレット・ミード人類学者殿」

 マーガレット・ミードはルース・ベネディクトと並んで米国を代表する文化人類学者だ。そしてブリジットはぶっ飛んだ私立探偵である。エリカとブリジットの罵り合いも見ものだ。

「『そして死は汝(なんじ)を恐れん、汝(なんじ)が獅子(しし)の心を持つがゆえに』」そう言って、ヨッシは砂糖とクリームをまぜた。「アラブのことわざだよ。気に入ってるんだ」

 この言葉が相応(ふさわ)しい男がアティカスだった。

 ダイアナは一度わたしを撃ったのだ。腹を撃ったのだった。
 両脚が痛かった。筋肉痛だ。それで思いだして、腹部の痛みがひどくなり、痛みは体のなかをきままに動きまわった。わたしは横になったまま、なんとか落ち着こうとしていた。両脚が震えてきており、すすり泣きが聞こえた。自分が泣いているのか、冬の風が吹いているのか。
 風であってほしいと神に祈った。
 血がこぼれていく音が聞こえる気がした。

 かつて愛し合った女性からアティカスは撃たれた。名場面といってよい。ハードボイルドの文体も決まっている。彼は生き永らえることを神には祈らなかった。ただ、自分が泣いていないことを願った。

 ドロドロした家族関係、やさぐれた少女、そしてブリジットとの関係も気まずくなる。更に実力ではSASに敵うべくもない。クライマックスは重火器戦となる。

 グレッグ・ルッカはこのシリーズで、パーソナル・セキュリティ・エージェント(ボディガードと呼ばれることをアティカスは好まない)をトリックスターにしながら、実は「家族の物語」を描いている。前作は堕胎で、第2弾は離婚がテーマだ。この主旋律を見落とすと味わいが薄れてしまう。

 登場人物の誰もが上手く生きられないことで懊悩(おうのう)している。そして行き場をなくした途端、大きな決断を迫られる。ラストシーンにはそんな著者の思いが込められている。

 警護に関して絶対的な真実がひとつある。その真実とは、単純なもので、だれかを完璧に警護するのは不可能だということだ。できっこないのだ。ボディガードにできることは、オッズを減らし、予防措置をほどこし、敵対勢力よりもずるがしこくなろうとすることだけだった。それだけなのだ。なぜなら、最終的に、時間とほかのあらゆることが相手チームの味方につくからだ。彼らは待つことができる。計画を練ることができる。警護側がけっして寄せ集めることのできないであろう時間と金、調査と人員を投下することができる。すべての努力を払ったあと、差を生じさせるのはそこなのだ。

 人生も同じだ。できることを淡々とやり抜くだけだ。もしも取り返しのつかないことをしてしまったなら、またそこからやり直せばいい。

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ
グレッグ・ルッカにハズレなし/『暗殺者(キラー)』グレッグ・ルッカ
作家の禁じ手/『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ

小沢批判と小沢礼賛


 小沢一郎である。小沢批判と小沢礼賛とが同じ程度に薄気味悪いのは、そこに自分を投影しているためだろう。ま、その意味で小沢は鏡の役割を果たしているといってよい。

2011-05-27

よい制度


 よい制度は素晴らしい家のようなものだ。そこに住む家族が円満であるとは限らない。

属人主義と属事主義/『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一


「偶像崇拝」について書こうとしていたのだが、色々と調べているうちにこちらを先に紹介する必要が生じた。ま、人生が旅のようなものであるなら、なにも目的地を目指して最短距離をゆくこともあるまい。寄り道こそが旅を豊かにするのだから。

 岡本浩一の著作には注意を要する。極めて説明能力が高いにもかかわらず、低俗な結論に着地する悪い癖があるからだ。たぶん野心に燃えている人物なのだろう。社会秩序に寄り添うような考え方が目立つ。だから、批判力を欠いた人には不向きだ。読書会のテキストなどに向いていると思われる。

 本書の中で属人主義と属事主義というキーワードが出てくる。

 最後に、とくに日本の職場風土の問題として顕在性が高いと著者が判断する、二つのトピックを「無責任の構造」の病理としてとりあげる。権威主義と属人主義である。権威主義は、社会心理学で多くの研究がなされて熟した用語であり、属人主義は、著者が評論などで用いている著者の造語である。権威主義は、国籍、文化に特定されず、広く見られる問題であるが、属人主義は、権威主義の日本的な現れ方の代表的なものだと考えればよいだろう。
 この二つは、日本の職場風土において、「無責任の構造」への服従を強いるとき、あるいは、盲従を宣揚するときに、その文法構造として機能する。その文法構造は、会議の発言や政策という具体的な形以外にも、目立たない形でなかば無意図的に用いられていることがある。稟議などの形式や、回覧順、書類の欄の構成、会議の席順、発言順、書類やお茶を配る順など、非言語的で非明示的なところにまで、権威主義、属人主義が紋切り型に浸透していることがある。「無責任の構造」を自覚し、そのなかで、良心を維持するということは、このようなところにまで浸透している権威主義や属人主義をも自覚することなのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)以下同】

 つまり、「誰が」言ったか、「誰が」行ったかという視点が属人主義である。

 ネーミングとしてはよくない。なぜなら法律用語として別の意味があるからだ。私がアメリカ国内で犯罪をおかしたとする。この場合に日本の法律を適用するのが属人主義で、米国法を適用することを属地主義という。

 そもそも属人的視点あるいは価値観というべき性質であって、「主義」とは言いがたい。

「属事主義」とは、私の造語である。ことがらの是非を基本としてものを考えるのを属事主義と呼ぶことにした。

 話した「内容」、行った「事柄」に注目するのが属事である。

 属人と属事を一言で表せば「人」と「事」ということになる。このどちらに注目するか?

 本書は権威について書かれた本なので、当然の如く属事的な判断ができないところに組織崩壊の原因があるとしている。確かにそうなんだが、これでは足し算・引き算程度の計算である。

(※属人主義的情報処理のもとでは)誰かが自分の意見を支持してくれると、意見の正邪による発言とみなさず、「自分の味方をしてくれた」という対人的債務のようにみなす風土が発生することが少なからずある。そうすると、その相手が、今度、間違った意見を言っているときでも、「彼にはこのあいだ自分の意見を支持してもらった借りがある」という理由で、間違ったことがわかっていながら、支持を「返済する」ということが起こる。同様に、自分の意見を支持してくれなかった相手に、不支持による報復をするということも起こるわけである。

「対人的債務」というのは絶妙な例えだ。恩の貸し借り。結局、コミュニティ内部の同調圧力と権威が織り成すハーモニーが「服従」の曲を奏でるのだろう。

 私が民主主義を信用できないのは、判断材料が乏しいことと、人間の判断力に疑問を抱いているからである。高度情報化社会となると、メディアから垂れ流される恣意的な情報によって一票を投ずるしかない。現状はといえば、好き嫌いや損得で判断している人が多いのではなかろうか。だからこそ、恩の貸し借り=票の貸し借りみたいな情況がいつまで経ってもなくならないのだ。

 そして一番肝心なことは、誰人に対しても「そんな投票の仕方は間違っている」と言う資格はないのだ。いかなる判断を行使しても構わないし、投票へ行かないのも自由だ。

 大体、政治に「正しさ」を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。「国益こそ正義」なあんてことになったら大変だ。

 私は民主主義に不信感を抱く一方で、政党政治を心の底から嫌悪している。ああ、そうだとも。でえっ嫌いだよ(←江戸っ子下町風)。党議拘束で自由な意見を封ずる政党政治は、属人主義というよりは属党主義である。「何でも党の言いなりになるんじゃ、党の犬と言われても仕方がないよ」と告げたら、彼らは「ワン」と返事をすることだろう。

 そう考えると国民は属国主義となりますな(笑)。マイホームパパは属家主義。

 でもさ、自我を支えているのって実は帰属意識なんだよね。

 属人主義的な感覚の人は、善悪などの判断も、じつはかなりの程度に対人依存していると考えてよい。つまり、もしあなたが属人主義なら、いまの職場に「『無責任の構造』がある」と考えて苛立つあなたの義憤そのものが、職場でかつて実力派閥だったグループの考え方を受けているだけのものであったり、あるいは、いま、職場を牛耳っているとあなたが感じているグループに対する反感が核になっているだけのものである可能性がある程度以上に高い。

 コミュニティ内部の敵味方意識が反対意見を排除する。このため組織というネットワークは必ず人々を隷属させる方向へと進む。ピーターの法則によれば、無責任どころか無能へ至るのだ。

残酷なまでのユーモアで階層社会の成れの果てを描く/『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル

 岡本はあとがきにこう記している。

 真摯な判断を目指す人は、自己の選択が「良心的」であるかどうか日々懊悩しては懐疑し、葛藤するものだから、真摯であればあるほど、「自分が良心的だ」という自信からは遠ざかるはずである。
「自分が良心的な人間だ」などと公言できる人は、「良心」の基準がよほど甘いか、現実の複雑な厳しさに気がつかないほど脳天気な人なのだ。この種の公言が、真に良心的たり得ぬ人物の第一条件であるのは、「嘘をついたことがない」という公言がその公言そものを裏切っている無自覚と似ている。

 文章は上手いのだが、正義と善を混同している節が窺える。正義は立場に基づいている。泥棒にとっては盗むことが正義だ。資本家にとっての正義は金儲け(搾取)であろう。ビンラディンを殺害することがアメリカの正義で、そのアメリカに報復するのがアルカイダの正義だ。正義は集団の数だけ存在する。一方、善は異なる。善というのは万人にとって望ましい価値を意味するのだ。

 属事的判断は大変重要ではあるが、実践するのは至難である。それから、詐欺師だってもっともらしいことを言うのだから言葉を過信するのも危険だ。

権威主義と属人主義
脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル