2016-05-28
2016-05-27
ヒロシマとナガサキの報復を恐れるアメリカ/『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎
・『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年
・『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘:2006年
・『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘:2009年
・『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘:2010年
・日本共産党はコミンテルンの日本支部
・ヒロシマとナガサキの報復を恐れるアメリカ
・『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
・『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
・『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
・『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
・『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
・『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
・『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
・『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年
菅沼●たとえば、北朝鮮やイランの核開発の問題。オバマ大統領は核廃絶を訴えてノーベル平和賞を貰いましたが、もちろんこの発言には裏がある。冷静に考えれば、ロシアも中国も北朝鮮もどんどん開発をしていて、現実的に核廃絶なんてできるわけがないというか、単なる寝言です。
廃絶は寝言でも、不拡散と言って、アメリカがイランや北朝鮮の核開発に異常に神経質になるのは、イラン・北朝鮮が核を持つと、再び日本とドイツが核兵器を開発するという誘惑にかられることを心配しているからです。第二次世界大戦のトラウマがあるから、これはなんとしても阻止しないといけない。
【『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎(扶桑社、2010年)以下同】
オバマ大統領が今日、広島を訪問した。原爆資料館を見学し、原爆慰霊碑に献花。アメリカの国家元首としては初めてのことである。ま、安倍首相に対するご褒美なのだろう。2014年のオバマ来日以降、安倍政権が行ってきたことといえば、特定秘密保護法の制定・施行と安全保障関連法案の改正(集団的自衛権の行使)である。
1959年に原爆資料館を訪れたチェ・ゲバラは言った。「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と(『チェ・ゲバラ伝』三好徹)。米軍による原爆投下は人体実験だった(『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人)。戦後、アメリカから広島・長崎に派遣された医療団は一切治療を行うことなくデータ収集に専念した。それは現在も尚続いているのである。
菅沼●北朝鮮の核ミサイルは、核大国である中国とロシアにとっても何の脅威でもありません。また、韓国の場合は、基本的に同胞だから核は撃ってこない。すると、本当に脅威なのは日本だけです。だから、「日本も核武装すべき」という議論が日本に出てくることがアメリカはショックなのです。
日本の技術力からすれば、あっという間に核大国になってしまう。もし、そうなったら、必ずやニューヨークとワシントンに報復攻撃をしてくる……。
須田●アメリカはそう思っているのでしょう。
菅沼●ヒロシマとナガサキの報復をされると確信しているのです。なぜなら、アメリカ人は目には目を、歯に歯を、というのが基本的な考え方であり、アメリカが日本に原爆を落としたのは神も許した正義なのです。
須田●日本は毎年毎年、ヒロシマ、ナガサキで大々的な慰霊集会を行なって、大日本帝国の英霊を祀る靖国神社に総理大臣が毎年参列するくらいだから、アメリカ人は「日本人は原爆投下を絶対に許していない」と思っています。
菅沼●「それは考えすぎだろう」と日本人は思うかもしれないが、そうではありません。アメリカ人は「絶対に許さない」と考えるのが自然というか、当たり前だと思っている。日本人のセンスとは、ちょっと違うわけです。
アメリカの歴史は「リメンバー」(忘れるな)というスローガンが端的に示している。「リメンバー・アラモ砦」でメキシコ戦争、「リメンバー・サムター砦」で南北戦争、「リメンバー・メイン号」でスペイン戦争、「リメンバー・ルキタニア号」で第一次世界大戦参戦、「リメンバー・パールハーバー」で第二次世界大戦参戦、そして「リメンバー・トンキン湾」でベトナム戦争、「リメンバー9.11」で対テロ・アフガン・イラク戦争へと突入してきた。
人間も国家も相手の中に自分の似姿を見出す。「やられたらやり返す」のがアメリカの流儀だ。日本を恐れるのは当然であった。だが当の日本は平和という病に冒されていた。しかもその平和を担保していたのは駐日米軍の存在であり、アメリカの核の傘であった。ブラック・ユーモアにしては黒すぎる。
菅沼●アメリカ人には、どうしても日本的なメンタリティーが理解できない。だから、日本人が怖くて仕方ないのです。それで、常に経済的にも技術的にも軍事的にも、独り立ちできないようにしてくるわけです。
アメリカが世界で行ってきたことはジョン・パーキンス著『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』、ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』やウィリアム・ブルム著『アメリカの国家犯罪全書』が詳細に渡って論じている。アメリカこそは世界最大のテロ国家である(『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー)。
アメリカの疑心暗鬼は自らの悪逆非道から生まれる。世界の警察官は世界の犯罪者でもあった。
日本人はお人好しである。もちろん戦後教育が歴史から目を逸(そ)らさせてきた事実を見逃すことはできない。だが歴史に学んだところで今直ぐアメリカと手を切るわけにはいかない。そもそも自衛隊が単独で戦闘できる体制になっていないのだ。日本としては時間をかけてでもアジア諸国との信頼関係を培い、ロシアおよびインドとの関係を強化するしかない。
中国では民主化の動きが圧力となって、中国共産党は民主化を封じ込める形で日本との戦端を開くことだろう。恐らく2020年前後には動き出すに違いない。これがアメリカの方針であり、共和党政権になっても維持されることだろう。米軍は日本から撤収する可能性が高い。
競争と搾取/『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・競争と搾取
・洪水
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ニ ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない。
四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
六 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。
【『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】
心は世界を映す鏡である。汚れた心には汚れた世界が、清らかな心には清らかな世界が映る。つまり心が因で世界が果である。「ものごと」とは多分「諸法」だろう。そして「話したり行なったり」は「諸行」である。華厳経には「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如(ごと)く 種種の五蘊(ごうん)を画(えが)く 一切世間の中に法として造らざること無し」とある。
「私」とは何か? それは五蘊という要素の集合体である。西洋哲学は存在論を志向するが、仏教は感覚・認識・表象に着目する。私はこれを「情報の交換性」と見る。情報にプラスマイナスの価値を付加するところに「物語」が生まれる。つまり「私」とは「情報変換システム」なのだ。
もう一度華厳経のテキストを見てみよう。我々が世界と認識するものは「心が描いた五蘊」であると説かれている。まず世界があって私の心がそれを認識していると考えがちだが華厳経は逆説的に捉える。「心によって描かれた五蘊が世界だ」というのだ。そうすると客観的な世界は存在しないと考えてよかろう。人の数だけ生物の数だけ「私の世界」があるのだ。
法制度が保障するのは「心の自由」である。我々は自由にものを考え、行動することができる――と信じている。ハハハ、そんなものは西洋の欺瞞的な概念だよ。大体あいつらには「神を信じない自由」は存在しなかった。そもそも社会(親)から抑圧され、学校で成型された心が自由なはずがない。よく考えてみよう。想念をコントロールすることができるだろうか? 何を思うかは自由であるが、事あるごとに落ち込み、怒り、悲しみ、落胆するのが人の常であろう。心ほど不自由なものはない。餌をちらつかせたところで心はお手ひとつしない。
「かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した」――競争と搾取である。ヒトはコミュニティを形成しながら社会的動物として進化してきた。コミュニティ内部の序列で人生の色彩は変わる。小さなコミュニティで分担された役割は、より大きなコミュニティを形成する中で序列や位階となっていった。社会は国家へと至ったが、これを超えることはないだろう。国家を動かす政治・経済の本質は競争と搾取だ。競争に打ち勝った者が搾取をする。具体的な予算執行は大企業を通して行われる。富の再分配や乗数効果という言葉は絵に描いた餅の類いである。
酒井順子の『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)がベストセラーとなり、続いて格差社会を巡る書籍の出版が相次いだ。やがて「勝ち組・負け組」というキーワードが流布する。日本の格差を生んだのは総合規制改革会議による製造業における労働者派遣事業の解禁(2002年答申、2004年法改正)に始まる(派遣法の概要)。議長の宮内義彦(オリックス株式会社取締役兼代表執行役会長・グループCEO)を始めとする委員(総合規制改革会議委員名簿)については戦犯として長く記憶されるべきである。鈴木良男(株式会社旭リサーチセンター代表取締役社長 委員)、奥谷禮子(株式会社ザ・アール代表取締役社長)、神田秀樹(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、河野栄子(株式会社リクルート代表取締役会長兼CEO)、佐々木かをり(株式会社イー・ウーマン代表取締役社長)、清家篤(慶應義塾大学商学部教授)、高原慶一朗(ユニ・チャーム株式会社代表取締役会長)、八田達夫(東京大学空間情報科学研究センター教授)、古河潤之助(古河電気工業株式会社代表取締役会長)、村山利栄(ゴールドマン・サックス証券会社マネージング・ディレクター、経営管理室長)、森稔(森ビル株式会社代表取締役社長)、八代尚宏(社団法人日本経済研究センター理事長)、安居祥策(帝人株式会社代表取締役会長)、米澤明憲(東京大学大学院情報理工学系研究科教授)。ザ・アールとリクルートは早い話が寄せ場の手配師である。言ってみればヤクザの胴元にカジノ合法化を依頼するようなものだ。ウハウハ顔が目に浮かぶ。
高度経済成長から続いていきた一億総中流社会は滅んだ。経営者といえば聞こえはいいが所詮商人である。国家の法を託す相手ではない。もっと高潔な人物を選ぶべきであった。
資本主義は競争と搾取を正当化する。そして国家には戦争をする権利がある(交戦権)。世界が一つになることは決してないだろう。国家がある限りは。
ブッダが説くのは「競争からの自由」であろう。平和とは「怨みのない状態」と言ってよい。競争から離脱するには「かれは、われにうち勝った」と思わなければよい。しかし先にも書いた通り「思う、思わない」という心の状態をコントロールするのは難しい。それでも「思い」を手放すことは可能だろう。修行とは「行を修める」との謂いであるが、その目的は「心を修める」ことにある。修めるとは整えることだ。
「比較があるところにはかならず恐怖がある」とクリシュナムルティは説いた(『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ)。競争からの自由は恐怖からの自由でもある。
2016-05-22
ただ独り歩め/『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・ただ独り歩め
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿
・ブッダの教えを学ぶ
蛇(へび)の毒が(身体のすみずみに)広がるのを薬で抑えるように
怒りが起こるのを制する出家修行者(しゅっけしゅぎょうしゃ)は
迷いの世界を捨て去る。
蛇が脱皮(だっぴ)して古い皮を捨て去るように。(一)
池に生(は)える蓮(はす)の花を折り採(と)るように
貪(むさぼ)りをすっかり摘(つ)み取った出家修行者は
迷いの世界を捨て去る。
蛇が脱皮して古い皮を捨て去るように。(ニ)
【『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2014年)以下同】
実はワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』を紹介しようと思ったのだが、今枝本をまだ書いていないことに気づいた。それどころではない。東亜百年戦争から三島由紀夫につながる一連の流れも中途半端なままで、東京裁判史観と憲法に関する書物もまだ紹介していない。その前には情報とアルゴリズムに着手する予定であった。何ということか。人生は恐ろしいスピードで進み、自分に出来ることは限られている。人は何かを成し遂げる前に死ぬ可能性が高い。
私にとって本を読むことは人と出会うことである。五十を過ぎてから一気に読書量は加速したが、それは面白い人を見つけるのが巧みになったからだ。やや遅すぎた感はある。だが何も知らないよりはましだ。
今枝訳は読みやすい。あっさりしている分だけ香りが失われているような気もするが、ブッダの教えを学ぶには格好のテキストといってよいだろう。特に他訳と厳密な比較をすることはしていない。意味のつかみにくい箇所だけ参照する程度だ。言葉や表現の違いを調べるよりも、そのまま読んで何を感じるかの方が大切だろう。
貪(とん/むさぼり)・瞋(じん/いかり)・癡(ち/おろか)を三毒という。これらが餓鬼・地獄・畜生の三悪趣に対応する。
世界の混乱と悲劇の原因は三毒にある。つまり「私の中」にある。これがブッダの指摘だ。別の角度から見れば、三毒こそ自我の本質であるといえよう。欲望の焔(ほのお)が燃え盛る生命状態である。我々はともすると時間が経てば薄らぐように考えがちだが実はそうではない。怒りは毒となって生命を冒し、貪りの根はしっかりと心の底に張り巡らされる。
我々の社会では怒りも貪りも肯定されている。怒りは正義と結びつけられ、貪りは資本主義の原動力となっている。「夢を持て」とは貪りに生きることを意味する。欲望の充足を幸福と錯覚しながら競争に明け暮れるのが我々の人生である。隣人よりも高価な家に住み、高級なクルマに乗るのが我々の幸福だ。綺麗事を言っても無駄だ。アンタもオレもそう思っている。これが事実だ。
怒りも貪りも関係性の中から生じる。一切は「縁(よ)りて起こる」。瞑想とは怒りを怒りと、貪りを貪りと自覚することだ。怒りを怒りと見、貪りを貪りと見る時、焔は静まる。怒りという感情を観察する時、私は怒りと距離を保つ。なぜなら離れなければ見ることはできないからだ。つまり見ることが離れることなのである。
交わりから愛着が生じ
愛着から苦しみが生じる。
愛着には、この危険があることを知り
犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。(ニ八)
朋友(ほうゆう)や仲間に憐(あわ)れみをかけると
心がほだされ、自分の目的を見失う。
親しみには、この恐れがあることを知り
犀の角のようにただ独り歩め。(ニ九)
賢明(けんめい)な同伴者、あるいは
明敏(めいびん)な仲間が得られなければ
王が、征服(せいふく)した国を捨てて立ち去るように
犀の角のようにただ独り歩め。(三〇)
じつに朋友(ほうゆう)を得るのはよいことである。
自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しむべきである。
こうした朋友が得られなければ、罪や過(あやま)ちのない生活を楽しみとし
犀の角のようにただ独り歩め。(三一)
それほど新味のある訳ではない。荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳はこの箇所を「一角の犀となって」としている。多分どちらも誤訳である。なぜならサイには角が2本あるからだ(笑)。スマナサーラによれば「犀の如く独りで歩め」とのことである(2010/12/28 No.375 ブッダは「単独行動」に自信あり 5)。
ただし「犀の角」であろうと「一角の犀」であろうとブッダの本意が損なわれることはないだろう。「独り歩め」の意味が変わるわけでもない。
友情の深さや愛情の細やかさを幸福の源泉と考えがちだが実は違う。四苦八苦の中に愛別離苦がある。人生には必ず愛する人との離別がつきまとう。ストレスの最たるものは家族の死といわれるが、情の深さは幸福にも通じるが不幸にも通じている。
何にも増して修行の過程であることを思えば、朋友の存在は依存にもつながりかねない。
アーナンダが尋ねた。「私どもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、 既にこの聖なる道のなかばを成就したに等しいと思われますが、いかがでしょうか?」と。ブッダは答えた。「アーナンダよ、我らが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、それはこの聖なる道のなかばにあたるのではなく、そのすべてなのである」(サンユッタ・ニカーヤ)。
有名なエピソードである。だが善き友を得たことは一つの結果であって、修行の目的ではあるまい。悟りは自分自身だけが開く世界である。その意味から申せば、仏道のあり方はやはり「ただ独り歩む」ことが正しい。善友が5人いようと、10人いようとただ独り歩むのである。友がいればそれに越したことはない、という程度のことだ。
サンガという共同体はブッダのもとで「ただ独り歩む」者の集団であったが、その戒律の多さを思うと、やはり運営には一方ならぬ苦労があったのだろう。印刷や通信のない時代背景も考慮する必要がある。ブッダが現代に生まれれば、クリシュナムルティのように教団を否定した可能性もある。
2016-05-21
怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
ブッダは、耳で聴いてわかる、平易な日常的な言葉で、あらゆる階層、境遇の民衆に親しく語りかけました。かれの言葉は、「目覚めた人」、「努める人」、「まことの人」、「心の汚(けが)れ」、「安らぎ」といった響きの、現代日本人にごく自然に受け止められる言葉であって、けっして「仏陀」(ぶっだ)、「沙門」(しゃもん)、「阿羅漢」(あらかん)、「煩悩」(ぼんのう)、「涅槃」(ねはん)といったとっつきにく難解な用語ではありませんでした。ブッダの言葉が、多くの民衆に広く受け入れられ、やがて仏教という偉大な宗教が誕生することになった要因の一つは、その平易さにあったと思われます。
【『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2013年)以下同】
仏教呼称の問題については「テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教」(『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ)と書いた通りである。初期仏教を南伝仏教、後期仏教を北伝仏教ともいう。
南伝仏教と北伝仏教のルート。 pic.twitter.com/F0FaJX8Gjm
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年5月21日
次に初期仏教の呼称も様々あるのだが私は「パーリ三蔵」と呼ぶ。
パーリ三蔵は律蔵・経蔵・論蔵の三蔵から成る。
大蔵出版が刊行している『南伝大蔵経』(全65巻70冊)の構成は、『律蔵』(5巻5冊)、『経蔵』(39巻42冊)、『論蔵』(14巻15冊)、『蔵外』(7巻8冊)となっている。『蔵外』には『ミリンダ王の問い』などが含まれている(パーリ語経典入門)。因みに北伝の漢訳大蔵経は1076部5048巻となっている。
律は戒律、経はブッダの教え、論は解説である。経蔵は長部(じょうぶ/長編経典集)、中部(ちゅうぶ/中編経典集)、相応部(そうおうぶ/テーマ別短編経典集)、増支部(ぞうしぶ/数字別短編経典集)、小部(しょうぶ/特異な経典)に分かれる。長部の読みが「ぢょうぶ」か「ちょうぶ」かは不明。
ダンマパダやスッタニパータは小部経典である。
今枝の指摘は正しいと思う。難解な言葉は思考に衝撃を与えることはあっても生き方を変えるまでに至らない。ブッダが説いたのは法であって論理ではなかった。法とは真理である。誰が聞いても心から「そうだ!」と感じるものが真理だ。西洋哲学は神を目指して形而上に向かい、人々の心から離れていった。そして仏教もまた各部派間の争いや、復興するヒンドゥー教に対抗して絢爛極まりない論理を構築していった。
初期仏教が日本で本格的に研究されるようになったのはここ数十年のことである。それでも尚、多くの仏教学者は初期仏教のみを真実として後期仏教を排除するべきではないと考えている。こうなるとブッダの教えというよりは、仏教という思想史・文化史となってしまう。ただし初期仏教が「ブッダの言葉」そのものであるかどうかは誰にもわからない。ゆえに初期仏教からブッダの声を探るのが正しいあり方だと私は考える。
ものごとは心に煽(あお)られ、心に左右され
心によってつくり出される。
もし人が、汚(けが)れた心で
話し、行動するならば
その人には、苦しみがつき従う。
車輪が、荷車を牽(ひ)く牛の足跡につき従うように。
ものごとは心に煽られ、心に左右され
心によってつくり出される。
もし人が、清らかな心で
話し、行動するならば
その人には、幸せがつき従う。
影が、からだを離れることがないように。(一・ニ)
冒頭の一偈である。我々は心に支配されている。心は決して自由になることがない。修行とは心を修めると書くがその目的は心を修めることにある。
泥のような欲望がある限り幸福は訪れない。そして汚(けが)れた瞳を通せば世界は汚れたものにしか映らない。日常生活においては誰もが自制心を持ち合わせているが、ふとしたきっかけを通して劣情が吹き出す。感情に対して感情で応答するところに諍(いさか)いが生まれ、喧嘩に発展し、人を殺すことさえある。国家の戦争を支えているのはこうした我々の生き方なのだ。
特に強い者が弱い者に対する暴力性はとどまることを知らない。いじめはもとより大人と子供、上司と部下、売り手と買い手、資本家と労働者に至るまで、ありとあらゆる無作法がまかり通る。暴力がハラスメント(嫌がらせ)という陰湿な形をとるようになったのはバブル景気の頃(1980年代後半)からである。抑圧は精神に長期的なダメージを与える。少子化によって家族が、リストラによって職場が、転勤によって地域がコミュニティの力を失いつつある。一度崩壊したモラルは元に戻れない。決壊したダムのようなものだ。
果たして「悪人は必ず不幸になる」と言い切れるだろうか? ここが難しいところだ。インディアンを虐殺し、アフリカ人を奴隷にしたアメリカ人は不幸になっただろうか? パレスチナ人を殺戮し続けるイスラエル人、ツチ族を惨殺したフツ族が不幸になっただろうか? 広島と長崎に原爆を落としたルーズヴェルトやトルーマンが不幸になっただろうか? それはわからない。わかるわけがない。なぜなら人生とは「私の人生」しか存在しないのだから。ブッダの言葉を自分の外に置いて読むのは誤りだ。
「あの人はわたしを罵(ののし)った。あの人はわたしを傷つけた。
あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪(うば)った」
そういう思いを抱(いだ)く人には
怨(うら)みはついに消えることがない。
「あの人はわたしを罵った。あの人はわたしを傷つけた。
あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪った」
そういう思いを抱かない人には
怨みは完全に消える。(三・四)
じつにこの世においては
怨みが、怨みによって消えることは、ついにない。
怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。
これは普遍的真理である。(五)
わたしたちは、死すべきものである。
人々はこのことを理解していない。
しかし、人がこのことを意識すれば
争いはしずまる。(六)
スッタニパータにおいてブッダは怒りを「蛇の毒」に譬(たと)える(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳)。またスマナサーラによれば怒りを示すパーリ語「ドーサ」には「穢れる」「濁る」「暗い」という意味があるという(『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ)。「怨み」とは「持続した怒り」であろう。
宗教の歴史は分断の歴史である。仏教も例外ではない。何をどう言い繕おうとも「争い」の事実を隠すことはできない。宗教は民族をも規定した。そして宗教が戦争の原因となった。
怨みはどこからでも生じる。「私を誤解した」「私を馬鹿にした」「私を傷つけた」「私を殴った」……。更に最悪の場合を考えれば「私の家族を殺した」まで行き着く。チェチェン人は先祖が殺されれば、相手の7代までに渡って必ず復讐する(『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学)。やられたらやり返せというのが人類の歴史であった。そしてより戦闘的な民族が栄えた。今、世界を支配するのはアングロ・サクソン人である。
ブッダは「許せ」とは言っていない。ただ「怨みを捨てよ」と教える。許すことは難しいが捨てることなら何となくできそうな気がする。怨みは自我に基き自我を強化する。「私を――」との思考メカニズムを解体しない限り、怨みを捨てることはできない。怨みや怒りを固く握っている自分自身を理解すれば、手の力は弱まる。あとは放すだけだ。
怒りや怨みが蛇の毒のように自分を冒す。「自分が正しい」と思い込んでいるうちは怒りを正当化するのが我々の常だ。そこに落とし穴がある。正しい怒りなど存在しない。仏教では最低の境涯を地獄界と名づける。その要因は瞋恚(しんに)すなわち瞋(いか)りである。怒りは地獄の因と心得よ。サッと怒りの感情が湧いたなら、まずは言葉を飲み込み、鼻から大きく息を吸う。そしてゆっくりと口から吐く。これを三度繰り返すとよい。
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