2012-05-05

マクドナルドを食べてはいけない理由 最新版


 ファストフードチェーン大手の米マクドナルドとディスカウントストアの大手の米ターゲットは、取引先の鶏卵業者によるニワトリ虐待が発覚したとして、この業者との取引を中­止したことを明らかにした。

 この業者をめぐっては動物愛護団体が、コロラド州など米国内3カ所の農場で5月から8月にかけて撮影されたとする映像を公開していた。映像にはニワトリが狭いケージの中に­押し込められ、従業員がふざけてくちばしに火を付けたり、ヒヨコの首を折ったりする様子が映っている。

 マクドナルドはこの映像について「見るに耐えず、容認できない。マクドナルドは仕入先に対して動物愛護の姿勢を求めていることをお客様に保証したい」と述べ、業者との取引­中止を発表。ターゲットも同様の理由で取引を中止したことを明らかにした。

 取引を中止されたのは、米国で第5位の鶏卵生産流通業者スパーボー・ファームズ。ニワトリ虐待について告発されたことはABCテレビのニュースで初めて知り、社内調査に乗­り出したと話している。問題の映像は身元を偽って同社に採用された動物愛護活動家が撮影したものだという。

 同社はこれまでの調査の結果、家禽の取り扱いを定めた従業員規則違反があったと判断、従業員4人を解雇し、管理職を処分したことを明らかにした。アイオワ州立大学の専門家­による第三者調査も実施中だとしている。

 同社に対しては米食品医薬品局(FDA)も施設5カ所に立ち入り検査を実施し、サルモネラ菌感染防止対策について定めた書面がないなどの問題を指摘していた。同社はFDAの指摘についても改善措置を取ると表明している。

末木文美士、水野弘元

2冊挫折。

思想としての仏教入門』末木文美士〈すえき・ふみひこ〉(トランスビュー、2006年)/試みはよいと思うが、古い枠組みから脱却できていない。がっかりするほどダメだ。こんなレベルでパスカル・ボイヤーなどに太刀打ちできるわけがない。

原始仏教入門 釈尊の生涯と思想から』水野弘元〈みずの・こうげん〉(佼成出版社、2009年/同社、1993年『釈尊の思想と生涯』新装改題版)/良書。特筆すべきは著者によるパーリ語仏典訳が多数挿入されていること。ただし、ティク・ナット・ハンの『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』の後では読む必要がない。

湯殿川を眺める


川はどこにあるのか?
阿呆陀羅經さん 死後に関する無記のタターガタは衆生 2004,6,13,
湯殿川

 ・湯殿川を眺める

『川と人類の文明史』 ローレンス・C・スミス
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 天気がよかったので湯殿川(ゆどのがわ)を見にゆく。川岸のコンクリートで結跏趺坐(けっかふざ)を組み、全身を耳と化す。

 右手の下流からせせらぎが聴こえる。金色の風が静かにたなびく。生え放題の雑草を風が撫でているが音はしない。ただ気配だけが動いている。耳を澄ますと左側の上流からもせせらぎの低い音がする。遠くで雀が鳴き、どこかのベランダで何かがカタンと音を立てた。二つ向こうにある橋から自動車の騒音がかすかに流れてくる。

 あらん限りの注意を払う。しかしパレスチナ人の叫び声は聞こえない。「なぜだろう?」といつも思う。

 昨日の土砂降りのせいか、豊かな水量が澱(よど)みなく流れる。水はまさに来たり、間髪を入れずに去りゆく。

 仏の別名を如来(にょらい/タターガタ)という。真如(=真理)より来(きた)りし者との意である。これに対して如去(にょこ)あるいは好去(こうこ)という呼称(スガタ)もある。十号の善逝(ぜんぜい)がこの意であろう。「善く逝く」とは輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を表す。

 因(ちな)みにティク・ナット・ハンが仏典に基づいて描いた傑作『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』では「タターガタ」を両方の意味で使っている。

「来る」という語は何となく来迎(らいごう)を思わせる。Wikipediaに「如去は向上自利であり、如来は向下利他である」とあるが、如来にはやはり大乗的な臭みがある。

 川を真横から見る。我々は未来を知る術(すべ)をもたない。川上に向かって立てば水は如来と感じるかもしれないが、実際に確認できるのは流れた後だけである。つまり水は流れ去り、時もまた流れ去るものとして知覚される。諸行無常という変化相を思えば、やはり「滅び去る」という実感が湧く。

 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態である。すなわち煩悩から離れ去るのだ。私という自我から離れる行為でもある。

 ふと疑問が起こった。川はなぜ一定の水量で流れているのだろうか? 雨で多少の変化はあっても、目の前の流れは常に一定だ。「不思議だ、不思議だ」と目を丸くしながら私は川に見入った。

 少したってから気づいた。水量は一定ではないことに。一定に見えるのは1日を24時間と感じる私の感覚で捉えているからだ。例えば1000年という単位で見れば、川は次々と変化しているはずだ。

 私という存在も一定に見えて一定ではないはずだ。我々は一生という単位時間に支配されている。そして可能な限り生にしがみつき、朝露の如き存在となることを極端に恐れる。挙げ句の果てには墓石に名を刻んで、自我を末永くこの世に留(とど)め置こうとする。

 去ることは死ぬことだ。どう抗(あらが)ったところで死ぬことだけは避けようがない。生は流れ、過去も流れている。過去を死なせ、自我を滅した時、諸法無我が現れる。



来ては去っていくもの/『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編

2012-05-04

すずめで涙


 きっと元気にしていることだろう。大空を羽ばたいているに違いない。