先日、千葉県柏市で連続殺傷事件が起こった。日本では銃を規制されているため、通り魔はナイフを使用すると考えてよい。もちろん我々素人が咄嗟(とっさ)に対応できるとは思えないが、やはり学習しておくに限る。家族と同居している人は実際に練習してみるとよいだろう。知識がなければ身体は動かない。
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そこで技術的な点を省略し(実は非常に数多いが)、まず次の二つの動因を特に考えてみることにしよう。それらはさしあたり、次の二つの公理的ステートメントでいいあらわされる。すなわち、(1)役人は部下を増やすことを望む。しかしながら、ライヴァルは望まない。(2)役人は互いのために仕事をつくり合う。
第一の素因を理解するために、自分の仕事が過重であると感じている一人の公務員について考えてみよう。この人物をAとする。仕事の過重の真疑(ママ)は問題ではないのだが、一応このAの感じは自分の精力の減退、つまりいわゆる更年期障害からくるものとしよう。この場合の処方は大ざっぱにいって三つある。すなわち、辞めるか、同僚Bと仕事を分ち合うか、あるいは二人の部下CおよびDの助力を求めるかである。しかし、実はAがこの第三以外の方法を選ぶ例は、歴史的にみても、ほとんどない。辞めれば恩給がもらえなくなるし、Bを自分と同列に入れれば、いずれW氏が引退するときにそのあとをつぐライヴァルをつくることになる。したがって、AがCおよびDなる後輩を自分の部下にしたいと考えるのはむしろ当然である。二人の部下は自分の重要さを増し、仕事を二つに分けてCとDとに分担させれば、自分だけ両方のパートに精通しているただ一人の男になりうるのである。CとDと、どうしても二人必要だということは重要な点である。Cだけを入れることはできない。何となれば、C一人を入れ、仕事の一部をさせれば、Cは、さきにBの場合にみたように、自分をAと同列の地位にあるように考えだす。もしCがAのたった一人の後継者だとしたら、問題はさらに深刻である。したがって部下の数は常に二人以上で、互いに他の昇格をおそれさせるようにそておかねばならない。そのうちやがてCがその仕事の過重を訴えてくるようになったら(必ずそうなるであろう)、Cとの協力で、さらに彼を助ける二人の助手、EおよびFを入れるべく意見具申をし、かつまた内部摩擦をさけるため、Dにも二人の助手、GおよびHをつけるよう意見具申をする。こうして、E、F、G、Hの採用に成功すれば、Aの昇進はもはや疑いの余地はない。
【『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン:森永晴彦訳(至誠堂、1965年)以下同】
第一法則:仕事は、その遂行のために利用できる時間をすべて埋めるように拡大する。
第二法則:支出の額は収入の額に達するまで膨張する。
第三法則:拡大は複雑化を意味し、組織を腐敗させる。
【情報システム用語事典:パーキンソンの法則】
こうして、前に一人でやっていた仕事を、7人の人間がやることになった。ここで、第二の要因が働きだす。すなわち、7人の人間は互いに仕事をつくり合い、Aは事実上、前にも増して忙しくなる。1通の受入書類は、彼等のあいだを次々にまわって行くこととなる。まずEがその書類はFの管轄に属することを定め、Fはその回答の下書きをCに提出し、CはDに相談する以前にそれを大幅に修正し、Dはこの問題についてはGに取扱いを命ずる。ところが、Gはこれから出張なので、Hにファイルをわたす。Hは覚え書きをつくり、Dがそれにサインをし、Cにわたす。Cはそれを見て、前の下書きを改訂し、その改訂版をAにもって行く。
さて、Aは何をするか。いまこそ彼にはメクラ判を押す口実がヤマとある。つまり一人であまりにも多くのことを考えなければならないからだ。来年Wのあとをつぐことになっているので、CかDのいずれかを自分の後任にきめなければならない。またAはGの出向に、必ずしもというわけではないが、同意せねばならない。もしかしたら、健康上の理由からはHをやった方がよいのかもしれない。彼はこのごろ顔色がすぐれない。家庭的な事情もあるらしいが、必ずしも、それだけでも(ママ)ないらしい。それからFの給料を会議の期間中にましてやらねばならない。Eは恩給局に転勤希望を申しこんできている。Dが夫のあるタイピストと恋愛しているということをきいていたし、GとHが絶交中だという話もある。(しかも理由を知ったものは誰もいないというのだ)。こういうわけだから、AはいまCのよこした文書にただサインだけして片付けてしまいたいところである。だが、Aには良心がある。彼は、彼の仕事仲間が、みんなや自分のために作り出してくれたさまざまの問題、つまり、これらの役人がいるということだけのために生じてきた問題に悩まされながらも、その義務を怠るような男ではないのである。彼は注意ぶかくその文書を読み、CおよびHによってつけ加えられた気に入らぬ部分をけずり、結局、少々喧嘩早いが有能なFによって最初にきめられた形にもどしてしまう。彼は英語を直し――近ごろの若いものときたら、英語もろくすっぽ書けない――そして、公務員C、D、E、F、G、Hはまったく不必要な存在であったかのように、回答を作成する。だが、もっとずっと多くの人びとが、これよりもはるかに多くの時間をかけて同じものを作っていることもある。ここでは誰一人として怠けた者はいなかった。全員がベストをつくした。そしてAが退庁し、イーリングの自宅に向って帰途につくときには、もう日は暮れかかっている。オフィスの最後の灯は、また今日も長い労働の一日の最後をマークする薄明の中に消されて行く。最後に退庁する人群れにまじって、Aは肩を丸め、ゆがんだ微笑をうかべながら思う。頭が白くなるのと同じように、時間がおそくなるのも、成功の代償のひとつなんだな、と。
80対20の法則とは、投入、原因、努力のわずかな部分が、産出、結果、報酬の大きな部分をもたらすという法則である。たとえば、あなたが成し遂げる仕事の80%は、費やした時間の20%から生まれる。つまり、費やした時間の80%は、わずか20%の成果しか生まない。これは、一般の通念に反する。
投入と産出、原因と結果、努力と報酬の間には、どうにもできない不均衡があり、その不均衡の割合はおおよそ80対20なのである。投入の20%が産出の80%、原因の20%が結果の80%、努力の20%が報酬の80%をもたらす。
【『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ:仁平和夫〈にひら・かずお〉、高遠裕子〈たかとお・ゆうこ〉訳(増補リニューアル版、2018年/阪急コミュニケーションズ、2011年/阪急コミュニケーションズ旧版、1998年)以下同】
ビジネスの世界で、この80対20の法則がはたらいている例は枚挙にいとまがない。通常、売り上げの80%を占めているのは、20%の製品、20%の顧客である。利益をとってみても、この比率に変わりはない。
社会をみると、犯罪の80%を20%の犯罪者が占めている。交通事故の80%を20%のドライバーが占め、離婚件数の80%を20%の人たちが占め(この人たちが結婚と離婚を繰り返しているため、離婚率が実態以上に高くなっている)、教育上の資格の80%を20%の人たちが占めている。
家庭をみると、カーペットの擦り切れる部分はだいたいいつも決まっていて、擦り切れる場所の80%は20%の部分に集中している。これは衣類についても同じだろう。侵入防止の警報装置があるとすれば、それが誤作動する80%は、あらゆる問題のうちの20%が原因で起こる。
エンジンをみても、80対20の法則がみごとにはたらいている。燃料の80%は無駄になり、車輪を回しているのは、燃料の20%だけなのだ。この場合、投入の20%が産出の100%をもたらしている。
宗教はとりわけ、共同体のメンバーが互いに守るべき道徳規範を示し、社会組織の質を維持する。まだ市民統治機構が発達していなかった初期の社会では、宗教だけが社会を支えていた。宗教は、同じ目的に向けた深い感情的つながりをもたらす儀礼をつうじて、人々を束ね、集団で行動させる。
したがって、単独で存在する教会はない。教会とは、同じ信念を持つ人々が作る特別な集団、つまり共同体である。その信念はありふれた無味乾燥なものの見方ではなく、深い感情的つながりを持つ。象徴的儀礼や、合唱や一斉行動のなかで共通の信念を表現することによって、人々は、自分たちを共同体として束ねている共通の信仰に深くかかわっているという信号を送り合う。宗教(religion)という語が、ラテン語で「束ねる」を意味する religare からおそらく派生しているのは、この感情的な結びつきのためかもしれない。
【『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)】