2014-04-22

宗教は恐怖に基いている/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


偶然性
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
残酷極まりないキリスト教
・宗教は恐怖に基いている

 宗教は本来、主として恐怖に基いているとわたしは考えます。それはある意味においては、未知のものに対する恐怖であり、またある意味では、あらゆる悩みや論争にあつて、そばから援助する兄を持つているという風に感じたい希望なのです。恐怖――神秘的なものに対する恐怖、敗北の恐怖、死の恐怖――がこのこと全体の基礎なのです。恐怖は残酷さの親です。それ故残酷さと宗教とが手に手を取つて行つたとしても不思議ではありません。なぜならば恐怖はそれら二つのものの基礎なのですから。この世のなかで、今やわれわれは、少しはものごとが解るようになり始めました。そして一歩一歩、キリスト教徒の宗教、教会、あらゆる古い教えに反対して、のしあげてきた科学の助けによつてそれらのことを、少しは支配し始めることができるようになりました。科学は人類がかくも永い間そのなかで住んできたところの気の弱い恐怖を克服するのにわれわれを助けることができます。これ以上創造的な拠り所をさがしまわることなく、これ以上、天に同盟者を造り出すことをせず、教会がこの何十世紀のあいだなしてきたような類の場所にではなくて、この世を住むに適しい場所にするため、この地上のここにおけるわれわれ自身の努力に目をむけるために、科学はわれわれを教えることができますし、われわれ自身の心も、われわれに教えることができると思います。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】

 直訳調で実に読みにくい。半世紀以上経ていることだし、そろそろ新訳が出てもいい頃合いだろう。

 未知への恐怖がわかりやすい動画があるので紹介する。パプアニューギニアのある部族が初めて白人と遭遇した際のドキュメンタリー映像である。彼らの反応から色々なことを考えさせられる。我々だって火星人と遭遇すれば大差はないことだろう。時間のない人は2番目の動画を見よ。








初めて白人と接触したパプアニューギニアの部族の反応 : カラパイア

 宗教が人々の不安に付け込んでいることは誰もが知っている。この動画を見ると無知にも付け込んでいることが理解できる。白人が文明の利器を使って「私は神だ」と宣言すれば、そこに宗教が生まれたことだろう。

 死者を葬るところから宗教は発生したと思われるが、天変地異に対する恐怖が宗教を不可欠なものとしたに違いない。一寸先は闇である。現代の教団はその暗さを利用して信者を獲得する。昔は動物や人間を生け贄としたが、今日では時間とカネに応じて安心が供給される。信じる者はすくわれる。足元を。

 女性に向かって「俺を信じろ」というのは大抵の場合、結婚詐欺を目的としている。嘘をつく時は必ず「俺の目を見ろ」と囁く。確かに信じる行為なくして我々の生活は成り立たないが、何を信じ何を信じないかは個人の自由であって他人が強要することではない。

 人は空腹を感じると食べ物を欲する。同じように不幸を感じると幸福を欲する。そして病気になると健康を欲する。食べ物は買えるが、幸福や健康は買うことができない。そこで宗教の出番となる。根拠のない希望を与えるのが彼らの仕事だ。

 希望といえば聞こえはいい。それが単なる願望や欲望であったとしても。多くの宗教が行っていることは現実に目を閉ざすことだ。目をつぶれば不幸に対して不感症になることができる。

 熱烈な信仰者は熱烈な共産党員と同じ表情をしている。マルチ商法で成功した連中はどこか教祖っぽい雰囲気を醸し出す。

 本物の宗教的感情は恐怖から離れた位置に存在する。恐怖心は必ず依存を目指す。あらゆる不確実性を受け入れ、それを楽しむことがよりよい人生を送る秘訣であろう。特定の宗教は必要ない。

宗教は必要か (1968年)

2014-04-21

残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


偶然性
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
・残酷極まりないキリスト教
宗教は恐怖に基いている

 もしわれわれがキリスト教徒の宗教につかまつていなければ、われわれみなは悪人になるというのであります。キリスト教にすがりついていたひとびとのほうが、大部分ひどく悪かつたようにわたしには見えます。いかなる時代でも宗教が強烈であればあるほど、また独断的な信仰が深ければ深いほど、それだけ残酷さは甚だしく、事態は悪化していたという、この奇妙な事実を発見なさるでしょう。いわゆる信仰の時代に、すべての完全さをもつて、ひとびとがキリスト教を実践信仰していた時代に、拷問をともなつた宗教裁判があり、魔女として焼き殺された無数の不幸な女性があ(ママ)りました。そして宗教の名において、あらゆる種類の残酷さがあらゆる種類のひとびとに行われたのであります。
 世界じゆうを見渡すならば、皆さんは、人間感情のあらゆる小さな進歩も、刑法のあらゆる改正も、戦争縮小へのあらゆる歩みも、有色人種の待遇改善へのあらゆる歩みも、奴隷制度の緩和も世界におけるあらゆる道徳的進歩も、世界の組織化された教会によつて、徹頭徹尾反対されてきたことを発見なさるでありましよう。わたしは敢えて申しますが、諸教会として組織されたキリスト教徒の宗教は、世界の道徳的な進歩の主なる敵であつたし、今なおそうであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】

 この後ラッセルは具体例として梅毒を患う男性と結婚した女性の例を示す。カトリック教会は離婚を認めない。更には避妊をも許さないのだ。このためエイズ蔓延を助長しているという指摘が数多くある。ラッセルは「悪魔的な残酷さ」と述べる。

 キリスト教は人類史上最悪の宗教といってよい。彼らが行ってきた殺戮はイスラム教の比ではない。宣教という名で思想的に侵略し、神の名のもとに大量虐殺を正当化するのだ。クリシュナムルティが繰り返し否定し続けた「組織化された宗教」(=制度宗教)も具体的にはカトリック教会を指す。

 魔女狩り奴隷制度インディアン虐殺帝国主義による植民地支配――これらはすべてキリスト教の歴史だ。発展途上国がいつまで経っても豊かになることができないのは、彼らが築いたシステムに起因する。

 アメリカの傲慢を見よ。かの国はプロテスタント原理主義国家だ。アメリカの思い上がりを支えているのは神の存在に他ならない。彼らが説く正義は邪悪にまみれている。そして世界最大のテロ国家でもある。

 ラス・カサスのような人物もいたことは確かだが、キリスト教がラス・カサスを生んだわけではなく、ラス・カサスがたまたまキリスト教徒であったというだけに過ぎない。

 世界を混乱に導いているのは明らかにキリスト教とユダヤ教である。これらの宗教に鉄槌を加え、白人の目を覚まさせる思想を樹立する必要がある。インディアンの思想が理想的だが、現実的に考えるとジブリ作品で攻めるしかないように思う。キリスト教への対抗思想としてアニミズムの復興を目指すべきだ。それがブッダとクリシュナムルティを受け入れる素地となることだろう。

宗教は必要か (1968年)

2014-04-20

イエスの道徳的性格には重大な欠点がある/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


偶然性
・イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
残酷極まりないキリスト教
宗教は恐怖に基いている

 これらの格言の立派さを認めた上で、わたしは、福音書に描かれているところのキリストに最高の聰明さも、最高の善も認めることができるとは信じられない、幾つかの点について述べることにいたします。そしてここでは、歴史的な問題には関係しないことに致します。歴史的にみれば、キリストが実際存在していたかどうかは、甚だ疑問でありますし、存在していたとしましても、彼についてわれわれは何も知らないのであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)以下同】

 重要な講演なのでどんどん紹介しよう。ラッセルはきちんと聖書を読んだ上でその矛盾を突く。そしてキリスト教最大のタブーである「イエスの実在問題」にも触れる。余談だがクリシュナムルティも「イエス・キリストは存在しなかった人物かも知れない」と述べている(『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン)。正真正銘のイエスの言葉は残っていないし、聖書はオリジナルも複製も存在しない(バート・D・アーマン)。つまりキリスト教とは壮大な伝言ゲームなのだ。

 そこで、道徳的な問題にやつてきます。わたしの考えでは、キリストの道徳的性格には一つの重大な欠点があります。それは彼が地獄を信じていたということです。真に深く人情味のあるひとならば、永遠の罰というものを信じることはできないという気がいたします。福音書に描かれているキリストは、たしかに永遠の罰を信じていたし、彼の説教に耳を傾けようとしないひとびとに対する報復的な憤激の反映されているのを発見するのであります――これは説教者には珍しくない態度ではありますが、たしかに至高の立派さからは、多少、おちるのであります。たとえば、そのような態度は、ソクラテスには見られません。彼が自分の意見に耳を傾けようとしないひとびと対しても、極めて愛想がよく、思いやりがあるのがわかります。そして、わたしの考えでは、憤慨の線にそうより、その線にそつていくことが聖人にははるかに適わしいものであります。おそらく、皆さんは、ソクラテスが死に臨んだときに、言つたたぐいのこと(※『パイドン 魂の不死について』)を御記憶のことと存じますが、ああいつたことがらを、彼は日頃自分の意見に同意しないひとびとに、いつも言つていたのであります。
 福音書のなかで、キリストがこう言つているのを発見なさるでしよう。「なんじら蛇どもよ、さそりのともがらよ、いかにして地獄ののろいをのがるべけんや。」それは彼の説教を好まなかつたひとびとにむかつて言われたのです。それは、実際、わたしの考えでは、最善の語調とは言えません。そして地獄について沢山のこういつたことがらがあるのです。もちろん、聖霊に対する罪については、よく知られているテクストがあります線「聖霊にさからいて語るものは、この世においても、来世においても許されざるべし。」そのテクストは世のなかに、言いつくされないほどのみじめさをひきおこしました。というのは、種々雑多なひとびとが聖霊に対する罪を犯したと想像し、この世においても、来世においても許されないだろうと考えたからであります。実際、性格のなかに、適当な親切気があるひとならば、そのようなたぐいの心配や恐怖をもたらすようなことはしないと考えます。それからキリストは言うのです、「人の子は天使をつかわし、天使たちは彼の御国より、罪ある総てのもの、不正をなすものをあつめ、炉の中に投げ入るべし、嘆きとはぎしりおこるべし。」そして、彼は嘆きとはぎしりについて説くのであります。それはつぎつぎの句にあらわれるので、嘆きとはぎしりを瞑想することには、一種の快楽があることが、読者には明らかになります。そうでないのなら、あんなに何回も出てくるはずがありません。それから、皆さんは、もちろん、羊と山羊のこと、再来のとき、羊と山羊を分けるという話を御記憶でしよう。キリストは山羊に言おうとするのです「なんじら、のろわれたるものよ、われより離れて、とこしえの火に落ちよ。」彼はつづけて言うのです。「そしてこれらのものはとこしえの火に入れらるべし。」それからまた彼は言うのです「もし汝の手あやまたば、そを切り捨てよ、かたわとなつて生命を得るは、両手を持ちて地獄の火に入るにまさればなり。その火は消ゆることなし、そこにては蟲けらは死ぬことなく、火は消ゆることなし。」彼はそのことも何回となく繰返すのです。この教義のすべて、すなわち地獄の火が罪に対する罰であることは残酷さの教義であると考えなければなりません。それは残酷さをこの世にもたらし、このよ(ママ)のひとびとに残酷な拷問を与える教義です。そして福音書のキリストは、彼の記録者たちが彼を表現しているままにうけとるとするならば、その残酷さについては、一部分責任があると、たしかに考えられなければなりません。

 日蓮も地獄を信じていた。イエスも日蓮も「怒りの人」であったのだろう。怒りは罰を欲する。

 イエスがキリスト(救世主)であるならば、「地獄をつくったのもあんただろ?」という話にならないのだろうか? 創造主は自分と似せた姿として人間をつくったわけだが、あまり上手くいかなかったようだ。まるで腕の悪い大工みたいだ。

 罪人を裁くという発想はコミュニティに由来するもので宗教的価値ではあるまい。集団のルールを犯したり利益を損なった場合に我々は彼を「犯罪者」と認定する。チンパンジーのコミュニティであればその場で撲殺される。人間社会では裁判という手続きを経るが原理は同じだ。多少時間をかけるだけの違いだ。

 罪を強調する宗教は人々の憎悪を掻き立てる。ファナティックとは宗教的熱狂と狂信者を意味する言葉だ。もう一歩踏み出せば大量虐殺へと至る。あらゆる熱狂には暴力的な衝動が潜んでいる。その残酷さをラッセルはひたと見つめた。

 翻訳は「キリスト」となっているが、「イエス」と表記するのが正しい。

宗教は必要か (1968年)

人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害してきた

息子を殺された母親、執行直前の死刑囚を免罪 イラン


AFP 2014年4月18日

2014-04-19

偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル


『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

・偶然性
イエスの道徳的性格には重大な欠点がある
残酷極まりないキリスト教
宗教は恐怖に基いている

ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?

 とにかく、もうニュートン式の、たれにも理解できないけれども、ある理由で、自然は統一された様式で動作をするといつたたぐい(ママ)の自然の法則は通用しないのです。今では、われわれが自然の法則だと考えていた沢山なことが、実は、人間の習慣でしかないことを発見しているのであります。御承知のように、天体の空間のどんな違いにおいてもなお三呎(※フィート)は1ヤードです。これは、明らかにおどろくべきことではありますが、どうも自然の法則とは言いかねるのであります。そして自然の法則とみなされてきた多くのことはそのたぐいであります。これに反して、原子が実際になすところのことになんらかの知識を得ることができる場合には、ひとびとが考えていたほどには、法則に従つていないことが解るでありましょう。そして到達することのできる法則は、偶然から現れる類のものにそつくりな統計的平均値なのであります。御承知のように、骰子を振つたなら、6の目が二つでるのは大体36回に一度という法則がありますが、われわれは骰子の目がでるのが神の意向によつて規正されている証拠だとはみなしません。反対に、6の目が二ついつもでるならば、神の意向があつたと考えるべきでありましよう。自然の法則というのは、そのうちの沢山なものについての、そのような類のものであります。それは偶然性の法則から出てくる統計学的平均値にすぎず、そのことが自然の法則に関するすべてのことを昔にくらべて、甚だしく影を淡くしているのであります。(「なぜ私はキリスト教徒ではないか」)

【『宗教は必要か』バートランド・ラッセル:大竹勝訳(荒地出版社、1959年)】

 1927年に行われた有名な講演が冒頭に収められている。ラッセルは回りくどいほど丁寧に、そして時々辛辣なユーモアを交えて語る。時代は第一次世界大戦から第二次世界大戦に向かっていた。ヨーロッパで神を否定することは、日本で天皇を否定するよりも困難であったと思われる。それをやってのけたところにラッセルのユニークさ(独自性)がある。アインシュタインも無神論者であったが神の正面に立つことはなかった。

 原子の振る舞いを例に挙げているのはブラウン運動熱力学の法則が念頭にあったのだろう。また量子力学が確立されたのが1927年であるからラッセルは当然知っていたはずだ。特定の素粒子の位置は不確定性原理によって確率でしか捉えることができない。

 人は不幸や不運が続くと「祟(たた)り」に由来すると考えがちである。これがアブラハムの宗教世界では「神が与えた試練」すなわち「運命」と認識される。つまり物語は偶然(あるいは非均衡)から生まれるのだ。ラッセルはサイコロの例えを通して明快に説く。

 脳は時系列に沿って因果関係を構築するため、相関関係を因果関係と錯覚する。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 そして宗教は人々の不幸と不安に付け込んで商売を行う。免罪符(贖宥状)・お守り・お祓いは金額に換算される。罪を軽くするには神様への賄賂が必要なのだ。

 正確に言えばラッセルはキリスト教批判を目的にしたわけではなかった。彼は科学的なものの見方を披瀝しただけであった。ヨーロッパから神を遠ざけた人物としてラッセルはニーチェと双璧を成すと考える。

宗教は必要か (1968年)

宗教と科学の間の溝について
日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
バートランド・ラッセル