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2016-06-13

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

七八〇 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】

「筏(いかだ)の喩え」(『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ)でブッダは「正しい教えにも執着してはならない」と教えた。それを更に検証しよう。

 初期仏教の最古層といわれるスッタニパータの第4章(七六六~九七五)では繰り返し同じことが述べられる。ブッダは論争を禁じた。鎌倉時代に生まれた日蓮が知れば、ぶったまげたことだろう。日蓮は法論を好み、幕府に対して繰り返し公場対決を申し入れた。

 悪意から誹る言葉が生まれる。誹る言葉が風となって悪意の火は盛んになる。怒りの車輪は回転を始める。恨みは必ず同調者を求め、敵と味方を形成してゆく。

七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
八〇〇 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

「偏見」とは偏った見方に執着することだ。ここで驚くべきことにブッダは「比較から離れる」ことを教える。

 比較と順応がないとき、葛藤は姿を消します。

【『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン:高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年/新装・新訳版、2016年)】

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 2500年前に想いを馳せてみよう。権利という意識はまだ芽生えていなかったことだろうし、自由や平等といった概念も稀薄だったことだろう。庶民に至っては自我も確立されておらず、まだ右脳の声が聞こえていたに違いない(統合失調症)。そして夢と現(うつつ)の境も曖昧であったことだろう。「個人」という言葉は近代以降の概念である。

 知識は脳を束縛する。それ以上にコミュニティ(党派)が人々を支配する。出自やカーストから自由になることは想像を絶する。枢軸時代以前の民俗宗教は神の声を代弁するシャーマンチャネラーの言葉に集団が従うシステムであった。人々の脳には検討できるだけの材料(情報)がなかった。たぶん渡り鳥や魚の群れと大差がなかったことだろう。文字がないゆえに知識は神話の形で語り継がれる。神話はただ「受け取る」ものである。それは掟でありルール(法)であり定めであった。

 人々がカーストに執着し、カーストを疑うことすらできなかった時代に、ブッダは執着からの自由を説いた。

八二五 かれらは議論を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。――みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで。
八二六 集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論的の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
八二七 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
八二八 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 まるで創価学会の折伏(しゃくぶく)や共産党のオルグを予言するかの如き言葉である(笑)。分断された自我は競争の道をひた走り、社会全体が闘争に覆われる。ブッダの指摘は資本主義経済や大衆消費社会にまで当てはまる。「朝まで生テレビ」なんかそのまんまである(笑)。議論の目的は自己主張・自己宣伝・自己宣揚に傾き、自己顕示欲の修羅場と化す。政治もまた同様である。党利党略を優先し、国民は単なる票として換算される。経済政策のミスを犯しても誰一人責任を取ることなく、平然と増税するような恥知らずばかりとなってしまった。

八三九 師は応えた。「マーガンディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安でもある。)」

 これが中道の奥深さである。「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく」との鮮烈な言葉が「筏の喩え」を彷彿(ほうふつ)とさせる。教義に固執することなく、教義の否定にも固執することなく、教義を筏として扱うことが求められるのだろう。

八六三「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 三悪道・四悪趣は渇愛と欲望から起こる。戦争の原因もここにある。

八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 アルボムッレ・スマナサーラによれば六師外道という言葉は「『仏教以外の教えを説いている6人の先生』という程度の意味」(『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』)で、ブッダが徹底的に批判したのはマッカリ・ゴーサーラただ一人であった。彼の厳格な決定論・宿命論は社会を無気力にしてしまう。ただしブッダの批判は怒りに基づいたものではない。ただ事実を指摘するだけである。

「その(真理)を知った人は、争うことがない」――つまり争う人は真理を知らないのだ。

八九六(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

 毀誉褒貶(きよほうへん)は世間の常である。誰だって褒められれば嬉しいし、貶(けな)されれば落ち込む。しかし社会の評価と人生の幸不幸は別物である。まして悟りとは何の関係もない。論争の勝敗は知的レベルの満足と不満足であり、無明を滅するには至らない。

九〇七(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 伝えられるものは知識である。悟り(涅槃)は伝えることも教えることもできない。これが「他人に導かれるということがない」の意味であろう。簡単な道理である。「人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない」(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。手放し運転はもっと説明できない。野球で打者がヒットを打つことも説明できない。何でも説明できると思ったら大間違いだ。我々はお互いが「できる」という事実に基いてコミュニケーションを図っているだけなのだ。目が見えない人に視覚を伝えることは不可能だ。無明に覆われた者が涅槃(悟り)を知ることはできない。

 ブッダの教えは一切の依存を拒絶する。執着から離れ、論争を超越する。究極的には悟りに至っても悟りに執着しない生き方を示している。

 そして論争から離れる道はただ一つ、傾聴である。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

ブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

2016-06-12

筏(いかだ)の喩え/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

 かつてブッダは弟子たちに因果の教えを説明し、弟子たちはそれをはっきりとわかり、理解したと答えた。そこでブッダが言った。
「弟子たちよ、この見解は純粋で明晰である。しかしあなたたちがそれに固執し、思い入れ、尊び、拘(こだわ)るならば、教えは流れを渡るために乗る筏(いかだ)に似たものであり、保有するものではない、ということを理解していない」
 教えは流れを渡るために必要な筏のようなものであり、保持して背中に負い運ぶものではない、というこの有名な譬えを、ブッダはいたるところで説明している。
「弟子たちよ、ある人が旅の途中で大きな川に出くわしたとしよう。こちらの岸は危険であり、対岸は安全で危険がない。安全で危険がない対岸に渡る舟もなく、橋もない。そこで彼はこう思った。「この流れは大きく、こちらの岸は危険だ。対岸は安全で危険がない。渡るのに舟はなく、橋も架かっていない。草、木、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足で漕ぎ、安全な対岸に渡ろう」と。
 弟子たちよ、こうして彼は、草、木、枝、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足を使って無事対岸に渡った。そして、こう思った。「この筏は大変役だった。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に着いた。だから、これからは頭に載せるか、背負うかしてこの筏を持ち歩くことにしよう」
 弟子たちよ、彼の筏に対する思いは正しいかどうか」
 弟子たちは「正しくありません」と答えた。
「では弟子たちよ、どういう態度がふさわしいであろうか。もし彼が「この筏は大いに役立った。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に辿り着けた。筏は浜に揚げるか、つなぎ止めて浮かしておき、私は先に進もう」と言ったらどうだろう。これこそが、正しい行ない、正しい態度である。
 弟子たちよ、私の教えは筏と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなたがたは、私の教えは筏に似たものであると理解したならば、よき教えすら棄てなければならない。ましてや悪しき教えを棄てるのは、言うまでもないことである」
 この譬えから明らかなように、ブッダの教えは人を安全、平安、幸せ、静逸、ニルヴァーナへと導くためのものである。ブッダが説いたすべての教えは、すべてこの目的のためである。

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

筏の喩え
クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』

 有名な経典だが物語の背景をきちんと押さえておく必要がある。パーリ中部(マッジマ・ニカーヤ)では第22経『蛇喩経』(じゃゆきょう)、中阿含経では第200経『阿梨吒経』(ありたきょう)となっている(Wikipedia)。そして「筏の喩え」の部分だけを『筏喩経』(ばつゆきょう)と称する。

 元鷹匠のアリッタという修行僧がブッダの教えを誤解した。「欲は修行の障(さわ)りとならない」と。周囲の修行僧が注意をしてもアリッタは耳を貸さない。弟子たちから相談を受けたブッダは直ちにアリッタを呼び、戒める。

 始めにブッダは「蛇の喩え」を説く。蛇を捕える場合、腹や尻尾をつかめばたちまち噛まれてしまう。傷つき、毒が回り、命を失うこともある。そのように苦しむのは正しく蛇をつかまえなかったためである。人が蛇を捕えようとする時は鉄の杖で首を押さえ、次に手で頭を持つ。このようにすれば蛇に噛まれることはない。我が教えもまた同様である。意義を正しく理解しなければ、逆さまに考えて苦しむ者が出る。続いて「筏の喩え」が説かれる。詳細については以下のページを参照せよ。

筏の譬え
筏の如く
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その1.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その2.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その3.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その4.
Kesamuttisutta (Kālāma sutta) ―カーラーマへの教え
筏喩経(阿梨咤経)

 尚、実際の経文を知りたい人は『パーリ仏典第一期1 中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』片山一良〈かたやま・いちろう〉訳(大蔵出版、1997年)を参照せよ。

 文脈を考慮すれば「悪しき教え」とは誤解であり犯された誤謬(ごびゅう)である。だが元はといえばアリッタとの個人的なやり取りが「蛇の喩え」と「筏の喩え」を通して真理の高みに達する。その深さは居合わせた弟子たちはもとより、2500年後の私にまで響く。

 これがキリスト教であれば「神を捨てよ」と言ったも同然だ。世間では「嘘も方便」というが、ブッダは「真理も方便」「教えも方便」と言い切った。教えの目的は彼(か)の岸(涅槃)に渡ることである。であれば教えは「地図」と考えてよかろう。にもかかわらず仏教の歴史は「地図」の色彩や精密さを競い合う方向へ動いた。あるいは筏を豪華客船に造り変えたようなものだ。仏教は日本に至ると信仰のレベルに堕し、もはや目的地がどこなのかわからぬ地図となってしまった。仏塔信仰がストゥーパに始まり、法華経では宝塔と巨大化していったのも一種の虚仮威(こけおど)しであろう。

 ブッダは執着から離れる道を教えた。その究極として「正しい教えに執着してもならない」と説いた。ありとあらゆる宗教が神への、教義(ドグマ)への、グル(導師)への執着を説いている。ブッダこそは目覚めた人であった。他の宗教は信者の目を閉ざし、眠らせていることが理解できよう。

 ブッダの教えに従えば、我々は「筏の喩え」にも執着してはならないことになる。これぞ完全無執着の道だ。なぜなら教えもまた「空」(くう)であり、自我もまた「空」であるからだ。テキストではなく、ブッダその人でもなく、ただ真っ直ぐに涅槃(悟り)を求めるのが真の仏弟子だ。

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2016-06-10

ものごとが見えれば信仰はなくなる/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

 ブッダを、一般的意味での「宗教の開祖」と呼ぶことができるとすれば、彼は「自分は単なる人間以上の者である」と主張しなかった唯一の開祖である。他の開祖たちは、神あるいはその化身、さもなければ神からの啓示を受けた存在である〔か、そうであると主張している〕。ブッダは、一人の人間であったばかりではなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。彼は、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものであると主張した。人間は、そして人間だけが、ブッダ「目覚めた人」になれる。人間は誰でも、決意と努力しだいでブッダになる可能性を秘めている。

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)以下同】

 ワールポラ・ラーフラはテーラワーダ仏教の僧侶でセイロン大学に進み哲学博士号を取得。マハーヤーナ(いわゆる大乗)仏教の研究にも着手する。1950年代後半、パリ大学に留学。そこで著されたのが本書である。原書は英語で1959年刊。仏教研究の泰斗であるオックスフォード大学のR・F・ゴンブリッジ教授が「現時点で入手できる最良の仏教書」と評価する。訳者解説に神智学協会が出てきて驚いた。

 人間を超えた存在を「神」という。後期仏教(いわゆる大乗)は大日如来久遠本仏というブッダを超える存在(法身仏〈ほっしんぶつ〉)を設定した。この瞬間にブッダから遠ざかったと見てよい。想像力は像(イメージ)を求めて飛び立つ。出来上がった偶像(アイドル)は巨大な存在となる。その大きさが示すものは自分という存在の卑小さである。仏という名の人格神を創造することで日本仏教は一神教に変質した。

 ほとんどすべての宗教は、信仰――それもむしろ盲信といえるもの――に立脚している。しかし仏教で強調されているのは、「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではない。仏教経典には、一般に「信仰」あるいは「信心」と訳されるサッダー(サンスクリット語ではシュラッダー)という用語がある。しかしサッダーはいわゆる「信心」ではなく、むしろ確信から生まれる「信頼」というべきものである。とはいえ実際には、民衆レベルでの仏教でもまた仏典中の一般的用法でも、サッダーということばは、ブッダ、ダルマそしてサンガに対する一般的な意味での「信仰」的要素を含んでいることは事実として認めねばならない。

 びっくりした。見ること、知ること、理解することを説いてきたのはクリシュナムルティである。確かに「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」(法華経)などの経文はあるが、如実知見(にょじつちけん)を強調するような文言はあまり記憶にない。ただし八正道は全て正見に納まり、四法印は正見から導かれるので、「見る」という前提があるのは確かだ。

 信仰は、ものごとが見えていない――「見える」ということばのすべての意味において――場合に生じるものである。ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。もし私が「私は掌の中に宝石を隠しもっている」と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない。それゆえに、古い経典には、こう記してある。
「掌の中の宝石(あるいはミロバラン訶梨勒〈かりろく〉の果実〕)を見るように、真実を見よ」
 ブッダの弟子でムシーラという者が、一人の僧に言った。
「友サヴィッタよ、信仰、確信あるいは信心からではなく、気乗りあるいは好みからではなく、評判あるいは伝統からではなく、表面的な理由からではなく、もろもろの意見を検討する喜びからではなく、私はものごとの生成の消滅がニルヴァーナであると知っており、それが見えている」
 そしてブッダはこう言った。
「汚れと不純さの消滅は、ものごとを知り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である」
 常に問題なのは、知ることと見ることであり、信じることではない。ブッダの教えは、「エーヒ・パッシカ」、すなわち「来て、見るように」という誘いであり、「来て、信じるように」ということではない。

 マジっすか? というわけで『スッタニパータ』の第四章「八つの詩句の章」(中村元訳)を参照してみよう。

「七七七 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ」
「七七九 想いを知りつくして、激流を渡れ」
「七九二 智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(※実践的な認識)によって知り、真理を理解して」
「七九五 かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない」
「八〇六 われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って」
「八〇九 諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏(あんのん)を見たのである」
「八一七 このことわりを見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ」
「八二一 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り」
「八三〇 このことわりを見て、論争してはならない」
「八三七 諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」
「八四八「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?」」
「八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない」
「八九六 汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない」
「九〇九 見る人は名称と形態とを見る」
「九一一 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない」
「九一七 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ」
「九三七 わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった」
「九三八 (生きとし生けるものは)終極においては違逆(※老い)に会うのを見て」
「九五六 眼ある人(ブッダ)は」
「九七一 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ」

 確かに本当だ。疑問の余地はない。第四章はブッダの肉声に最も近い内容(最古層)である。バラモン教(古代ヒンドゥー教)を信じる世界でブッダは「見ること、知ること、理解すること」を説いた。そして生まれが支配するカースト社会で努力の道を開いた。

 信じる者は無知にとどまっている。迷いという蒙(くら)さが信じるという飛躍に結びつくのだ。確かなものを求めて何かを信じれば信じるほど自分自身の不確実性が増してゆく。「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」という事実はあるに違いない。しかし命からがら助かった後で「藁」をありがたがる人はいるまい。そこで求められるのは溺れた原因であり、溺れるような場所に近づかないことと、溺れることを避けるための水泳技術や救命道具(浮き輪・ライフジャケットなど)を準備することだろう。

 ブッダが信仰を説かなかったことを私が一言で示そう。信仰があれば諸法無我を理解できない。以上である。ま、簡単な話だ。信じる行為は如何なる対象であれ自我を強化する。

 最後にわかりにくいと思われるのでニルヴァーナ(涅槃〈ねはん〉)について述べる。涅槃とは煩悩の火が消えた状態を意味する。「漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳した」(Wikipedia)。クリシュナムルティが説く静謐(せいひつ)と同じだ。

 上記テキストでは「ものごとの生成の消滅」と「汚れと不純さの消滅」とが対応しているようには見えないが、煩悩・渇愛・執着というキーワードを補えばストンと腑に落ちる。現代の大衆消費社会では欲望を煽り、煩悩の火がより大きくなることに消費者は満足を覚える。煩悩まみれの社会では欲望を満たすことが我々にとっての幸福である。もっと大きな家・もっと高級なクルマ・もっと高い地位・もっと多くのマネーを我々は求める。その結果、国家は必ず戦争を目指す。一人ひとりの消費という欲望を満たすために他国の資源を奪いにゆくのだ。戦争の目的は殺すことだ。兵士は自ずと残虐を競うようになる。

 企業と企業の間で行われるのも小さな戦争であり、個人と個人の間でも戦争が繰り広げられる。受験もまた戦争であり、就職も戦争だ。更にいじめ・貧困という名の戦争もある。我々は戦いに勝つことが得点につながるゲームをしているのだ。勝者の得点を見てみよう。ビル・ゲイツの資産は9兆5040億円である(米誌『フォーブス』2015年)。日本人だと柳井正(ファーストリテイリング)が2兆5320億円、孫正義(ソフトバンク)が1兆6680億円、佐治信忠(サントリー)が1兆3080億円、三木谷浩史(楽天)が1兆2600億円となっている。因みにイチローの絶頂期の年俸が約18億円である。

 その一方に極度の貧困に喘ぐ人々がいる。老々介護が行き詰まり肉親や兄弟に手を掛ける人々がおり、修学旅行や給食の費用を支払うために売春を行う女子中高生がおり、「保育園落ちた日本死ね!」と匿名で書き連ねる若い主婦がいる。借金の肩代わりに福島の原発で働く人々がおり、ブラック企業と知りながらやめるにやめられない若者がおり、ワーキングプアは2008年以降、1000万人を突破し(劣化している雇用と格差拡大)、生活意識別世帯数の構成割合をみると、「苦しい」(「大変苦しい」と「やや苦しい」)との答えが増加している(生活意識の状況)。

 生活保護の支給総額は3.8兆円強(2012年)で155万2000世帯が受給している(2012年)。ほぼ孫正義と三木谷浩史の資産を合わせた額だ。155万2000世帯が最低限の生活を営むことのできる金額を二人が持っているのだ。どう考えてもおかしい。

「私ならそんなにいらない」と思う人が大半だろう。でも実際は違う。彼らは私なのだ。同じ立場になれば必ず同じことをする。チンパンジーですら利益の分配を行う(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。集団(コミュニティ)が進化に有利であるならば、集団を維持することが優先されるからだ。役所の窓口で役人が生活保護を渋るようになれば、もはや国家は信用対象ではなくなる。貧困は死へと直結する。今後、予想されるのは大量死(メガデス)社会だ。

 誰かの利益は誰かの損失である。これが経済の本質だ。消費にまつわる損失を目立たなくさせるために広告会社が存在するのだ。そして広告主がメディアを支配する。広告宣伝費は経費として計上できるので規模が大きい企業ほど有利になる。

ある中学生の死』読売新聞大阪社会部(潮出版社、1978年/角川文庫、1984年)に「パンの耳」という話がある。大阪府寝屋川市の主婦(29歳)がパンの耳で辛うじて命をつなぎながらも衰弱死してしまう。私が読んだのは30年以上前だが「きょうも食べるものがなく、10円でパンの耳を買ってくる」という日記の一文はいまだに忘れることができない。ところがどうだ、昨今は餓死など珍しくない。「2011年、『食糧の不足』で亡くなったのは45人。『栄養失調』で亡くなったのは1701人。合わせて1746人が飢えて死んでいるのだ。1日あたり、5人が亡くなっていることになる」(「1日5人が餓死で亡くなるこの国」雨宮処凛)。

 欲望が満たされることはない。煩悩の焔(ほのお)はいや増して燃え盛り我が身と社会を焼き尽くす。幸福だと思っていた状態が手に入ると、直ぐに別の形の不幸が生まれる。どのような人生であれ四苦八苦を免れることはできない。苦の原因は煩悩にある。ゆえに苦を滅するためには煩悩の火を消すことが求められる。これはまさしく逆転の発想である。「幸福になりたいのであれば、幸福を目指すな」という論法だ。

 欲望が減るにつれて生命空間は広がる。煩悩の火を吹き消せば自我も消える。世界と私の間に差異はなくなる(諸法無我)。これがブッダとクリシュナムルティの説いたことである。

2016-06-08

たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない/『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない

『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 本書で取り上げる『ノコギリのたとえ』というお経は『鋸喩経』とも訳される中部経典のお経ですが、読んでみるとその豊かな物語性とともに、私たちの心に直接訴えかけてくる迫力に驚かされます。

【『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ、日本テーラワーダ仏教協会出版広報部編(日本テーラワーダ仏教協会、2004年)以下同】

 で、長部と中部の違いについては以下の通り。

 長部経典は、哲学的なものもありますが、ほとんどは仏教の一般的な教えです。それに対して中部経典は、哲学的なところを、きめ細かく、項目を厳密に、論理的に話しているお経が集めてあります。

 最初に巻末の経典テキストを読むのがいいだろう。

「比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるノコギリで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。
 比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
 比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出だせますか」
「尊師、見出せません」
「比丘たちよ、それ故に、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、安楽のためになるでしょう」と。

 ノコギリの歴史は古く紀元前1500年前からあった(エジプト)という。ブッダが喩(たと)えたのは暴力的な極限状況だ。どのような目に遭っても慈しみを持ち、怒りを捨て、恨みから離れなければならない。

「怒りの毒」はかくも恐ろしいのだ。「たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない」との一言は単なる教訓ではない。「絶対に怒らない」という覚悟が問われるのだ。

 弟子の中には私のようにブッダの言葉を軽く考える者もいたに違いない。「なるべく怒らないようにしよう」「少しずつ怒りを克服しよう」などと。だがこの経典を読むと意識が一変する。一瞬でも怒りに汚染されてしまえば自らが不幸になるのだ。

 感情は関係性から生まれる。「私を怒らせたあんたが悪い」というのが我々の言い分だ。つまり「私は悪くない」。私は正しい。だから私は恨みを抱いて仕返しをする。私は罵る。私は殴る。そして私はノコギリであんたの手足を切断する。

 生きることは苦である(四諦苦諦四法印一切皆苦)。苦の原語(パーリ語)「dukkha」(ドゥッカ)には空しいという意味もある。脳は意味(≒物語)を求める。所詮、何をどうしたところで無意味であることを思えば、人生はやはり苦であろう。苦と苦との束(つか)の間に楽を求めてさまよう人生に過ぎない。

 輪廻(りんね)の本質も苦である。ブッダは菩提樹の下で悟った後にそれを十二支縁起(十二因縁)として確認した。要するに輪廻して苦しみ続ける主体(自我)のメカニズムが解き明かされたのだ。

 ま、あまり勉強していないのでここからは適当に書いておく。まず「無明(むみょう)に縁りて行(ぎょう)が起こる」。行の原語はサンカーラ(パーリ語)・サンスカーラ(サンスクリット語)である。行は行為・業(ごう)のこと。無明は「迷い」とされるが、私はむしろ「錯誤」と考える。すなわち我々は世界をありのままに正しく認識することができない。これが無明である。十二支縁起は苦という反応を瞬間に即して解いたものだろう。行は志向性や潜在的形成力などという小難しい言葉で説明されるが、「反応の発動・起動」である。無明を無意識、行を意識としてもいいように思う。意識した瞬間にカルマ(業)が定まるのだ。

 簡単に述べよう。無明によって怒り(感情)が湧く。無明を滅すれば怒りは湧かない。無明を滅し涅槃に達した人はノコギリで手足を切られても怒らない。だからノコギリで手足を切られても怒らないほどの自分自身を築け。きっとそういことなのだろう。怒りという猛毒の恐ろしさが伝わってくるではないか。

 日蓮の遺文(いぶん)に似た文章がある。

 縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切りどうをばひしほこを以てつつき足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し諸天善神は天蓋を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしやあらうれしや。(日蓮『如説修行抄』:真蹟はないが日尊による写本がある)

 手紙の末尾には「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と添えてある。より一層の残虐性が加えられ、しかも南無妙法蓮華経という題目を唱えよという信仰の次元に内容が変質している。換骨奪胎というよりは改竄というべきか。日蓮は「当(まさ)に知るべし瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」真蹟曽存)と怒りを容認していた。政治にコミットしたのも日蓮の怒りの為せる業(わざ)であった。日蓮系教団が分裂に分裂を繰り返してきたのも頷ける話である。

 ノコギリの喩えを思えば、それ以外のことはいくらでも我慢のしようがある。小さないざこざから小さな怒りが生まれ、社会の中で怒りは支流となり、やがて大きな流れを形成する。原発反対デモもナショナリズムも同じ顔をしているのは怒りが原動力となっているためだ。私は生来、物凄く短気なのだが、今日からは頭に来ることがあったら「ノコギリ! ノコギリ! ノコギリ!」と心の中で三度唱えようと思う。

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鋸の復原を通して古代人と対話/『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一

2016-06-07

「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)/『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

 ・「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)

『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

『スッタ・ニパータ』は、初期経典が結集(けつじゅう)される前、サーリプッタ尊者など偉大なる阿羅漢(あらかん)たちが活躍されていたときから知られていた経典です。もちろん、きちんと編集されたのはブッダが般涅槃(はつねはん)に入られてからですが、ブッダが直々に説法をなさっていた頃から伝えられている詩集なのです。そのゆえに、古い経典として大変重んじられています。
 スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味のほうがふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。

【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)以下同】

 小部の『スッタ・ニパータ』は最古層の経典として知られる。中でも第4章が最古と目され、ブッダの直説(じきせつ)と見なされている(PDF「最古層の経典の変遷 スッタニパータからサムユッタニカーヤへ」石手寺 加藤俊生)。

 サーリプッタ(舎利弗)は十大弟子の筆頭で智慧第一と称された人物でブッダよりも年上だった。二大弟子の一人モッガラーナ(目連)と共にブッダよりも先に逝去した。小部にはサーリプッタの註釈とされる『義釈』が収められている。

「縦糸」の義から「スッタ」を「経」と訳す。


「式」との表現が絶妙だ。「スッタ」の一語が仏教の公式を宣言しているのだ。小部十八経の中で他に「スッタ」は見当たらない。

 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、
 生まれた怒りを速やかに制する修行者は、
 蛇が脱皮するように、
 この世とかの世をともに捨て去る。

 この「蛇」の経典では、ずっと蛇の脱皮を譬(たと)えに使っています。蛇という単語には、「毒」という意味も入ってきますが、蛇の特色といえば「脱皮」という生態です。蛇はデパートに行って服など買わなくとも、古くなったら捨てればいいのです。だから他の動物と比べると、蛇はいつでも体がきれいです。あれほど体がきれいな動物は他にいないと思います。他の動物は臭くて、体が汚くて、ノミやらいっぱいいて大変でしょう。蛇の皮膚はビニール製のようなものですから、体には虫も何も付いていません。蛇の皮が古くなると色が変わってきます。すると、蛇は皮ごと全部捨ててしまう。細い枝の間などに体を入れて進むと、古い皮だけが引っかかり、脱皮してきれいになった蛇だけが出て行ってしまうのです。

 革命というよりは変容が相応(ふさわ)しい。「この世とかの世をともに捨て去る」とは、此岸(しがん)にも彼岸(ひがん)にも執着しない中道の姿勢である。ただし「この世もあの世も捨てろ」とは言っていない。生きることは死ぬことである。我々は死ぬために生きている。生命とは死ぬ存在だ。そう達観できれば、この世とあの世の虚妄(きょもう)が見抜ける。脱皮とは虚妄の皮を捨てることだ。欲望の充足こそ幸福だと錯覚する感覚から抜け出ることだ。諸行無常である。不幸も幸福も長く続かない。不幸な時に幸福を願い、幸福な時に不幸を恐れるのが人の常であろう。人生は瞬間の連続であるが、こうした生き方は瞬間が疎(おろそ)かとなってゆく。

 今さえよければ後はどうなっても構わない(この世)という生き方も、将来のために現在を犠牲にする生き方(あの世)も誤っている。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 怒りは「我」(が)から生まれる。「よくも俺を馬鹿にしたな!」というのが怒りの正体だ。「自分は凄い」と思っているから頭に来るのだ。「私は愚かだ、馬鹿だ」と自覚すれば怒ることもない。我々は自分が平均以上であると思い込むからダメなのだ。思い切って今後はブッダやアインシュタインと比較しようではないか。確かに馬鹿です。100%馬鹿(笑)。

 人間が一般的に、自分には色々なトラブルがある、問題がある、と思ったら、それは99%が怒りによるものなのです。金銭トラブル、社会関係のトラブル、精神的なトラブル、そういったトラブルは、ほとんど「怒り」が原因になっています。

 何ということか。怒(おこ)らなければ幸せになれる――ただそれだけのことだったとは。まずは怒らないこと。次に怒りっぽい人から遠ざかること。そして怒りを喚起する映画や小説に触れないことである。最後のやつはスマナサーラからの受け売りだ。

 ルワンダ、パレスチナ、インディアンといった歴史の悲劇を思うと私の五体は怒りに打ち震える。全神経を殺意が駆け巡り、血が逆流する。私の願いは虐(しいた)げた側の連中を皆殺しにすることだ。それが実現すれば平和になるだろうか? 悲劇を防ぐための殺人は正当化し得るだろうか? どんな理由をつけようとも「殺した」という事実は残る。暴力の結果は次の暴力の原因となり連鎖は果てしなく繰り返されることだろう。

 諸法無我が真理であれば「私」はない。ただ現象だけがある。「私」という中心から感情が生まれ、物語が形成される。「この世」「あの世」という物語が。

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

2016-06-05

非難されない人間はいない/『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・非難されない人間はいない

・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 アトゥラよ、これは昔からのことだ。
 きょうだけのことではない。
 人は黙っている者を非難し、多くを語る者も非難する。
 節度をもって語る者さえ非難する。
 この世において、非難されずにいた者は、
 どこにもいない。(ニニ七)

【『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2005年)以下同】

 単純に言えば、この偈の要点は「ばかは相手にするなよ」ということなのです。
 非難する人の話というのは、まじめに研究して調べて、客観的に判断して話しているものではありません。ただ何かを話しているだけなのです。話さずにはいられない病気にかかっているのです。だから、それほど気にすることはありません。「この世の中で非難されない人間はいません」と理解すれば、どこから言葉の矢を撃たれても平気です。


 インターネットは有象無象の劣情に満ちている。普段はおとなしく、上司に向かって意見すらできないような連中が、殺伐とした書き込みを繰り返す。激越な調子で攻撃を加える引きこもりや、理詰めで他人の足を引っ張るキモオタが各所にいる。溜まりに溜まったストレスや行き場のない不平不満の矛先を虎視眈々と狙う。コメント欄の炎上に油を注ぎ、祭りと称して誹謗中傷することに生き甲斐を感じるような手合いがいるのだ。そして彼らは変わらぬ日常に引き戻される。

 現代のもっとも大きな詐欺の一つは、ごく平凡な人に何か言うべきことがあると信じさせたことである。(ヴォランスキー)

【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル:吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】

 テレビコメントの受け売りを、さも一家言(いっかげん)であるかのように語る人々は多い。ヴォランスキーがいうところの「現代」とはメディア(書物・新聞・ラジオ・テレビ)後の時代を指すのだろう。

 なかんずく特定のイデオロギーを支持する人々や宗教に生きる人々は世界を敵と味方に分けて考える傾向が強い。非難中傷は彼らの十八番である。そのための理論武装までしている。

 ブッダもソクラテスも孔子もテキストを残さなかったのには理由がある(イエスは実在したかどうか疑問)。書かれた言葉は死んだ言葉である。豊かな音や響きを失って無味乾燥な活字となる。枢軸時代の柱ともいうべき彼らが対話を重んじたのは非難や反論を受け入れることのできる開かれた精神の持ち主であったからだろう。多くの人々が納得したのは言葉だけではなかった。目の輝きや立ち居振る舞いに自ずと現れる何かが心をつかみ激しく揺さぶったに違いない。

 バッシングとは叩くの意である。誰かを袋叩きにする時、一人ひとりの罪の意識は低い。その低い意識が社会に暴力を蔓延させる温床となる。

 ゴシップ誌の類いを好む連中がいることを思えば、少々の非難は恐れるに足らない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も、吾往かん」(孟子)。ま、相手が百人くらいのキモオタだったら俺は往くよ(笑)。

原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章世界毒舌大辞典

2016-06-03

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元

 ・ブッダは信仰を説かず

『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 お釈迦さまは人びとにたいして「これはよくないから、やめなさい」としかることもなく、「ああしなさい、こうしなさい」と命令することもありません。もちろん「地獄に堕ちる」「罰が当たる」などといって、人びとを脅し束縛することもありませんでした。たとえ、説法に疑問を投げかける人がいたとしても、それをとがめるようなことはけっしてされませんでした。お釈迦さまには、その場でただちに人びとを苦しみから解き放ってしまうほどの力があったのでしょう。
 では、お釈迦さまは「なにかを信じなさい」というように「特別な信仰」を人びとに伝えたのでしょうか。いいえ、そうではありません。つねに「客観的な事実」を説かれたのです。まるで弁護士のように、「これはどう考えますか。では、こういうことはどう思いますか」と相手に訊くのです。その問いに答えていくうちに、相手は「ああ、なるほどそういうことか」と真理をつかんでしまうのです。すると相手はみずからの意志で「じゃあ、やってみよう。これをためしてみよう」と決めて実行するわけです。実践するか否かはあくまで個人の意志にまかされるのです。

【『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2003年)以下同】

「地獄に堕ちる」「罰が当たる」というのは創価学会を始めとする日蓮系教団への皮肉か。その一方でスマナサーラはまるで見てきたかのようにブッダを語る。邪(よこしま)な底意を感じるのは私だけではあるまい。古い経典(パーリ語経典)がブッダの輪郭を捉えているのは確かだと思うが、それをそのまま信じるのは危険だ。飽くまでも人伝に語られたブッダの言葉である。誤っている可能性を考慮すべきだろう。

 大切なのはブッダが説得と無縁であったことだ。相手を改宗させようとか、自分の教団に引き込もうといった教勢拡大の野望はこれっぽっちもなかった。僧の語源となっているサンガ(僧は僧伽〈そうぎゃ〉の略)は組合や共和制を意味する言葉で、ピラミッド型の組織ではなかった。

 逝去したブッダを慕う弟子たちの心が信仰を生んだのだろう。遺骨(仏舎利〈ぶっしゃり〉)は塔(ストゥーパ)に安置された。これが日本における卒塔婆(そとば)の元型である。人間ブッダは仏となった。旧字の佛(ほとけ)は「人に非ず」との謂いで超人や神を示すようになった。

 仏教は宗教ではないという指摘は現在でもある。厳密にいえば「仏教は信仰ではない」という意味合いなのだろう。その仏教が仏像やらマンダラを次々と開発する不思議を考える必要があるだろう。

 じつにこの世においては、
 怨みにたいして怨みを返すならば、
 ついに怨みの鎮まることがない。
 怨みを捨ててこそ鎮まる。
 これは普遍的な真理である。(五)

 怒りは、自分も他人も破壊してしまいます。いやなことをされて、「憎しみをもつのは当然だ」といって怒りをいだけば、その怒りによって、さらに自分が苦しくなります。腹を立てたとき、いちばん最初に怒りに汚染されるのは自分自身です。腹を立てて、だれが不幸になるかというと、憎しみに満ちている自分自身なのです。心は汚れ縮んで、悪い報いをまず自分が味わってしまうのです。怒って相手を攻撃しようとしても、相手はそれによって困ることもあるし、まったく困らないこともあるでしょう。しかし、自分が怒りで汚染されることだけはたしかなことです。

 スマナサーラがアトランダムに紹介しているところを見ると、中村元訳にそれほど極端な誤訳はないのだろう。「いちばん最初に怒りに汚染されるのは自分自身です」との言葉が重い。怒りという感情が放射能のように思えてくる。持続した怒りはやがて怨みとなる。その半減期は決して短くない。折に触れて思い出しては、怒りの焔(ほのお)を燃え上がらせ、我が身を焼き尽くす。

 人類の歴史は奪い合い、殺し合いの連続である。現在は政治・経済という名でスマートに行われているが、所詮は食糧・エネルギー・社会資源の奪い合いである。ゲームの得点はマネーに換算される。争うことが正当化される社会の中で、我々は怨みを捨てることができるだろうか? 弱肉強食の現実を達観して怒りを手放すことは可能だろうか?

 実際、仏教はインドで滅んだ。

 インドの宗教史は、おおよそ以下の6期に分けることができる。

 第1期 紀元前2500年頃~前1500年頃 インダス文明の時代
 第2期 紀元前1500年頃~前500年頃 ヴェーダの宗教の時代(バラモン教の時代)
 第3期 紀元前500年~紀元600年頃 仏教などの非正統派の時代
 第4期 紀元600年頃~紀元1200年頃 ヒンドゥー教の時代
 第5期 紀元1200年頃~紀元1850年頃 イスラム教支配下のヒンドゥー教の時代
 第6期 紀元1850年頃~現在 ヒンドゥー教復興の時代

【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)】

 仏教がインドで滅亡したのは13世紀頃のことである(立川武蔵)。内省的な教えが社会を変革するには至らなかったということか。ティク・ナット・ハンが主導する「行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)」はそうした反省から生まれたものと察する。

 誰もが「よりよい社会」を望む。だが「よりよい自分」になろうとはしない。一生という限られた時間の中でできることは自らが真理に生きることだけであろう。もっと簡単に言おう。他人を救おうとする前に自分を救うべきだ。幸不幸よりも目覚めるかどうかが問われるのだ。目覚めていない人が他人を案内することはできない。そして目覚めた瞬間に全ては解決する。

   

仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

2016-06-02

あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 ・あたかも一角の犀そっくりになって

『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

ブッダの教えを学ぶ

一 もし比丘(びく)にして、むらむらとこみ上げてきたいらだちを除去してしまうこと、あたかも全身くまなくひろがった毒蛇の毒を霊薬によって解消してしまうごとくであるならば、そのような比丘は、あちこちへ往還し流転(るてん)しつづけてきた輪廻(りんね)を放棄してしまう。あたかも蛇が古くなったとき、久しく自分のものであった皮を捨てていくように。

【『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳(講談社学術文庫、2015年)以下同】

 とにかく文章が悪い。クリシュナムルティ本でいうと藤仲孝司訳と同じスタイルだ。翻訳ではなく通訳に傾き、むしろ直訳を心掛けているようにさえ見える。テキストの罠に嵌(はま)ったとしか言いようがない。それを恐れてブッダは文章を残さなかったにもかかわらず。

 中村元や今枝由郎が「怒り」としている箇所を「むらむらとこみ上げてきたいらだち」と訳す。たぶん蛇が鎌首をもたげるように怒りの感情がさっと湧き起こった瞬間を表しているのだろう。つまり「瞬間的な怒り」である。ま、「馬鹿」と言われて「何を!」と思うような怒りだ。大事なことは「怨み」ではないということ。

「輪廻を放棄してしまう」との言い回しには、輪廻を自らがつかみ、しがみつくような印象を受ける。煩悩(≒欲望)と混同しているのではあるまいか。

 はっきり言ってしまおう。本書はパーリ語の直訳と考えて参考書として用いるのがよい。悪文は思考を混乱させる。そして低い説明能力がノイズを生む。

三五 あらゆる生き物に対して暴力をふるうことをすっかり放棄してしまい、いかなる生き物にも危害を加えることのないひとが、自分の息子をほしいと思うことすらあってはならぬ。ましていわんや一緒に修行してくれる仲間などいらぬ。ひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀(さい)そっくりになって。

 中村元が「犀の角」としている章を本書では「一角の犀」と訳す。続けて紹介しよう。

三九 野生の動物であれば、森の中にいて綱につながれることもなく、思うがままに食べ物ある方へと近づいていくように、そのように独立独歩であることの自由を深く熟慮して、叡知あるひとは、ひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀そっくりになって。

六ニ あたかも水中に生きる魚が網目を突き破って河水の中へ帰っていくように、そのようにさまざまな世間的存在につなぎとめる【きずな】を引き裂いて、そして野火が一たび焼いてしまったところに滞留することがないように、そのようにひとり離れて修行し歩くがよい。あたかも一角の犀そっくりになって。

「一角の犀」も誤訳であることは既に書いた(ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳)。

「暴力放棄と息子」の脈絡のなさ、「綱につながれる」という音の悪さ、「ましていわんや」というリズムの悪さ、「ように、そのように」という重複。キーを叩くだけでも頭がおかしくなりそうだ。書写すればもっと強く感じることだろう。それから正しくは「きづな」(絆)である。

 言葉は脳を縛る。仏教の教義論争は言葉を巡る争いであった。そして「我こそは正義」との錯覚が次々と新たな教団を生んだのだろう。仏教は流転を重ねるごとにブッダの心から遠ざかっていった。目の前の一人に向かって説かれた真理が普遍妥当性を目指してアビダルマという豪華絢爛な理論を構築する。

 仏も悟りも手の届かない高みにまで持ち上げられ、人間から離れていった。やがて悟っていない人々が学識に任せて仏法を説くに至る。仏教は思考対象にまで格下げされた。

 仏教は「悟りの宗教」といわれるが、悟りは何も仏教が独占しているわけではない。ブッダ以前にも目覚めた人(=ブッダ)は存在した。科学の定理や数学の公式を発見する人々がたくさんいるのと同じだろう。現在、ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み)のみがブッダと呼ばれるのは、その悟りの度合いが傑出しているためだが、悟りの違いを分別するよりも悟りという行為を重んじるべきだろう。煩瑣(はんさ)な教義を全て暗記したところで悟りには至らない。

 ジュリアン・ジェインズは人類に意識が芽生えたのは3000年前と推定している(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』原書1976年)。とすると、カール・ヤスパースが示した枢軸時代は人類における「意識開花」の時代であったと考えられよう。ただし民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー、原書1961年)ことだろう。綺羅星の如く登場した中国春秋時代諸子百家戦国時代英雄は、発火するシナプスが意識を構築する様相をまざまざと描いているように見える。

 意識は自我を形成し、人類を一人ひとりに分断した。だが「私の悟り」なるものはあり得ない。なぜなら悟りとは「私の解体」であるからだ。思考は「私」を強化する。考えれば考えるほど悟りから遠ざかる。学問と化した仏教に意味はない。

スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳 (講談社学術文庫)

2016-05-27

競争と搾取/『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

 ・競争と搾取
 ・洪水

『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ニ ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

【『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】

 心は世界を映す鏡である。汚れた心には汚れた世界が、清らかな心には清らかな世界が映る。つまり心が因で世界が果である。「ものごと」とは多分「諸法」だろう。そして「話したり行なったり」は「諸行」である。華厳経には「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如(ごと)く 種種の五蘊(ごうん)を画(えが)く 一切世間の中に法として造らざること無し」とある。

「私」とは何か? それは五蘊という要素の集合体である。西洋哲学は存在論を志向するが、仏教は感覚・認識・表象に着目する。私はこれを「情報の交換性」と見る。情報にプラスマイナスの価値を付加するところに「物語」が生まれる。つまり「私」とは「情報変換システム」なのだ。

 もう一度華厳経のテキストを見てみよう。我々が世界と認識するものは「心が描いた五蘊」であると説かれている。まず世界があって私の心がそれを認識していると考えがちだが華厳経は逆説的に捉える。「心によって描かれた五蘊が世界だ」というのだ。そうすると客観的な世界は存在しないと考えてよかろう。人の数だけ生物の数だけ「私の世界」があるのだ。

 法制度が保障するのは「心の自由」である。我々は自由にものを考え、行動することができる――と信じている。ハハハ、そんなものは西洋の欺瞞的な概念だよ。大体あいつらには「神を信じない自由」は存在しなかった。そもそも社会(親)から抑圧され、学校で成型された心が自由なはずがない。よく考えてみよう。想念をコントロールすることができるだろうか? 何を思うかは自由であるが、事あるごとに落ち込み、怒り、悲しみ、落胆するのが人の常であろう。心ほど不自由なものはない。餌をちらつかせたところで心はお手ひとつしない。

「かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」――競争と搾取である。ヒトはコミュニティを形成しながら社会的動物として進化してきた。コミュニティ内部の序列で人生の色彩は変わる。小さなコミュニティで分担された役割は、より大きなコミュニティを形成する中で序列や位階となっていった。社会は国家へと至ったが、これを超えることはないだろう。国家を動かす政治・経済の本質は競争と搾取だ。競争に打ち勝った者が搾取をする。具体的な予算執行は大企業を通して行われる。富の再分配乗数効果という言葉は絵に描いた餅の類いである。

 酒井順子の『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)がベストセラーとなり、続いて格差社会を巡る書籍の出版が相次いだ。やがて「勝ち組・負け組」というキーワードが流布する。日本の格差を生んだのは総合規制改革会議による製造業における労働者派遣事業の解禁(2002年答申、2004年法改正)に始まる(派遣法の概要)。議長の宮内義彦(オリックス株式会社取締役兼代表執行役会長・グループCEO)を始めとする委員(総合規制改革会議委員名簿)については戦犯として長く記憶されるべきである。鈴木良男(株式会社旭リサーチセンター代表取締役社長 委員)、奥谷禮子(株式会社ザ・アール代表取締役社長)、神田秀樹(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、河野栄子(株式会社リクルート代表取締役会長兼CEO)、佐々木かをり(株式会社イー・ウーマン代表取締役社長)、清家篤(慶應義塾大学商学部教授)、高原慶一朗(ユニ・チャーム株式会社代表取締役会長)、八田達夫(東京大学空間情報科学研究センター教授)、古河潤之助(古河電気工業株式会社代表取締役会長)、村山利栄(ゴールドマン・サックス証券会社マネージング・ディレクター、経営管理室長)、森稔(森ビル株式会社代表取締役社長)、八代尚宏(社団法人日本経済研究センター理事長)、安居祥策(帝人株式会社代表取締役会長)、米澤明憲(東京大学大学院情報理工学系研究科教授)。ザ・アールとリクルートは早い話が寄せ場手配師である。言ってみればヤクザの胴元にカジノ合法化を依頼するようなものだ。ウハウハ顔が目に浮かぶ。

 高度経済成長から続いていきた一億総中流社会は滅んだ。経営者といえば聞こえはいいが所詮商人である。国家の法を託す相手ではない。もっと高潔な人物を選ぶべきであった。

 資本主義は競争と搾取を正当化する。そして国家には戦争をする権利がある(交戦権)。世界が一つになることは決してないだろう。国家がある限りは。

 ブッダが説くのは「競争からの自由」であろう。平和とは「怨みのない状態」と言ってよい。競争から離脱するには「かれは、われにうち勝った」と思わなければよい。しかし先にも書いた通り「思う、思わない」という心の状態をコントロールするのは難しい。それでも「思い」を手放すことは可能だろう。修行とは「行を修める」との謂いであるが、その目的は「心を修める」ことにある。修めるとは整えることだ。

「比較があるところにはかならず恐怖がある」とクリシュナムルティは説いた(『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ)。競争からの自由は恐怖からの自由でもある。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

岩波書店
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2016-05-22

ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・ただ独り歩め

『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

ブッダの教えを学ぶ

 蛇(へび)の毒が(身体のすみずみに)広がるのを薬で抑えるように
 怒りが起こるのを制する出家修行者(しゅっけしゅぎょうしゃ)は
 迷いの世界を捨て去る。
 蛇が脱皮(だっぴ)して古い皮を捨て去るように。(一)

 池に生(は)える蓮(はす)の花を折り採(と)るように
 貪(むさぼ)りをすっかり摘(つ)み取った出家修行者は
 迷いの世界を捨て去る。
 蛇が脱皮して古い皮を捨て去るように。(ニ)

【『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2014年)以下同】

 実はワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』を紹介しようと思ったのだが、今枝本をまだ書いていないことに気づいた。それどころではない。東亜百年戦争から三島由紀夫につながる一連の流れも中途半端なままで、東京裁判史観と憲法に関する書物もまだ紹介していない。その前には情報とアルゴリズムに着手する予定であった。何ということか。人生は恐ろしいスピードで進み、自分に出来ることは限られている。人は何かを成し遂げる前に死ぬ可能性が高い。

 私にとって本を読むことは人と出会うことである。五十を過ぎてから一気に読書量は加速したが、それは面白い人を見つけるのが巧みになったからだ。やや遅すぎた感はある。だが何も知らないよりはましだ。

 今枝訳は読みやすい。あっさりしている分だけ香りが失われているような気もするが、ブッダの教えを学ぶには格好のテキストといってよいだろう。特に他訳と厳密な比較をすることはしていない。意味のつかみにくい箇所だけ参照する程度だ。言葉や表現の違いを調べるよりも、そのまま読んで何を感じるかの方が大切だろう。

 貪(とん/むさぼり)・瞋(じん/いかり)・癡(ち/おろか)を三毒という。これらが餓鬼・地獄・畜生の三悪趣に対応する。

 世界の混乱と悲劇の原因は三毒にある。つまり「私の中」にある。これがブッダの指摘だ。別の角度から見れば、三毒こそ自我の本質であるといえよう。欲望の焔(ほのお)が燃え盛る生命状態である。我々はともすると時間が経てば薄らぐように考えがちだが実はそうではない。怒りは毒となって生命を冒し、貪りの根はしっかりと心の底に張り巡らされる。

 我々の社会では怒りも貪りも肯定されている。怒りは正義と結びつけられ、貪りは資本主義の原動力となっている。「夢を持て」とは貪りに生きることを意味する。欲望の充足を幸福と錯覚しながら競争に明け暮れるのが我々の人生である。隣人よりも高価な家に住み、高級なクルマに乗るのが我々の幸福だ。綺麗事を言っても無駄だ。アンタもオレもそう思っている。これが事実だ。

 怒りも貪りも関係性の中から生じる。一切は「縁(よ)りて起こる」。瞑想とは怒りを怒りと、貪りを貪りと自覚することだ。怒りを怒りと見、貪りを貪りと見る時、焔は静まる。怒りという感情を観察する時、私は怒りと距離を保つ。なぜなら離れなければ見ることはできないからだ。つまり見ることが離れることなのである。

 交わりから愛着が生じ
 愛着から苦しみが生じる。
 愛着には、この危険があることを知り
 犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。(ニ八)

 朋友(ほうゆう)や仲間に憐(あわ)れみをかけると
 心がほだされ、自分の目的を見失う。
 親しみには、この恐れがあることを知り
 犀の角のようにただ独り歩め。(ニ九)

 賢明(けんめい)な同伴者、あるいは
 明敏(めいびん)な仲間が得られなければ
 王が、征服(せいふく)した国を捨てて立ち去るように
 犀の角のようにただ独り歩め。(三〇)

 じつに朋友(ほうゆう)を得るのはよいことである。
 自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しむべきである。
 こうした朋友が得られなければ、罪や過(あやま)ちのない生活を楽しみとし
 犀の角のようにただ独り歩め。(三一)

 それほど新味のある訳ではない。荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳はこの箇所を「一角の犀となって」としている。多分どちらも誤訳である。なぜならサイには角が2本あるからだ(笑)。スマナサーラによれば「犀の如く独りで歩め」とのことである(2010/12/28 No.375 ブッダは「単独行動」に自信あり 5)。

 ただし「犀の角」であろうと「一角の犀」であろうとブッダの本意が損なわれることはないだろう。「独り歩め」の意味が変わるわけでもない。

 友情の深さや愛情の細やかさを幸福の源泉と考えがちだが実は違う。四苦八苦の中に愛別離苦がある。人生には必ず愛する人との離別がつきまとう。ストレスの最たるものは家族の死といわれるが、情の深さは幸福にも通じるが不幸にも通じている。

 何にも増して修行の過程であることを思えば、朋友の存在は依存にもつながりかねない。

 アーナンダが尋ねた。「私どもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、 既にこの聖なる道のなかばを成就したに等しいと思われますが、いかがでしょうか?」と。ブッダは答えた。「アーナンダよ、我らが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、それはこの聖なる道のなかばにあたるのではなく、そのすべてなのである」(サンユッタ・ニカーヤ)。

 有名なエピソードである。だが善き友を得たことは一つの結果であって、修行の目的ではあるまい。悟りは自分自身だけが開く世界である。その意味から申せば、仏道のあり方はやはり「ただ独り歩む」ことが正しい。善友が5人いようと、10人いようとただ独り歩むのである。友がいればそれに越したことはない、という程度のことだ。

 サンガという共同体はブッダのもとで「ただ独り歩む」者の集団であったが、その戒律の多さを思うと、やはり運営には一方ならぬ苦労があったのだろう。印刷や通信のない時代背景も考慮する必要がある。ブッダが現代に生まれれば、クリシュナムルティのように教団を否定した可能性もある。

日常語訳 新編スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉

2016-05-21

怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 ・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 ブッダは、耳で聴いてわかる、平易な日常的な言葉で、あらゆる階層、境遇の民衆に親しく語りかけました。かれの言葉は、「目覚めた人」、「努める人」、「まことの人」、「心の汚(けが)れ」、「安らぎ」といった響きの、現代日本人にごく自然に受け止められる言葉であって、けっして「仏陀」(ぶっだ)、「沙門」(しゃもん)、「阿羅漢」(あらかん)、「煩悩」(ぼんのう)、「涅槃」(ねはん)といったとっつきにく難解な用語ではありませんでした。ブッダの言葉が、多くの民衆に広く受け入れられ、やがて仏教という偉大な宗教が誕生することになった要因の一つは、その平易さにあったと思われます。

【『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2013年)以下同】

 仏教呼称の問題については「テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教」(『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ)と書いた通りである。初期仏教を南伝仏教、後期仏教を北伝仏教ともいう。


 次に初期仏教の呼称も様々あるのだが私は「パーリ三蔵」と呼ぶ。

 パーリ三蔵は律蔵経蔵論蔵三蔵から成る。

 大蔵出版が刊行している『南伝大蔵経』(全65巻70冊)の構成は、『律蔵』(5巻5冊)、『経蔵』(39巻42冊)、『論蔵』(14巻15冊)、『蔵外』(7巻8冊)となっている。『蔵外』には『ミリンダ王の問い』などが含まれている(パーリ語経典入門)。因みに北伝の漢訳大蔵経は1076部5048巻となっている。

 律は戒律、経はブッダの教え、論は解説である。経蔵は長部(じょうぶ/長編経典集)、中部(ちゅうぶ/中編経典集)、相応部(そうおうぶ/テーマ別短編経典集)、増支部(ぞうしぶ/数字別短編経典集)、小部(しょうぶ/特異な経典)に分かれる。長部の読みが「ぢょうぶ」か「ちょうぶ」かは不明。

 ダンマパダやスッタニパータは小部経典である。

 今枝の指摘は正しいと思う。難解な言葉は思考に衝撃を与えることはあっても生き方を変えるまでに至らない。ブッダが説いたのは法であって論理ではなかった。法とは真理である。誰が聞いても心から「そうだ!」と感じるものが真理だ。西洋哲学は神を目指して形而上に向かい、人々の心から離れていった。そして仏教もまた各部派間の争いや、復興するヒンドゥー教に対抗して絢爛極まりない論理を構築していった。

 初期仏教が日本で本格的に研究されるようになったのはここ数十年のことである。それでも尚、多くの仏教学者は初期仏教のみを真実として後期仏教を排除するべきではないと考えている。こうなるとブッダの教えというよりは、仏教という思想史・文化史となってしまう。ただし初期仏教が「ブッダの言葉」そのものであるかどうかは誰にもわからない。ゆえに初期仏教からブッダの声を探るのが正しいあり方だと私は考える。

 ものごとは心に煽(あお)られ、心に左右され
 心によってつくり出される。
 もし人が、汚(けが)れた心で
 話し、行動するならば
 その人には、苦しみがつき従う。
 車輪が、荷車を牽(ひ)く牛の足跡につき従うように。

 ものごとは心に煽られ、心に左右され
 心によってつくり出される。
 もし人が、清らかな心で
 話し、行動するならば
 その人には、幸せがつき従う。
 影が、からだを離れることがないように。(一・ニ)

 冒頭の一偈である。我々は心に支配されている。心は決して自由になることがない。修行とは心を修めると書くがその目的は心を修めることにある。

 泥のような欲望がある限り幸福は訪れない。そして汚(けが)れた瞳を通せば世界は汚れたものにしか映らない。日常生活においては誰もが自制心を持ち合わせているが、ふとしたきっかけを通して劣情が吹き出す。感情に対して感情で応答するところに諍(いさか)いが生まれ、喧嘩に発展し、人を殺すことさえある。国家の戦争を支えているのはこうした我々の生き方なのだ。

 特に強い者が弱い者に対する暴力性はとどまることを知らない。いじめはもとより大人と子供、上司と部下、売り手と買い手、資本家と労働者に至るまで、ありとあらゆる無作法がまかり通る。暴力がハラスメント(嫌がらせ)という陰湿な形をとるようになったのはバブル景気の頃(1980年代後半)からである。抑圧は精神に長期的なダメージを与える。少子化によって家族が、リストラによって職場が、転勤によって地域がコミュニティの力を失いつつある。一度崩壊したモラルは元に戻れない。決壊したダムのようなものだ。

 果たして「悪人は必ず不幸になる」と言い切れるだろうか? ここが難しいところだ。インディアンを虐殺し、アフリカ人を奴隷にしたアメリカ人は不幸になっただろうか? パレスチナ人を殺戮し続けるイスラエル人、ツチ族を惨殺したフツ族が不幸になっただろうか? 広島と長崎に原爆を落としたルーズヴェルトやトルーマンが不幸になっただろうか? それはわからない。わかるわけがない。なぜなら人生とは「私の人生」しか存在しないのだから。ブッダの言葉を自分の外に置いて読むのは誤りだ。

「あの人はわたしを罵(ののし)った。あの人はわたしを傷つけた。
 あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪(うば)った」
 そういう思いを抱(いだ)く人には
 怨(うら)みはついに消えることがない。

「あの人はわたしを罵った。あの人はわたしを傷つけた。
 あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪った」
 そういう思いを抱かない人には
 怨みは完全に消える。(三・四)

 じつにこの世においては
 怨みが、怨みによって消えることは、ついにない。
 怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。
 これは普遍的真理である。(五)

 わたしたちは、死すべきものである。
 人々はこのことを理解していない。
 しかし、人がこのことを意識すれば
 争いはしずまる。(六)

 スッタニパータにおいてブッダは怒りを「蛇の毒」に譬(たと)える(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳)。またスマナサーラによれば怒りを示すパーリ語「ドーサ」には「穢れる」「濁る」「暗い」という意味があるという(『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ)。「怨み」とは「持続した怒り」であろう。

 宗教の歴史は分断の歴史である。仏教も例外ではない。何をどう言い繕おうとも「争い」の事実を隠すことはできない。宗教は民族をも規定した。そして宗教が戦争の原因となった。

 怨みはどこからでも生じる。「私を誤解した」「私を馬鹿にした」「私を傷つけた」「私を殴った」……。更に最悪の場合を考えれば「私の家族を殺した」まで行き着く。チェチェン人は先祖が殺されれば、相手の7代までに渡って必ず復讐する(『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学)。やられたらやり返せというのが人類の歴史であった。そしてより戦闘的な民族が栄えた。今、世界を支配するのはアングロ・サクソン人である。

 ブッダは「許せ」とは言っていない。ただ「怨みを捨てよ」と教える。許すことは難しいが捨てることなら何となくできそうな気がする。怨みは自我に基き自我を強化する。「私を――」との思考メカニズムを解体しない限り、怨みを捨てることはできない。怨みや怒りを固く握っている自分自身を理解すれば、手の力は弱まる。あとは放すだけだ。

 怒りや怨みが蛇の毒のように自分を冒す。「自分が正しい」と思い込んでいるうちは怒りを正当化するのが我々の常だ。そこに落とし穴がある。正しい怒りなど存在しない。仏教では最低の境涯を地獄界と名づける。その要因は瞋恚(しんに)すなわち瞋(いか)りである。怒りは地獄の因と心得よ。サッと怒りの感情が湧いたなら、まずは言葉を飲み込み、鼻から大きく息を吸う。そしてゆっくりと口から吐く。これを三度繰り返すとよい。

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

2016-04-27

仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・仏教分裂の歴史

『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 お釈迦さまの教えを忠実に守り実践する人々は、お釈迦さまの教えより優れた道はないと、自らの体験から確信しています。テーラワーダの長老方はただ一心に、お釈迦さまの教え、お釈迦さまの道を守ることを何より大切にし、ブッダの教えに自分の解釈を加えることは、いっさい拒否してきました。お釈迦さまが亡くなられた当時でも、そういう長老方の態度を「保守的だ」と批判する人々がいました。それらの人々は後にテーラワーダ仏教から離れ、大衆部と呼ばれる宗派をつくりました。その大衆部も、いくつもの分派ができ、お釈迦さまの入滅後200年くらい経つと18もの宗派に分裂しました。これらはまとめて部派仏教と呼ばれます。
 お釈迦さまの入滅後500年ほど経つと、部派仏教を批判する新しい動きが現れました。そして「我らこそ優れている」という意味を込めて、自分たちを大乗仏教と称し、部派仏教のことを小乗仏教と呼びました。日本でテーラワーダ仏教を小乗仏教と呼ぶ人々がいますが、インドの大乗仏教が小乗仏教と呼んでいたのはテーラワーダではありません。実際に小乗と呼ばれていた部派仏教は、現在ではひとつも残っていません。

【『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ(日本テーラワーダ仏教協会、2003年)】

 適当に書こうと思っていたのだが、昨夜検索し始めたところドツボにはまってしまった。ま、いつものことである。

 仏教分裂の歴史は根本分裂から始まる。ブッダの訃報を知った「スパッタダは、『悲しむことはない。ブッダが涅槃に入られたので、我々は苦しみから開放された。ブッダがおいでの時は、あれも駄目、これも良くないと禁止されるばかりだったが、これからは何でも自分の好きにできる。誰も禁止する人はいない』と発言した」(第一章 初めての結集 ブッダ入滅の四か月後、タンマの編纂をする)。この発言を問題視したマハーカッサパ(マハーカーシャーパ、大迦葉、摩訶迦葉)が仏典編纂(へんさん)を決意する。十大弟子のうち、モッガラーナ(目連、目犍連)は集団暴行で殺害され、サーリプッタ(シャーリプトラ、舎利佛)は病没していた。

 上記ページによれば第一結集(けつじゅう)はブッダ逝去から4ヶ月後とされている。この日にアーナンダ(阿難)は阿羅漢果を得た。これについては異論もある。

仏教夜話・25 仏弟子群像(12) マハーカッサパ(上)
仏教夜話・26 仏弟子群像(13) マハーカッサパ(中)
仏教夜話・27 仏弟子群像(14) マハーカッサパ(下)

 確かに結集に合わせて悟れるならば、もっと早く悟れよと言いたい気持ちになる。また最も近侍(きんじ)したアーナンダをブッダがどのように教導したのかという疑問も生じる。

 第一結集では記憶力の抜きん出たアーナンダがブッダの教えを唱え、参加した500人の出家全員が承認するまで続けられた。この時点でもまだテキスト化はされていない。

 第二結集が行われたのは仏滅後100年頃のことである。この直後に根本分裂という事件が起こる。通説によれば大衆部(だいしゅぶ)と上座部(じょうざぶ)の二つに分かれ、部派仏教の時代に入るとされる。これに分別説部を加えた三つに分派したという見方もある。Wikipediaでは分別説部は上座部に含まれるとしているが、スマナサーラ説は異なることに留意する必要がある。またWikipediaでは上座部上座部仏教が別項目となっている。

 問題を整理しよう。第二結集で分裂があった。理由については大衆部と上座部双方の言い分(五事・十事)がある。二つに分かれたとする説と三つに分かれたとする説とがある。

 次に各派呼称の問題がある。テーラーワーダを直訳すると「長老の教え」で長老派と呼んでも構わないと思われるが、上座部が意味するのも同じ内容だろう。上座(かみざ)に座っているのは長老に決まっている。

 2000年以上前の事実を確認する術(すべ)はない。昨夜あれこれ考えながら一つの結論に達した。スマナサーラ説を採用すれば、テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教とすれば呼称の問題は解決できる。更にインドでは根本分裂に至るが、初期仏教はスリランカ、ミャンマー、タイに伝わった(南伝)と考えれば整合性はとれる。

 もちろんテーラワーダ対する批判(例えば「枝末分裂 部派仏教」)もあるが、検証のしようがないため考えるだけ無駄だ。

 常識的に考えてもいかなる宗教であれ、教えを忠実に守ろうとする人々が存在する。それが行き過ぎると教条主義となり、やがて原理主義が生まれる。インド上座部は原理主義化した仏教と考えてよいのではあるまいか。そして教義をもって自分を飾る出家者が増えたのだろう。

 スマナサーラの指摘によれば中期仏教は滅んだことになる。

 余談となるが、根本分裂の理由は大衆部が五事を挙げ、上座部が十事を否定する。前者は夢精に関することで、後者は戒律の緩和(食事、金銀授受)である。つまりセックスと飯とカネを巡る問題だったのだ。ったく煩悩そのものだよ(笑)。ただし謂われがある。

293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 金銀授受については、ブッダが土地の寄進(祗園精舎)を認めたことから導かれたような気もする。

 彼は、大衆部の中には、仏陀や菩薩を超世間的な存在として考える理想的な考え方を持っていた学派もいた反面、人間化された菩薩の概念を主張し、Stupa崇拝と結合した献身的実践を低く評価する学派もあったことを指摘している。そして、後者は阿羅漢果よりは菩薩行を実践することを重要視した可能性を述べている。

PDF 根本分裂の原因に関する一考察:李慈郎(Lee, Ja-rang)1998年3月20日

 昨夜の検索情報で最も有益だったのがこれだ。文章がすっきりとせず要旨もわかりにくいのだが、重要なのは最後の指摘である。「阿羅漢果より菩薩行の重視」こそが大衆部から後期仏教の流れを決定づけたと考えてよさそうだ。

小乗 自己の煩悩を絶ち、解脱を得て、阿羅漢となる。
大乗 他者を済度する「利他」の修行(菩薩行)を経て、自らの悟りが達成できる。

IV.インド仏教史(インド宗派)

 初期仏教と後期仏教の違いもここにある。大乗が「大きな乗り物」を自称したのはヒンドゥー教から流入した信者が多かったためと推測できる。種々雑多な人々が混成する中から戒律緩和の流れが出てきたのだろう。一種のプラグマティズム化であったと私は考える。すなわち大乗とは仏教の社会化であり運動化であった。

158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

【『真理のことば(ダンマパダ)』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版、1991年)】

 まず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えなさい。
 そのようにする賢明な人は、
 煩わされて悩むことがない。(158)

【『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2003年)】

 菩薩行とはボランティアでありサービスである。阿羅漢果を得る人がどんどんいなくなり、苦し紛れに編み出したのが化他行だったのではないか? 奉仕や福祉活動を通して一定の自己実現がかなえられる。

 答えは簡単だ。ダンマパダに明らかである。そもそもブッダは化他行で悟りを開いたわけではないのだ(←ここ重要)。思想の系譜を重んじるのであれば、それは学問レベルの哲学であり、文化といっても差し支えあるまい。

 尚、説一切有部(上座部)の「三世実有・法体恒有」に対する批判としては龍樹の『中論』が有名だが、何かを述べるほどの知識が私にはない。ただし、何となくではあるがダルマの捉え方が異なっているような印象を受ける。

【追記】角川文庫から『ブッダの「慈しみ」は愛を越える』が出ているが、値段がそれほど変わらない上、日本テーラワーダ仏教協会版にはCDが付いているのでお得。

慈経―ブッダの「慈しみ」は愛を越える (「パーリ仏典を読む」シリーズ (Vol.1))ブッダの「慈しみ」は愛を超える (角川文庫)

「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ
アルボムッレ・スマナサーラの朗唱
慈経







2016-04-18

秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎


 ・秘教主義の否定

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

 あるとき、ニューヨークの医師会がアドラーの教えだけを精神科の治療に使うために採用したい、ただし医師だけに教え、他の人には教えないという条件を提示したとき、アドラーはその申し出を断りました。「私の心理学は[専門家だけのものではなくて]すべての人のものだ」とアドラーはいいました。

【『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎(ベスト新書、1999年)】

 書評を書いたところで内容が知れているので、思いつくまま記すことにしよう。私の場合、感じる能力は強いのだが説明能力が劣るためだ。一般的に考えられている頭のよさとはプレゼンテーション能力を意味する。あらゆるレビューに求められるのもこれだ。要旨をまとめ、違いを示し、動機を与え、行動を促す。ま、営業・販売や自己宣伝の能力だわな。

 昨日の書評(序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集)に書き忘れたことも付け加えておく。

 岸見の著作を読むまで私はアルフレッド・アドラーアブラハム・マズローを混同していた。『嫌われる勇気』がベストセラーになっていたのは知っていたが、直ぐに手を伸ばさなかったのは「どうせ自己実現だろ?」と勝手に思い込んでいたためだ。が、それはマズローだった。

 アドラーはフロイトと共同研究を行っていたが、学問的見解を異にし、やがて袂(たもと)を分かつ。精力的に臨床を行った現場の人でもある。


 アドラーの言葉は「秘教主義の否定」であろう。ウパニシャッドに限らず大方の宗教には秘教的要素がある。宗教学ではエソテリシズムといい、インド宗教においては密教と名づける。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 手工業の時代にあっては技能・技術すら秘教であった。もともと西洋の学問世界は秘伝として教えられた長い歴史がある。ピタゴラスの数学世界は五芒星を掲げる教団から生まれたものだ。西洋では大学が12~13世紀に生まれるが学問を支配していたのは教会であった。そして女性に学問は不要と考えられていた(『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン)。

 グーテンベルクの印刷革命が1445年に狼煙(のろし)を上げる(※ただし活版技術を創案したわけではなく飽くまでも象徴である→世界史用語解説 授業と学習のヒント:金属活字)。最初に印刷したグーテンベルク聖書宗教改革の導火線となる。ドラッカーが指摘する年代は「百科全書」の作成時期(1751~1772年)と重なると見てよい。いよいよ「知識の時代」が到来したのだ。

 知識は紙を通して広まった。やがて科学革命が花開き、そして教会の権威が失墜する。秘伝が技能となり、秘教は知識となった。近代を開いた原動力がここにある。

 ブッダの遺言にこうある。

「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか」

【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版、2001年)】

「何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない」――ブッダは秘教主義と無縁であった。更には指導者の存在をも否定している。ブッダは「自分よりも優れた人を友とせよ」と教えた。好き嫌いで選ぶ人間関係は互いを戒め合うことがない。気分や感情に流されがちで、自分自身を真摯に見つめる姿勢も生まれにくい。もしも尊敬し信頼するような人がいなければどうすればいいのか? 「どうしても仲間がいなければ、独りでいてください」(『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ、佼成出版社、2005年)。「犀の角のようにただ独り歩め」(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳、岩波文庫、1958年/岩波ワイド文庫、1991年))ばいいのだ。

 神智学協会から「世界教師」と目され、大切に育てられたクリシュナムルティが、自分のために設けられた「東方の星の教団」を解散したのは34歳の時であった。「真理は途なき大地である」(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス、高橋重敏訳、めるくまーる、1988年)と。真理が途(みち)なき大地であればガイド(案内人)は不要だ。そして「新しい獄舎(教団)をつくるつもりはない」と宣言した。その後、終生にわたって集団はおろか弟子の存在すら認めなかった。

 集団は内に向かって特殊な力学が働く。そして集団は必ず暴力性を伴う。「数は力」なのだ。爆音を鳴らしながら道路交通法を踏みにじる暴走族、熱狂的なファン、示威行為の自覚を欠いたデモ、整然と行進する兵士、教祖の話に耳を傾ける多数の崇拝者……。更に権威を成り立たせているのも多数の人間である。

 多数に従い、平均的であることは生存率を高める。進化過程では平均が有利なのだ(『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ、新曜社、2001年)。動物として生きるのならば群れに従うのが正しい。ただし、そこに自由と英知はない。

 コンピュータがパーソナル化され情報革命は拍車をかける。とはいうものの専門化した科学、形而上に向かう哲学はどこか秘教的である。そして本当に儲かる話はインサイダーしか知らない。

 アドラーは自分の名前が宣揚されることよりも、自分の理論がコモンセンスとなることを望んでいたという。ここに本物の人間の生き方があるように思う。

 本書に深く感動した20代の古賀史健〈こが・ふみたけ〉は、岸見とアドラーの決定版を作ることを夢見る。10年以上を経て岸見と直接見(まみ)え、遂に2013年、『嫌われる勇気』を刊行する。今年の2月、既に32刷となり累計で100万部を超えるベストセラーとなった。同書は韓国でもほぼ同じ売れ行きとなっている。

 クリシュナムルティの言葉が引用されていることも付け加えておく。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎
ベストセラーズ
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