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2012-06-30

日本での原発再稼動は、電力ではなく、濃縮ウランの供給を要求するアメリカ企業の圧力があるからだ

大飯原発再稼働反対デモ 各紙朝刊1面記事比率


2012-06-29

首相官邸前に集え! 反原発行動は本日18時!



◎広瀬隆からの緊急メッセージ(PDF)

2012-06-21

安全ではないものを安全だと言いくるめた男たちが原発を再稼働する


 まだ何も終わっていない福島第一原発の事故を「収束した」と口先だけで発言し、安全の根拠もまったくないまま大飯原発3、4号機を再稼働させる。

 そんな人間が首相の座にいる。いったい何という国だろうか。

 安全ではないものを安全だと言いくるめた男たちが、また原発を再稼働するというのだから、それ自体が犯罪だ。

鈴木傾城〈すずき・けいせい〉

2012-06-07

「LOVE! LOVE! ハイロ!」ココロ&カナル(藤波心)



藤波心オフィシャルブログ『ここっぴーの★へそっぴー』
藤波心

LOVE! LOVE! ハイロ!

2012-05-26

佐野眞一「東電の人たちには言葉を失うという感覚がない」

2012-04-09

原発は明治政府が朝敵(天皇の敵)とした地域に立てられている

2012-03-29

「騙された」~大飯原発安全性「妥当」評価に専門家批判






 原子力発電所の運転再開の判断の前提となるストレステストを審議している国の原子力安全・保安院の専門家による意見聴取会が20日開かれ、保安院が関西電力・大飯原発のテ­スト結果を「妥当」と評価したことについて、専門家から批判が相次いだ。

 福井県にある関西電力・大飯原発3号機と4号機のストレステストについて、原子力安全・保安院が専門家による審議を前回の8日の会議で打ち切り、「テスト結果は妥当だ」と­する最終評価をまとめ、安全委員会に提出していた。

 これに対し、20日開かれた保安院の意見聴取会で、2人の委員から「議論が尽くされておらず、強い不信感を覚えた」として批判する意見が相次いだ。

 東京大学名誉教授の井野博満委員は「議論が尽くされておらず、「だまされた」という強い不信感を覚えた」と発言。芝浦工業大学講師の後藤政志委員も「積み残している問題が­たくさんある」「あたかもやったかのごとく問題ないとするのは、ものすごく問題だ。それで事故が起きたら責任をどうするのか」と指摘。また、2次評価の報告を待たず、1次­評価だけで、「妥当」とする姿勢についても厳しく批判した。

2012-03-22

ザ・特集:フクシマで死を見つめて 自殺防止活動に取り組む僧侶・中下大樹さんに聞く

 東京を拠点に自殺や孤独死の防止活動を続けてきた僧侶、中下大樹さん(36)。この1年は福島県の仮設住宅に通い、自ら命を絶った人の遺族らと交流を重ねてきた。これまでに2000人以上の死の現場に立ち会ったという中下さんは、「フクシマ」で失われゆく命をどう見つめているのか。

岩手・宮城との違いは将来が見えないこと。原発の恩恵を受けてきた地域では、不安、不満を口にできないつらさもある。

「それはお受けできません。僕は、あの方たちと一生、お付き合いをしていくつもりなのですから」。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の二重災害に見舞われた福島県。そこで死を選ぶまでに追い詰められた人たちの苦悩を知りたいと、無理を承知で「同行取材させてほしい」と中下さんに申し入れた。その答えだった。家族の自殺について遺族が本音を打ち明けてくれる関係を築くまでに、半年以上かかったこと。その事実を近所にも隠している人が多いこと。中下さんの穏やかな、だがきっぱりとした言葉にうなずくしかなかった。

 中下さんは大学院でターミナルケア(終末期の医療や看護)を学んだ後、「死の問題を突き詰めたい」と僧侶になった。新潟県のホスピスに勤務して末期がん患者数百人をみとり、07年からは東京に活動を移し、貧しさから葬式を出せない家庭や孤独死した人のために葬儀を執り行う「葬送支援」、孤独死を防ぐために一人暮らしの人の家を月に数回訪ねる活動、さらに「死にたい」と訴える人からの電話相談にも応じる。明治大学で死生学を教える非常勤講師も務めた。

 東日本大震災の直後から被災地に入り、遺体安置所で読経をしたり、がれき撤去の手伝いなどもしながら、家族を失った人たちの声に耳を傾けてきた。この1年間に被災3県に延べ190日間入り、うち約100日を福島で過ごした。当初は仮設住宅を訪れても「よそ者は帰れ」と拒絶されるばかりだったが、5回、6回と重ねるうちに「泊まって行くか?」と声をかけられるようになった。

 やがて、親しくなった人たちと雑談する中で、気になる話を聞くようになる。「あの家の人は急に死んじゃったけれど、きっと自殺だよ。酒ばかり飲むようになって、様子がおかしいと思っていたら……」。まるでろうそくの火が消えるように、仮設住宅からいなくなる人たちがいた。

「多い場合には、約200世帯の仮設住宅で、自殺とみられるケースが3件もあった」と中下さん。内閣府が統計を取り始めた昨年6月以降、「震災関連自殺」は3県で56人。うち福島は10人と決して突出しているわけではないが、「原発や放射能への考え方の違いや、ふるさとに帰れない苦しみなどが相まって、より深刻なケースが多い。酒に溺れ、体を壊しても治療せずに亡くなる“緩慢な自殺”など統計に反映されない死も多数あります」と指摘する。

 では、具体的にどんな悲話があるのか。

 木々が葉を落とし始めた昨秋、富岡町出身の50代の男性が、仮設住宅で命を絶った。以前、中下さんが一緒に酒を飲んだこともある人だった。自営業を営んでいたが、原発事故で町が警戒区域に指定され、新たな土地で事業を再開するには設備投資が1億円近くかかる。しかも移住先は決まっていない。一生をかけて築き上げた事業を一からやり直さねばならないことに絶望を深め、やがてアルコールに依存し、うつ状態になっていたという。

 妻は仮設住宅に中下さんを招き入れ、お茶をふるまいながら「夫が死んだことはつらいが、苦しんでいたからホッとしていると思う」と語り、さらに「もう家には帰れないとあきらめている。除染にお金を使うより、早く移住先を確保してほしい」と亡き夫に代わって訴えたという。

「福島と岩手・宮城の違いは、何よりも“将来”が見えないこと。また、原発の恩恵を受けてきた地域では、今も原発や放射能への不安や不満を口にできないというつらさがある。それを言った途端、周囲に白い目で見られ、仮設で居場所がなくなったという話もよく聞きます」

 昨夏、福島県の内陸部にある仮設住宅に近い火葬場で、中下さんは80代男性のひつぎに向かってお経を唱えた。家族はなく、参列して手を合わせたのは、一緒に避難している古くからの知人3、4人だけ。葬儀と呼ぶにはあまりに簡素な別れの場面だった。

 亡くなった男性は、原発事故前まで浪江町で農業を営み一人で暮らしていた。放射線量が高く、事故直後にバスに乗せられ避難して以来、「生まれ育った町で人生をまっとうしたい」と切望していたという。仮設住宅から近所の人の目を盗むように一人で浪江町の自宅に戻り、納屋でひっそりと首をつった。〈迷惑をかけてごめんなさい〉と書かれた遺書が仏壇の前に残されていた。

「ロシア語に『サマショール』という言葉があります。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で、強制退去を命じられた地域に勝手に戻って暮らす人のことで、言うことをきかないわがままな人という意味です。同じように、地縁を大事にする土地柄の人たちは近所の目を気にし、一人だけ違う行動をとることに罪悪感を抱きがち。この男性も、避難を続けるようにという周囲の説得に従えない自分を“邪魔な存在”と感じ、追い詰められていったようです」

 環境の激変そのものがストレスとなり、死を選ぶ人もいる。中下さんによると、あるお年寄りの男性は、温暖な浜通りから、冬には雪が降り積もる内陸の会津地方に避難した。だが慣れない雪に外出しづらくなって家にこもるようになり、酒と睡眠薬を同時に飲むようになった。そしてある日、吐いた物をのどに詰まらせて死亡。「事故死」として処理されたが、中下さんは「自殺」とみる。

 寝る間も惜しみ被災地の自殺防止に奔走する中下さんだが、取材の最後に「でもね……」と言葉を切り、少しためらうように言った。「病気などで亡くなる方に比べ、自殺された方の死に顔は、安らかに見えることが多いんです。眉間(みけん)もきれいに開いていてね。不謹慎かもしれませんが、活動を続ければ続けるほど、自殺が本当に悪いことなのか、分からなくなってくるような気がして……」

 そして、こう続けた。「裏を返せば、(安らかな死に顔は)生きているのが地獄の苦しみだったということ。被災者を支えるセーフティーネットが未整備だったり機能していないために、死ななくてもいいのに死を選ばざるを得ない人がたくさんいる。苦しむ人を孤立させないため、すべきことはまだあるはずです」

 中下さんは今、家族を亡くした人に声をかけ、仮設住宅の集会所などで同じ痛みを抱えた人同士が思いを分かちあう会を開いている。震災後、「絆」の大切さが叫ばれているが、福島で今、起きていることは従来の地縁や血縁に頼るだけでは解決できないと考えるからだ。

 悩み、苦しむ人を救うことは難しい。けれども、隣でうなずくことで、生きる力が回復するのを支えることはできるのかもしれない。

 時に迷い、時に共に涙を流しながら、中下さんは福島で痛みを抱える人の傍らに立ち続けようとしている。

◆主な相談先や関連サイト

◇寄り添いホットライン
 電話0120-279-338
 一般社団法人・社会的包摂サポートセンターが運営。自殺、仕事、住居、お金などの悩みに対応する電話相談。24時間対応、通話無料。

◇いのちと暮らしの相談ナビ
 http://lifelink-db.org
 自殺対策のNPO法人・ライフリンク(東京)が運営。失業、多重債務などの悩み別に、地域ごとの相談窓口を検索できるサイト。

毎日新聞 2012年3月22日 東京朝刊


悲しむ力 2000人の死を見た僧侶が伝える30の言葉

2012-03-16

正力松太郎というリトマス試験紙


【福島原発事故 その時私は】双葉病院長 鈴木市郎さん(77)

 続きを書く。情報の吟味、精査、検討という観点から正力松太郎〈しょうりき・まつたろう〉をリトマス試験紙にすべきである。

 元読売新聞社社主にして「原子力の父」と謳(うた)われた人物だ。

原発導入のシナリオ 冷戦下の対日原子力戦略
戦後、CIAは正力松太郎氏と協力して日本で原子力の平和利用キャンペーンを推進

 福島原発事故以降、国民感情としては反原発・脱原発に傾いていると思われるが、如何せん国民の意志を表明するシステムがない。解散総選挙となった場合、政治家は原発が争点になることをずる賢く回避すると思う。

 また国民投票や住民投票が実施されそうな気配もない。

 とすれば、だ。反原発・脱原発を表明する最も現実的で効果が高い行動は、読売新聞の購読を中止することだと私は考える。併せて日本テレビを見ないようにする。たったこれだけで日本の現状を動かすことは可能だ。

 関東大震災(1923年)が起こった際、朝鮮人が「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という流言が飛び交った。このデマを流布した首謀者が、時の警視庁官房主事で後に読売新聞社主となる正力松太郎であった。

関東大震災の日
読売新聞 3月11日付「編集手帳」

【福島原発事故 その時私は】双葉病院長 鈴木市郎さん(77)

置き去りにされた 救助の遅れ 亡くなった高齢者50人

 地震で停電になったが、すぐ復旧すると思っていました。原発が危ないと知ったのは翌12日の早朝。「急いで避難しろ」と大熊町の防災無線の放送があった。町役場に助けを求めるとバスが来て、患者209人と全職員が乗り込みました。

 残されたのは患者129人と私一人。職員には「残ってくれ」と言いたかったが、津波で家が流された人もいた。「自分は最後の一人を送るまで残る」と笑って見送った。すぐに後続のバスが来ると思ってました。

 ところが午後に1号機が爆発した。役場を見に行くと、人の気配がない。「置いていかれた」と思った。

 近くに系列の介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」があって、入所者98人と職員二人も取り残された。電話もテレビも使えません。不安でしたが、夜になって自衛隊員が来て「明日には車を手配できる」と言ってくれました。

 一晩ならなんとかなる。でも、停電で真っ暗だから、顔色も分からない。頬に自分の頬を寄せて無事を確認しました。患者のそばを離れられなかった。

 翌日、救助は来ませんでした。車で助けを求めて周辺をさまよっていると、パトカーに出合った。「早く助けてくれ」と頼んだ。また裏切られるかも…と思い、名前や車のナンバーを確認した。

 後で双葉署長が病院に来てくれました。でも、車の手配が難しいからと、「今日の救出は無理」って告げられた。思わず「このままでは100人亡くなる」と怒鳴っていました。

 その夜、衰弱で一人目の患者が亡くなりました。翌朝には二人。このままだと本当に数十人単位で亡くなると思いました。

 14日朝。突然、自衛隊から救助のバスが来ました。患者34人とドーヴィルの入所者98人全員が避難した。隊員は「すぐに後続が来る」と言ってくれた。だけど、3号機が爆発。隊員は「(現地対策拠点の)オフサイトセンターに行かなくては」と言っていなくなり、また約束は破られました。

 このバスが避難所のいわき光洋高校に到着したのは夜です。直線で30キロの距離を230キロ、10時間かけて移動しました。バスの車内で3人、到着後の高校の体育館で11人が亡くなった。除染のためいったん北上した後、100人を超える患者を収容できる施設を求めて原発を避けるように移動したためだと、後で聞きました。

 結局、全員が避難したのは翌15日から16日にかけて。当時、私は警察から「緊急避難だ」と原発から20キロ離れた割山峠まで連れ出されていた。「2号機が危ない」という情報が福島県警に入っていたそうです。

 救助後、県は私たちが「患者を置き去りにした」と発表した。

 私は1号機の爆発も3号機の爆発も気付きませんでした。とにかく無我夢中だった。

 31日までにドーヴィルと合わせて、436人の高齢者のうち50人が亡くなりました。原発から5キロ圏には、ほかに双葉厚生病院と大野病院がありますが、両方とも13日までに避難している。どうしてうちの救助が遅れたか。どうして230キロの移動になったか。

 あの後、弁護士に依頼して調査を始めましたが、いまだに分からない。50人は救えた命だった。もう1年たちますが、まだ現在進行形なんです。

TOKYO Web 2012-03-12

 高度情報化社会における情報の重要度は言うまでもない。ましてや災害時においては「情報が命」に直結する。かような局面で「救助後、県は私たちが『患者を置き去りにした』と発表した」。

 このようなケースを法的に裁くシステムが求められる。そうでないといつまで経っても権力者やメディアはデマを流し続けるからだ。嘘は罪である。嘘を言った者は重罪に科し、嘘を広めた者も罪に問うべきだ。

 twitterを始めとするインターネット情報は拡散しやすい。であれば情報が誤っていた場合、デマ元にさかのぼる動きを心掛けたい。拡散に対して収束という方向性も必要だ。

◎正力松太郎というリトマス試験紙

フォトジャーナリスト・広河隆一氏 記者会見 2011年12月1日












暴走する原発  チェルノブイリから福島へ これから起こる本当のこと 福島 原発と人びと (岩波新書) チェルノブイリ報告 (岩波新書) パレスチナ新版 (岩波新書)


 嘘まみれの世界に慄然とした。結局のところ情報の隠蔽・管理・操作によって民主主義は骨抜きにされているのだ。質問をしているのはフリーランスばかりで大手新聞社は皆無だ。ここに日本の原発を取り巻く情況があらわれていると思う。

2012-03-09

「現状に打ち勝てない」 福島から避難後、夫自殺(神戸新聞)


 あの原発事故さえなければ、幸せな日々が続いていたはずだった。東日本大震災の後、福島県二本松市から兵庫県内に妻と娘と避難してきた男性(38)が、昨年末、最愛の2人を残して自ら命を絶った。仕事を失い、兵庫で再起を期したが、将来への不安を拭えずうつ病を発症。残された遺書には「現状に打ち勝つ気力がもうない」と殴り書きされていた。

 兵庫に移り住んで半年が過ぎた昨年11月。尾崎裕子さん(36)は長女の理彩さん(7)と帰宅して、夫の遺体を見つけた。取り乱す裕子さんに、理彩さんが泣きながらすがりついた。「早く病院に連れて行ってあげて」

 二本松市に暮らし、国際機関の講師として働いていた男性。震災後、職場が避難所となったため職を失い、勤務先から提供されていた住居からの退去も迫られた。さらに、目に見えない放射能への不安も募った。

 男性は向上心が強く、昨春には通信制大学院への入学を計画していた。だが希望は一気に暗転。兵庫で職を見つけて転居したが、狂った歯車は元に戻らない。「眠れない」とこぼし、表情に疲れがにじんだ。優しかった男性が娘を怒鳴りつけ、後で自己嫌悪に陥っていたこともあった。

 男性が精神科医のカウンセリングを受け、薬の処方を受けていることが、秋になって初めて分かった。「真面目な人だから家族を守りたい、心配はかけられない、と思っていたんだと思う」

 理彩さんは葬儀後、悲しみを表に出さなかったが、浴室で隠れて泣いていた。働き始めた裕子さんの帰宅時には、駅まで迎えに行く。「お母さんは私が守るから」。母と娘で遊びに行った場面の絵には、今も必ず「家族3人」の姿を描く。

 震災から1年。次々と降りかかる災いを顧みる余裕もなく走った。ふと立ち止まり、夫の死が震災を原因とした「関連死」に当てはまるのでは、との思いが膨らむ。

「なぜ夫が隣にいないのか、と寂しさが噴き出す瞬間がある。あの原発事故さえなければ、元のまま暮らせていたんです」。それまでこらえていた涙がこぼれ落ちた。

神戸新聞 2012-03-07

2012-01-24

どうしても原発を動かしたい人たちが、電力不足をあおりたてる数字をこれからも出してくるだろう

東京新聞:筆洗「どうしても原発を動かしたい人たちが、電力不足をあおりたてる数字をこれからも出してくるだろう。そこに潜むうそを見破っていきたい」。東京の原発追跡は賞賛もの。ついでにぜひ「TPPに潜むうそを見破っていきたい」をお願いします
Jan 24 via web Favorite Retweet Reply