2020-07-31

シベリア抑留を援護射撃した社会党


シベリア抑留 > 日本側の対応

 1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。

 1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている。

 1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見や国会での報告で「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」などと虚偽の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追及を受けている。

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 もはやソ連の手先といってよい。かような政党を1990年の土井ブームまでのさばることを許した自民党と国民の責任は大きい。しかも弱小政党になったとはいえ、まだ消滅していないのだ。

 野溝勝のページには次の記述がある。

シベリア抑留問題への対応

 シベリア抑留問題では未だ1000人余の未帰還者がいる状況であった1955年に超党派の訪ソ議員団が結成され、このうち社会党左派の議員のみハバロフスクの戦犯収容所への訪問がソ連側から許された。野溝はこの視察団の団長となるが、この視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであった。

 一方、抑留者らは議員の来訪を察知し、営倉入りを覚悟の上でサボタージュを行い、議員との面会にこぎつけた。なお、以前に行われた高良とみの収容所訪問では健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の他の収容者はどうしたのかとの問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と応えている。

 議員らに対し収容者を代表して挨拶を行った尾崎清正元中尉は、決死の覚悟で収容所の実態を伝えるとともに自分たちを犠牲にしてもかまわないのでソ連の脅しに屈することなく国策の大綱を誤まらないで欲しいと訴え、数人がこれに続いた。これに対し、浅原正基が発言をしようとして他の収容者から野次や怒号を浴びた。騒然とした様相に視察団は呆然としていたが野溝は「思想は思想で戦うようにし、同胞はお互いに仲良くしてください」とお茶を濁した。野溝は収容所の売店に立ち寄り、所長の中佐から「日本人は賃金をたくさんもらうので、日常こんな品物を自由に買って、生活を楽しんでいる」という説明を受けたが、その場で所長の言葉を通訳した朝鮮人収容者から「みんな出鱈目ですよ。あなた方に見せるため昨日運び込んだもので、あなたがたが帰られたらすぐに持って行ってしまうものです」と言われて苦笑したという。

 日本人抑留者らは視察団に家族への手紙を託したが、仲間の釈放のための外交努力を求めるとともに将来の日本の国策のためならば祖国のためにこの地に骨を朽ちさせても悔いはないとする収容者らの決意を認めた国民や議員に宛ての7通の手紙も一緒にこのとき手渡されている。しかし、野溝らはこれら7通の手紙を握りつぶし、議員団団長である北村徳太郎への報告もしなかった。抑留者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、野溝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追求を受けている。これに対し野溝は「発表の技術等の不手ぎわの点についてのおしかりならば、私は大いに考えなければならぬし、その点について不徳の点があるならば、私は大いに反省をいたします。」としながらも他意はなかったと弁解している。稲垣武は、野溝がこのような破廉恥な行為を敢えてしたのは、公表すれば自分たちに都合が悪いと思ったからであろうとしている。

 帰国の途上、野溝は戸叶里子と共に香港で記者会見を行い、知っていたはずの真実を隠匿し収容所側の説明に沿うかたちで以下のような発言をしたことが新聞に記載されている。

・「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった」
・「戦犯の生活として、カロリーは科学的に計算されているという事で、皆んな元気そうな顔付であるのにホットした。顔付は、普通人並でラーゲルとしては普通といってよいだろう。」
・「ソ連人一般の悩みでもあるが、冬に生野菜が欠乏するのをかこっていた。食堂、調理とも清潔で、ここには罐詰等も配給があり集合所にも使われていた。」

Wikipedia

 野溝は縛り首にすべき人物であると私は考えるが、なんと勲章(正三位勲一等瑞宝章)を授与されている。大東亜戦争終盤における指導階級の混乱はそのまま戦後も維持されたと認めざるを得ない。

 旧社会党勢力は民主党に紛れ込み、現在は立憲民主党と改称している。在日外国人の通名みたいなものだ。同胞を売った売国奴どもを私が許すことはない。

カーター・エマート:三次元宇宙地図のデモ


『サイクリック宇宙論 ビッグバン・モデルを超える究極の理論』ポール・J・スタインハート、ニール・トゥロック

 ・カーター・エマート:三次元宇宙地図のデモ

太陽系のダイナミズム


 太陽系は太陽を中心に回っているわけではない。太陽系の共通重心が中心になっているという。


 地球と月の場合、共通重心は地球内部にあるため動きは抑えられる。


 もっと驚かされるのは太陽系そのものが天の川銀河を2億年かけて1周していることだ。我々の常識は静的な宇宙モデルに支配されていて太陽系のダイナミズムを実感することが難しい。

2020-07-30

身体障碍の現実/『寡黙なる巨人』多田富雄


『免疫の意味論』多田富雄
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史

 ・身体障碍の現実

『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一

 そのとき突然ひらめいたことがあった。それは電撃のように私の脳を駆け巡った。昨夜、右足の親指とともに何かが私の中でピクリと動いたようだった。
 私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので決して元に戻ることがないくらいのことは、良く理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてあり得ない。神経細胞の再生医学は今進んでいる先端医療の一つであるが、まだ臨床医学に応用されるまでは進んでいない。神経細胞が死んだら再生することなんかあり得ない。
 もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創り出されるものだ。もし私が声を取り戻して、私の声帯を使って言葉を発したとして、それは私の声だろうか。そうではあるまい。私が一歩踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何かを摑むんだとしたら、それは私ではない何者かが摑むのだ。
 私はかすかに動いた右足の親指を眺めながら、これを動かしている人間はどんなやつだろうとひそかに思った。得体のしれない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれるもののに期待と希望を持った。
 新しいものよ、早く目覚めよ。今は弱々しく鈍重(どんじゅう)だが、彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた。私には、彼が縛られたまま沈黙している巨人のように思われた。

【『寡黙なる巨人』多田富雄(集英社、2007年/集英社文庫、2010年)】

 多田富雄は脳梗塞で右麻痺となり言葉を失った。嚥下(えんげ)障害の苦しさを「自分の唾に溺れる」と記している。感情の混乱についても赤裸々に書いており、妻への感謝を表現できずイライラばかりが募る様子に身体障碍(しょうがい)の現実が窺える。それでも多田は表現することをやめなかった。本書は左手のみのタイピングで著した手記である(柳澤桂子)。

 地べたに叩きつけられたような現実の中で多田は大いなる生の力を実感した。「寡黙なる巨人」とは卓抜したネーミングである。不思議な運命の糸を手繰り寄せ、生かされている事実を見出すことは難しい。決して大袈裟ではなく「全てを失った」時に“生きる力を奮い立たせる”といった言葉はあまりにも軽すぎる。ルワンダ大虐殺シベリア抑留にも匹敵する極限状況といってよい(『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル)。

「凄いなあ」と感心して終われば他人事である。そうではなく我々の日常も「小さな極限状況の連続」と捉えるべきだ。命に関わるような重大な出来事はなくても、些細な暴力や抑圧、恐怖や不安はあるものだ。そこでどう判断して動くか。ただただ耐えているだけなら、いつか殺される日を待っているようなものだろう。いじめやパワハラも最初は小さな仕打ちから始まる。その時「やがて命に関わる問題になる」と見抜くことができれば対応の仕方は変わってくるだろう。

 多田が体の自由を奪われた時に見出した「巨人の力」を私は自分の内側に感じない。私は本当に生きているのだろうか?

2020-07-29

ヴァン・リード「生麦事件は自業自得」/『史実を歩く』吉村昭


『破獄』吉村昭

 ・ヴァン・リード「生麦事件は自業自得」

・『生麦事件』吉村昭

 生麦事件の資料を収集している間に、二人の特異な人物が浮び上るのを感じた。
 一人は、事件当時、アメリカ領事館の書記生をしていたアメリカ人ヴァン・リードである。
 島津久光の行列が、高輪の薩摩藩下屋敷を出立し、品川宿、川崎宿を過ぎ、先導組が鶴見村の橋にかかった時、前方から茶色い馬に乗ってやってくる外国人が見えた。ヴァン・リードである。
 先導組の藩士たちは激しい憎悪の眼をむけたが、ヴァン・リードは行列が近づくのを見て馬から降り、馬を街道から畠の中に引き入れた。
 さらに先導組が進んでくると、かれは羽毛のついた青い帽子を脱ぎ、さらに帽子を胸にあてて片膝を突いた。先払いが近づき、かれは頭をさげた。
 それは、大名行列に対して畏敬の念をしめすもので、先導組の藩士たちは、横眼で見ながら通りすぎた。
 ヴァン・リードは、つづいてやってきた行列の本隊と後続組にも同じ姿勢をとりつづけ、何事もなく行列は過ぎ、かれは再び馬に乗って川崎方面にむかった。
 この行為について、後に外務大臣となる林董〈はやし・ただす〉は、
「予が知れるヴァンリードと云ふ米人は、日本語を解し、頗る日本通を以て自任したるが、リチャードソン等よりも前に島津の行列に逢ひ、直に下馬して馬の口を執り、道の傍に停り駕の通る時脱帽して敬礼し、何事なく江戸に到着したる後、リチャードソンの生麦事件を聞き、日本の風を知らずして倨傲無礼の為めに殃(わざはひ)を被りたるは、是れ自業自得なりと予に語れり」
 という談話を残している。

【『史実を歩く』吉村昭(文春新書、1998年/文春文庫、2008年)】

 吉村昭が苦手である。読み終えた作品は『破獄』一冊のみ。たぶん5~6冊ほど手に取ったが数十ページも読むことができなかった。私にとっては相性の悪い作家だが、冒頭の“「破獄」の史実調査”で引き込まれた。淡々と綴られた文章が鈍い銀色を放っていた。人と人との不思議な邂逅(かいこう)をモノクロ写真のように描いている。敢えて色彩を落とすところにこの人の味がある。

 生麦という地名がまだ残っていることを一昨年知った。横浜市内をクルマで走っていた時に経路案内の標識に「生麦」と出てきたのだ。思わず「生麦!」と大きな声に出した。同乗していた若者に「これは生麦事件の生麦だよね」と訊いたら、「そういうのわかんないんスけど」で終わった。ま、「早口言葉ですか?」と言わなかっただけまだいい。

 生麦事件は日本文化を理解しない西洋人が犯した非礼が発端となっている。


 個人的には4人のイギリス人に対して1名殺害、2名重症、1名逃亡という結果はだらしがないように思う。で、当時から文化的な衝突であったことはよく知られていた。

 また当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している。(中略)
 事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師はリチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」

Wikipedia

 生麦事件は翌年(文久3年/1863年)薩英戦争に発展する。同年、長州藩が下関戦争を起こしている。ここで歴史が予想しない方向に跳ねた。薩摩藩とイギリスが気脈を通じ最先端技術が入ってくるのである。幕府は生麦事件の賠償金10万ポンド(44万ドル=27万両)と下関戦争の賠償金(300万ドルのうち150万ドル=94万両)を支払わされた。当時の10万ポンドは現在の200億円に相当する。つまり幕府は800億円強の負債を抱え込んだことになる。これが幕府崩壊のボディブローとして決定的なダメージを残した(『お金で読み解く明治維新』大村大次郎、2018年)。

 150年後、尖閣諸島周辺で中国公船が領海侵犯を100日以上続けても、我々は日々報じられるニュースの一つとしてしか感じられなくなってしまった。

 生麦事件は私が生まれるちょうど100年前の出来事である。

2020-07-27

成人病が生活習慣病に変わった理由/『武術と医術 人を活かすメソッド』甲野善紀、小池弘人


『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』岡田慎一郎
・『古武術で毎日がラクラク! 疲れない、ケガしない「体の使い方」』甲野善紀指導、荻野アンナ文
『体の知性を取り戻す』尹雄大
『響きあう脳と身体』甲野善紀、茂木健一郎

 ・成人病が生活習慣病に変わった理由

・『日本人の身体』安田登

小池●かつて「成人病」という語がありましたが、あれが今は「生活習慣病」になっていますよね。名前が変わった理由は、成人だからかかるのではなく、「生活習慣が原因だから」というのが、表面的な理由ですが、実はもっと深い理由があります。
 それは成人になったら誰もがしようがなくかかってしまうものならば、国や他人が面倒を見なきゃいけない。けれども生活習慣病という概念になった途端、「おまえの生活習慣が悪いから病気になったのだから、おまえの責任だ」といえてしまえる。つまり、自己責任の時代が来たんだという意味があるというものです。これは当然医療経済的な意味もあるわけで、ただ単に原因論的な名前に変わったという以上の意味があるわけです。そして一方で「生活習慣」といわれても急に変えられる人は少ないのが実情です。そうなると理想とはうらはらに「自己責任」にもどついてクスリで何とかしようと考える人も出てくるわけです。「急がば回れ」の反対の姿勢です。すると生活改善による予防を目的とした数値が、いつしか薬物治療の目標値になってしまうわけです。
 そうなると反対に病気でもないのに無理やり病気みたいに扱われてしまうこともありえるわけです。

【『武術と医術 人を活かすメソッド』甲野善紀〈こうの・よしのり〉、小池弘人〈こいけ・ひろと〉(集英社新書、2013年)】

 厚生省(当時)が生活習慣病との改称を提唱したのは1996年12月18日のことである(生活習慣に着目した疾病対策の基本的方向性について(意見具申))。厚生大臣は菅直人(新党さきがけ)から小泉純一郎(自民)に変わった直後だ(11月7日就任)。大臣主導というよりは橋本内閣が掲げた「六つの改革」を踏襲したものだろう。

 但し、疾病の発症には、「生活習慣要因」のみならず「遺伝要因」、「外部環境要因」など個人の責任に帰することのできない複数の要因が関与していることから、「病気になったのは個人の責任」といった疾患や患者に対する差別や偏見が生まれるおそれがあるという点に配慮する必要がある。

生活習慣に着目した疾病対策の基本的方向性について(意見具申)

 つまり厚生省(当時)は「疾病原因は生活習慣に限らない」が「生活習慣病」と呼ぶよう促しているのだ。支離滅裂である。現在、健康診断などの問診票を見ても自己責任を問う内容が増えており、運動をしていない人には自己嫌悪を覚えるような代物となっている。

 玄米食に興味を抱いている時に読んだ本なので今見返すと随分印象が違う。玄米は解毒性が強いため長期間にわたって摂取するのは問題があると私は考える(玄米の解毒作用)。本当に玄米が体にいいのであれば糠(ぬか)を食べればいいだけのことだ。生野菜も勧めているが短期間の感覚を重視するのは極めて危うい。

 身体(しんたい)や病気に関することで「これが正しい」との主張は眉に唾をした方がよい。体は人によって違うのだから。

2020-07-26

混乱が人材を育む/『響きあう脳と身体』甲野善紀、茂木健一郎


『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』岡田慎一郎
・『古武術で毎日がラクラク! 疲れない、ケガしない「体の使い方」』甲野善紀指導、荻野アンナ文
『体の知性を取り戻す』尹雄大

 ・混乱が人材を育む

『武術と医術 人を活かすメソッド』甲野善紀、小池弘人
・『日本人の身体』安田登

身体革命

茂木●一方、私たちは科学者として生きているわけではなくて、生活者として生きています。科学で説明できないからといって、存在しないというわけではありませんから、科学で説明できない部分を何らかの形で引き受け、生活者として実践していかなくてはならない。
 そうすると結局、科学で説明できないことについては、自分の経験や感覚、歴史性を通して引き受けていくしかないんですね。世の中にある現象のうち、易しいものは科学で説明できるけれど、難しいものは科学で説明できない。でも、生きていくためには、科学で説明できない難しさのものも、たくさん活用していかなくてはいけない。生活者である私たちは、科学がすべてを解明するのを待つことはできませんから、「これは今のところ科学的には説明できない現象なんだ」と受け入れ、それ以外の説明を活用していくしかないということです。

【『響きあう脳と身体』甲野善紀〈こうの・よしのり〉、茂木健一郎〈もぎ・けんいちろう〉(バジリコ、2008年/新潮文庫、2010年)】

 中々言えない言葉である。まして科学者であれば尚更だ。複雑系科学不確定性原理ラプラスの悪魔を葬った。宇宙に存在する全ての原子の位置と運動量を知ったとしても未来は予測できない。

 科学者が合理的かといえば決してそうではない。彼らは古い知識に束縛されて新しい知見をこれでもかと否定する。アイザック・ニュートンは錬金術師であった。ケプラーは魔女の存在を信じていた。アーサー・エディントンはブラックホールの存在を否定した。産褥熱は産科医の手洗いで防げるとイグナーツが指摘したが医学界は受け入れなかった。オーストラリアのロビン・ウォレンとバリー・マーシャルがピロリ菌を発見し、これが胃潰瘍の原因だと発表した際も若い二人を医学界は無視した。

 科学は説明である。何をどう説明されたところで不幸な人が幸福になることはない。恋の悩みすら解決できないことだろう。

甲野●結局のところ、社会制度が整備化されて、標準化されることによって、つまらない人間が増えてきたということではないですか。たとえば明治維新後すぐの日本は、すべての制度が不備だった。会社や官僚組織なんかでも、ほとんどが縁故採用だったわけですが、多様な、ほんとうにおもしろい人材が育っていった。コネで採用するというのも選ぶ側に人を見る眼があると、けっこういい人材がそろうんですよね。
 ところが、日露戦争に勝ち、「日本は強くなった。成功した」という意識が広がり、いろんなインフラを整備して、社会がシステム化された結果、そういうシステムの中で採用されて育った人間が、太平洋戦争で大失敗してしまったわけですよ。やっぱり混乱期の、いろいろなことが大雑把で混乱している時のほうが、おもしろい人間が育ちやすいのではないかと思います。

 これは一つの見識である。さすが古文書を読んでいるだけのことはある。鎌倉時代から既に700年近く続いた侍は官僚と化していたのだろう。侍の語源は「侍(さぶら)ふ」で「従う」という意味だ。もともと侍=官人(かんにん)であるがそこには命を懸けて主君を守るとの原則があった。責任を問われればいつでも腹を切る覚悟も必要だった。ところが詰め腹を切らされるようなことが増えてくれば武士の士気は下がる。結局切腹という作法すら形骸化していったのだ。

 明治維新で活躍したのは下級武士だった。エリートは失うものが多いところに弱点がある。身分の低い者にはそれがない。まして彼らは若かった。明治維新は綱渡りの連続だった。諸藩の動向も倒幕・佐幕とはっきりしていたわけではなかった。戦闘行為に巻き込まれるような格好で倒幕に傾いたのだ。しかも財政は幕府も藩も完全に行き詰まっていた。外国人からカネを借り、贋金(にせがね)を鋳造し、豪商からの借金を踏み倒して明治維新は成った。

 実に不思議な革命であった。幕府を倒したという意味では革命だが西洋の市民革命とは様相を異にした。それまで日本の身分制度の頂点にいた武士が自ら権益と武器を手放したのだ。気がつけばいつの間にか攘夷の風は止んで開国していた。この計画性のなさこそが日本らしさなのだろう。

 果たして次の日本を担う人材は今どこで眠っているのだろうか?

2020-07-23

新型コロナ:感染者数は増加しているが日米で死者数が激減



島原の乱を題材にした小説


 松原久子〈まつばら・ひさこ〉著『黒い十字架』(藤原書店、2008年)読了。島原の乱前夜を描いた小説である。セオリーとしては『沈黙』と比較するのが筋なのだろうが、私としては『みじかい命』を推す。松原久子は竹山道雄の衣鉢(いはつ)を継ぐ人物だと考えているからだ。島原の乱は鎖国のきっかけとなった事件であった。鎖国を実現し得たのは日本がヨーロッパに対抗できる軍事力を有していたからだ。「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)にあって有色人種地域はほぼ全てがヨーロッパの支配下となった。豊臣秀吉のキリスト教弾圧も先見的な政策判断であった。以下に島原の乱関連書籍をまとめた。

・『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』若桑みどり
・『マルガリータ』村木嵐

・『沈黙』遠藤周作
・『島原の乱』菊池寛
・『幻日』市川森一
・『奇蹟 風聞・天草四郎』立松和平
・『完本 春の城』石牟礼道子

『黄金旅風』飯嶋和一
・『出星前夜』飯嶋和一

・『街道をゆく17 島原・天草の諸道』司馬遼太郎
『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文
『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新

『みじかい命』竹山道雄

2020-07-20

体と思考/『体の知性を取り戻す』尹雄大


 ・体と思考

『響きあう脳と身体』甲野善紀、茂木健一郎
『武術と医術 人を活かすメソッド』甲野善紀、小池弘人
『身体構造力 日本人のからだと思考の関係論』伊東義晃

身体革命

 体よりも思考が重視されている世の中では、現実と出会うのはなかなか難しい。私たちが「これが現実だ」と言うとき、他人とのあいだで共通認識が取り結べ、必ず頭が理解できる程度のものになっているからだ。いわば【頭の理解に基づく社会的な現実】と言っていい。それは【体にとっての現実】とは違う。
 体の現実とはつかの間、感覚的にのみ垣間見えるものかもしれない。たとえば火にかけた薬缶(やかん)に触れてパッと手を離すとき、のんびりと「熱い」などと認識していないはずだ。手を離す行為と感覚が現実の出来事にぴたりと合っていて、そこに「熱い」という判断の入る余地はない。
 それでも私たちは「熱いと感じて、思わず手を離した」と自分や他人に向けて言う。それは常に後から振り返った説明なのだ。「感じた」と言葉で言ってしまえるのは、リアルタイムではなく、認識された過去の出来事にすぎない。というのは、現実は「~してから~した」といった悠長な認識の流れで進んではいないからだ。「間髪を入れず」というように、髪の毛ほどの隙間もないのが現実だ。
 つまり私たちにとっての現実は、常に言葉にならない感覚の移ろいでしかない。わずかにその変化を掴むことで、現実の一端を知ることができる。

【『体の知性を取り戻す』尹雄大〈ユン・ウンデ〉(講談社現代新書、2014年)】

 入力しながら気になったのだが一般的には「手放す」と書くので「手を離す」は誤字かと思いきや、そうではなかった(「離す」と「放す」 - 違いがわかる事典)。

 尹雄大〈ユン・ウンデ〉はスポーツ選手のインタビュアーを生業(なりわい)としているが、格闘技や武術を嗜(たしな)んでいるので思考の足がしっかりと地についている。全体的には社会に対する違和感を体の緊張として捉え、哲学的に読み解こうとしている。

「頭の理解に基づく社会的な現実」や「認識された過去の出来事」といった表現に蒙(もう)を啓(ひら)かれる思いがする。脳は妄想装置である。その最たるものが政治や軍事におけるリアリズムであろう。民意や国際合意の捉え方次第でクルクル動く現実だ。認識が過去であるならば唯識は現在性を見失っていることになる。識とは受信機能である。しかも知覚は常に遅れを伴う(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。

 悩みは過去であり、希望は未来である。どちらも現在性を見失った姿だ。人は過ぎ去った過去と未だ来ない未来を想像し苦楽を味わう。存在しないものを信じるという点では一神教の神とよく似ている。信ずる者は掬(すく)われる。足元を。

 おしなべて思考のトレースがわかりやすい言葉で書かれていて着眼点も鋭い。必読書に入れようと思ったのだが「あとがき」に余計な一言があったのでやめた。

近代日本の進路を決定する視察/『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武


 ・近代日本の進路を決定する視察

日本の近代史を学ぶ

 本書は岩倉(いわくら)使節団の公式記録『特命全権大使 米欧回覧実記』の抜粋現代語訳と註釈です。
 岩倉使節団とは特命全権大使・岩倉具視(ともみ/右大臣)を団長、木戸孝允(きどたかよし/参議〈さんぎ〉)、大久保利通(おおくぼとしみち/大蔵卿〈おおくらきょう〉)、伊藤博文(工部大輔〈こうぶいたいふ〉)、山口尚芳(やまぐちなおよし/外務小輔)を副使として、以下、書記官、理事官、随行員(新島襄〈にいじまじょう〉など)、さらには留学生(津田梅子〈つだうめこ〉、山川捨松〈やまかわすてまつ〉、中江兆民〈なかえちょうみん〉など)を含め総勢107名からなる一行が明治4年から6年にかけて1年半余りの長期にわたりアメリカおよび欧州諸国を歴訪、外交交渉と各国事情視察にあたったものです。

【『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武編著:大久保喬樹訳註(角川ソフィア文庫、2018年/岩波文庫全5巻、1977-82年/水澤周訳注、慶應義塾大学出版会、2005年)】

「前書き」の冒頭より。『特命全権大使 米欧回覧実記』は、岩倉使節団の使節紀行纂輯(さんしゅう)専務心得(資料収集、記録係)を命じられた久米邦武〈くめ・くにたけ〉が明治11年に全100巻として完成したもの。各巻はそれぞれ400ページ近くある。


 検索して知ったのだが津田梅子は満年齢だと8歳である。また山川捨松は会津藩家老の娘だが、会津戦争(1968年)からわずか3年後に留学生として選ばれている。誰がどのような基準で選んだのかが不明だが、幼い留学生たちは後に大輪の花を咲かせる。

 岩倉使節団は新生日本国の耳目となり米欧を見聞した。薩英戦争(1863年)と下関戦争(1863、1864年)を経て既に薩長では攘夷の概念は粉砕され開国を志向していた。維新の立役者であった岩倉・木戸・大久保の三人が長期間外遊すること自体が常識外れで思考の柔軟性を示している。

 使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪 。以後は洋装に改めた。

Wikipedia

 世界の風に吹かれる中で古い思い込みから脱却してゆく様子が窺える。結果的に不平等条約改正の予備交渉は少しも上手くゆかなかったが、近代日本の進路を決定する視察となった。使節団の帰国後、西郷隆盛の征韓論は斥(しりぞ)けられ西南戦争に至るのである。更に欧州のバックボーン(背骨)がキリスト教であることを見抜き、後の憲法制定では伊藤博文が天皇に置き換えることで憲法に息を吹き込んだ(『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹)。


【※右は岩波文庫版5冊セット】

明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫