2012-10-08

「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ


 このマントラはよい。思わず一緒に口ずさんでしまった。アルボムッレ・スマナサーラはスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)シャム派の日本大サンガ主任長老を務める人物(Wikipedia)。著作も数多く刊行されている。







怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)死後はどうなるの? (角川文庫)原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ

2012-10-07

本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 ・ただひとりあること~単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ

 サンニャーシ、同胞愛の士そしてユートピア主義者のいずれも、明日のため、未来のために生きている。かれらは世間的な意味では野心的ではなく、栄光も富も人に認められることも望んでいない。しかしかれらは、もっと微妙な形で野心的なのである。ユートピア主義者は、世界を再生させる力があると彼の信じているある集団と自分を一体化させていた。同志愛の士は、精神的高揚を渇望しており、サンニャーシは自分の目標に到達することを願っていた。いずれも彼ら自身の成就、目標達成、自己拡張に汲々としていた。かれらは、そうした願望こそが、同胞愛を、そして至福を否定するものであることが分かっていないのだ。
 いかなる種類の野心も――それが集団のため、自己救済、あるいは霊的(スピリチュアル)な成就のためであれ――行為を先へ先へと引き延ばすことである。願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在(いま)は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】

 書名で検索したところ自分で書いた記事を発見した。削除しようかとも思ったのだが、面倒だからそのままにしておく。私の場合、45歳を過ぎてから精神的に目まぐるしい変化を遂げているので主張の変化が激しい。

 今回紹介してきたのは「三人の敬虔なる利己主義者」と題された冒頭のテキストである。オルダス・ハクスレーに促されて書き始め、クリシュナムルティにとっては初めての著作となった(※それ以前に講話集は刊行されている)。

 第二次世界大戦が迫る中で平和を説くクリシュナムルティを人々は受け入れなかった。トークの途中で去ってゆく人々もいた。戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 人々が殺戮へと駆り立てられる中でクリシュナムルティは沈黙のうちにペンを執った。

 最初に書かれたのは「時間の終焉」についてであった。これはデヴィッド・ボームとの対談集タイトルにもなっている(『時間の終焉 J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』渡辺充訳、コスモス・ライブラリー、2011年)。

 人生には限りがある。その時間的限定性を打ち破ろうとすれば、ただ現在に生きるしか道はない。将来や来世は所詮自我の延長戦だ。あたかも連続ドラマのように「続く」と終わりたいわけだ。残念ながら続かないよ(笑)。自我なんてものは、脳内で反復し続ける反応に過ぎないのだから。その意味から申せば、「心」や「命」という言葉は概念としては存在するが決して実在するものではない。ゆえに諸法無我となるわけだ。


 時間的有限性を死後に延長するのではなくして、現在という瞬間に無限に押し広げてゆく。これが本覚思想の本質である。検索してみたところ、私以外には本覚思想を時間論で捉えている人はいないようだ。嚆矢(こうし)と威張ってみせたいところだが、ま、クリシュナムルティのパクリに過ぎない(笑)。

「【なること】は、【あること】を含まない」――簡にして要を得た言葉は悟りそのものだ。しかも、「なること」に潜む野心まで明かしている。理想とは形を変えた欲望なのだろう。我々は自我を満たすためにあらゆるものを利用する。時間的な経過が欠乏感を埋めることは決してない。今日よりは明日に、そして今世よりは来世に希望を託しながら現在の不幸を忍ぶ。

 簡単な思考実験をしてみよう。もしもあなたが「明日までの命」と医師に告げられたとしたら、最後の24時間は中途半端で無駄な時間なのだろうか? 大病を経験した人々の多くが劇的な生の変貌を遂げる。医師の井村和清は『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』の中で「世界が光り輝いて見えた」体験を綴っている。これが本覚(ほんがく)だ。






k1

時間を超える/『こうして、思考は現実になる』パム・グラウト
愚かさをありのままに観察し、理解する
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

木の年輪が描き出す人の顔


 驚いた。不思議なほど違和感を覚えない。年輪が指紋と似ているせいであろうか。まるで宇宙の螺旋構造。そんな諸行無常の時空間が顔面で展開されている。ロンドンにあるオブジェのようだ。

The Architect - Jilly Sutton. London Bridge

バーレーン人権侵害を許すアメリカの偽善

モンサント社遺伝子組み換え食物 「ネズミに腫瘍」報告 仏政府検証へ

モンサント社の不自然な食べ物


モンサント社

五木寛之、吉村昭、長谷川集平


 2冊挫折、1冊読了。

サイレント・ラブ』五木寛之(角川書店、2002年)/30年振りに五木寛之を読んだ。「この人は何か性的なコンプレックスがあるのだろうか?」と思った瞬間、薄気味悪くなって挫けた。150円程度の内容だ。

漂流』吉村昭(新潮社、1976年/新潮文庫改版、1980年)/いい内容なんだが、今の私には必要がないと判断した。序盤の科白が江戸っ子に見えて仕方がなかった。土佐の読者は違和感を覚えないのだろうか?

 57冊目『はせがわくんきらいや』長谷川集平〈はせがわ・しゅうへい〉(すばる書房、1976年/地方・小出版流通センター、1993年/復刊ドットコム、2003年)/著者の自伝的絵本である。長谷川は森永ヒ素ミルク事件(1955年)の被害者であった。1ページ目から涙。最後のページで滂沱。絵と手書きの文字が迫力に満ちている。多分生きることそのものが凄絶であったのだろう。時に画面が垂直方向へ歪むのは長谷川の視点の高さを示している。見返しに描かれた哺乳瓶が墓標に見えて仕方がなかった。森永乳業に善意があるなら、本書を絶版にしてはなるまい。本社の玄関に飾っておくべきだ。