2014-03-13

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド


ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット

 ・進化宗教学の地平を拓いた一書
 ・忠誠心がもたらす宗教の暗い側面
 ・宗教と言語
 ・宗教の社会的側面

普遍的な教義は存在しない/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 宗教はとりわけ、共同体のメンバーが互いに守るべき道徳規範を示し、社会組織の質を維持する。まだ市民統治機構が発達していなかった初期の社会では、宗教だけが社会を支えていた。宗教は、同じ目的に向けた深い感情的つながりをもたらす儀礼をつうじて、人々を束ね、集団で行動させる。
 したがって、単独で存在する教会はない。教会とは、同じ信念を持つ人々が作る特別な集団、つまり共同体である。その信念はありふれた無味乾燥なものの見方ではなく、深い感情的つながりを持つ。象徴的儀礼や、合唱や一斉行動のなかで共通の信念を表現することによって、人々は、自分たちを共同体として束ねている共通の信仰に深くかかわっているという信号を送り合う。宗教(religion)という語が、ラテン語で「束ねる」を意味する religare からおそらく派生しているのは、この感情的な結びつきのためかもしれない。

【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)】

 余生が少なくなってきたので(あと30年くらいか)重要な書籍からどんどん紹介してゆこう。進化宗教学の地平を拓いた一書である。「宗教とは何か?」で順序を示してあるので参照せよ。相対性理論や数学の知識がある人は小室直樹から始めてよろしい。このラインナップですら省(はぶ)いている書籍は多い。本来であればやはり「キリスト教を知るための書籍」から入るのが正しい。流れとしてはキリスト教→科学→宗教→仏教&クリシュナムルティという順序が望ましい。ま、所詮は感性の問題であるが。

 人間と動物を分かつのは宗教行為である。政治や経済は類人猿にも存在する(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。だが死を悼(いた)み、死者を弔(とむら)い、遺体を埋葬し祈りを捧げるのは人類だけだ。宗教行為は「死の認識」に基づく。

 ヒトのコミュニティが巨大化して国家にまで至ったのはなぜか? それは「悲しい」という感情を共有したためと考えられよう。「悲しみ」はたぶん後天的な感情だと思われる。既に学術的価値がないとされるJ・A・L・シング著『野生児の記録 1 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記』(福村出版、1977年/原書は1942年)にもそのような件(くだり)があった。

 北朝鮮の国家主席が死亡した際に登場する泣き女もシャーマン(巫女)と関係があるのではないだろうか。

「笑い」が知的行為で人によって異なるのに対して、「悲しみ」の感情は同じ場面で現れる(『落語的学問のすゝめ』桂文珍)。つまりコミュニティとは「悲しみを共有する」舞台装置なのだろう。オリンピックがその典型であろう。浅田真央が転んだと聞けば、オリンピックをまったく見ない私ですら悲しくなる。国家は感情を分断する。戦争が国家単位で行われるのも不思議ではない。

 世界宗教と呼ばれるような宗教でも教義解釈によって絶えず分派を繰り返す。国家であろうと宗教であろうと権力は必ず腐敗する。その悪臭の中から必ず原点回帰運動が起こる。そして叫ばれた「正義」が人々に受け入れられると一気に暴力行為が花開くのだ。

 宗教の語源については以下も参照せよ。

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 細切れの時間で書いたため取りとめのない文章となったが今日はここまで。あと10回か20回は紹介する予定だ。

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
ニコラス・ウェイド
エヌティティ出版 (2011-04-22)
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宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
マントラと漢字/『楽毅』宮城谷昌光
『歴史的意識について』竹山道雄

今枝由郎訳『ダンマパダ』『スッタニパータ』(トランスビュー、2013年、2014年)

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

 ブッダは難しい仏教語ではなく、誰にもわかるふだんの言葉で説いた。やさしい日本語で読める。絶望にとらわれず、欲に振り回されず、気持ち安らかに、こころ豊かに、より良く生きるための珠玉の実践法。

日常語訳 新編スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉

 最初期に編まれた経典・スッタニパータから、ブッダの教えにせまる核心と日常生活における心がけや実践にかかわる部分を抄訳。覚者・ブッダから、貪欲な人、怒りっぽい人、迷っている人、愛しすぎる人、快楽に弱い人、苦しみをかかえた人への最良の処方箋。

若松英輔
神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉、富樫櫻子〈とがし・ようこ〉訳

2014-03-12

「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱/『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ


 わたしたち人間のユニークさというのは単に、人間がこうした所説を語るという事実、しかも自分自身にこうした所説を信じ込ませることが実際にできる、という点にある。もし、わたしが人間の定義を一言で表現しよとするなら、次のようになるだろう。「人間とは、自分自身について自分が語る所説を信じる動物である。人間というのは、根拠なしに軽々しく信じやすい動物なのだ」と。
 昨今の暗い時代にあって、わたしたちが自分自身について語る所説が、ある人間と別の人間を差別する最大の源になり得る、ということを強調することはないだろう。信じやすい性質はしばしば、ほんの一歩で敵意に変わってしまうのだ。

【『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ:今泉みね子訳(白水社、2010年)】

 知識という知識は未来の予測を目指す。農耕という文明は食糧を蓄えるところに目的があったのだろう。人間と動物の差異に注目するのは欧米の文化だろう。我が国の場合はむしろ日本人と外国人の違いを巡る議論が多い。

 キリスト教では神に次ぐ位置にいるのが人間のため、動物を下等なものに貶(おとし)めることで神に近づけると思っているのだろう。その思い上がりが世界を混乱に導いている。

 信じる行為はコミュニティ化、社会化が進むに連れて広範な領域に及んだ。信頼関係があればこそ分業が成立するのだ。我々の生活は食べ物から乗り物に至るまで殆どを他人の手に委ねている。原子力発電も安全だと信じてきた。いまだに信じている人々も多いようだが。

 信じるという点では洋の東西に大差はない。「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱といってよい。「薬の効力を調べる場合、『使った、治った、効いた』という『三た』式思考法は危険なのだ」(『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎)。祈った、治った、効いたという思考法はいかがわしい健康食品の類いと一緒である。

 テンプル・グランディンが動物にも確証バイアスがあることを示した。私はここに宗教発生の源があると考えている(宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン)。

 我々が信じて疑わない最大級のものは宗教と国家であろう。そしてこの二つは憎悪生産装置として作動する。ウェブ上における信者の言動を見れば一目瞭然だ。彼らは罵倒・中傷・讒謗(ざんぼう)に生き甲斐を見出しているかのようだ。争え、争え。もっと争え。そしてさっさと滅ぶがいい。

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2014-03-11

道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人


 中国では「魂魄(こんぱく)思想」という考え方があります。これは、道教儒教にも強い影響を与えています。
 魂魄思想によれば、霊魂には「魂」と「魄」の2種類があり、「魂」は体から抜け出して位牌に宿って、やがて天に登り、「魄」は死体に残って土に埋められ、やがて土に還るといいます。日本でもいまだに位牌を大事にしたりするのは、この魂魄思想が定着しているからです。
 これは仏教ではありません。中国の道教と仏教が融合してしまい、それを日本人が中国から輸入したために、日本にも根づいてしまったのです。

【『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(KKベストセラーズ、2010年)以下同】

 日蓮の遺文にも「魂魄」という語が2箇所に出てくる。日本の仏教はキメラの様相を呈している。胴体は密教で頭が仏教。そして手足は儒教と道教で構成されている。幸福の科学は日本仏教の正統かもね。

 誰もが死を恐れる。自分の死を喜ぶ人はいない。自分という存在や自分という価値が消えて無くなる。その事実を人間は直視することができない。だから宗教は「死後の物語」を創作・捏造(ねつぞう)するわけだ。「死んでも大丈夫ですよ」と。しかしその安心代は高くつく。

 宗教が語る死後の世界とか、死についての考え方というのは、すべて妄想であると考えなければいけません。なぜなら、生きている人で死後の世界を見た人は誰もいないからです。
 生死の境をさまよい、九死に一生を得て助かった人が、「臨死体験をした」などと言って、あたかも死後の世界を見てきたかのように語ることがありますが、それも完全に妄想です。生死の境をさまよいながら、あの世の夢を見ていただけです。
 本当に死後の世界を見たのなら、戻って来られるはずがないのです。戻って来られたということは、そこで見たものは死後の世界ではなく、生前の世界に決まっています。
【こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する心の整理がつくのであれば有益です。】

「妄想」に一票。「有益」には反対だ。有益を目的とするのであれば、それは宗教ではなくプラグマティズム(効用主義)だ。本人にとっても遺族にとっても何の慰めにもならないと私は考える。極端な例えを示そう。振り込み詐欺の被害者に「『オレ、オレ』と電話をしてきたのは、アストラル界にいるあなたの息子さんなのです」と納得させたら、それが救いになるのだろうか?

 苫米地はこの後、三諦(さんたい)を示し、妄想とわかった上で物語を採用する姿勢を「中観」(ちゅうがん)としている。

「空観」(くうがん)の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」(けがん)の視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見いだす視点が「中観」(ちゅうがん)なのです。

 ここからは私見である。三諦は無記との関連性で捉える必要がある。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
「無記」の教え=十難無記、十四難無記

 ブッダは霊魂や死後の存在に関して「ある」とも「ない」とも説かなかった。説かなかったのだから考えたり、思いあぐねたりする必要はない。すなわち霊魂や死後の存在の有無から離れることが正しいのだ。ここにおいて新しい物語を創作する必要性は認められない。

 3年前の今日、東日本大震災があった。今日現在で行方不明者の数が2633人と報じられている。今もご家族の遺体を探している人々がいるとも聞く。人は情に生きる動物だ。合理性で割り切れるものではない。哀しみの表情は人それぞれに複雑な陰影をなす。

 遺体が見つかれば見つかったで哀しみは倍加することだろう。遺体が見つからなければ見つからなかったで哀しみは膨(ふく)れ上がることだろう。いずれにしても哀しみは深まるばかりで癒されることがない。

 遺体に魂が存在するわけではない。そして遺体は必ず土に還(かえ)る。海にあろうと墓にあろうと土に還るのだ。哀しみは執着である。人間にとって最も深い執着といってよい。遺体から離れ、哀しみから離れる。離れてただ見つめればよい。自分自身もやがて死ぬ。亡くなったことを哀しむよりも、共に生きた時間を喜ぶべきだろう。亡くなったご家族や友人もそう思っているはずだ。死者を胸に抱(いだ)きながら、心の中で生かせばいい。私はそうしている。

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死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎

フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」


『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール