2009-02-17

環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人


『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・環境・野生動物保護団体の欺瞞
 ・環境ファッショ、環境帝国主義、環境植民地主義
 ・「環境帝国主義」とは?
 ・環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する
 ・グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない
 ・反捕鯨キャンペーンは日本人へのレイシズムの現れ
 ・有色人捕鯨国だけを攻撃する実態

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 環境帝国主義の本家アメリカの手口はこうだ――

 アメリカは前述の国内法「海産哺乳動物保護法」と「絶滅に瀕した動植物保護法」以外に、さらに二つの国内法を持つ。「パックウッド・マグナソン法」(PM法)と「ペリー修正法」(PA法)である。
「PM法」と「PA法」は「国際捕鯨取締条約」と「ワシントン条約」という二つの国際法の“番犬”的な役割を担う。
「PM法」は『「国際捕鯨取締条約」の規制の効果を減殺した国に対して、米国200カイリ以内の漁獲割当てを、初年度50%削減し、2年目にゼロにする』という内容である。また「PA法」は『「ワシントン条約」の効果を減殺する国に対し、その国からの製品の輸入を禁止する』ことをうたっている。
「PM法」も「PA法」も明らかに国際条約あるいは国際協定に反する。「PM法」は、国際条約の想定に反する国内法の制定を禁じた「ウィーン条約」に違反するし、「PA法」も当時のガットいまのWTO条項に抵触する。だが、アメリカはこの二つの国内法を振りかざして日本に圧力をかけてきた。
 1982年のIWCの年次会議で、商業捕鯨のモラトリアム(全面中止)が採択された。これはIWC・科学小委員会の勧告を無視したものであったため、日本は条約の規定に基づいて異義を申し立てて従わない方針を取った。しかし、アメリカは「PM法」の発動をちらつかせて、日本政府に異議申し立ての撤回を強要してきたのである。わが国は米国200カイリ内でのサカナの割当てがなくなることを恐れて、IWCへの異議申し立てを撤回し、モラトリアムをのんだ。
 1989年のワシントン条約国会議で、タイマイを含む海亀の国際取引禁止が採択された。日本のべっ甲業界は、主にキューバからタイマイの甲羅を輸入している。キューバではタイマイの資源管理を国家が行ない、増殖に力を入れているので、資源は豊富。世界のすべての海亀をひっくるめて絶滅種にリストアップする非合理性に異義を表明する意味から、日本政府は海亀の国際取引禁止に留保の意思表示をした。クジラのケースと同じである。
 ここでまたアメリカがクジラの時と同じ手を打ってきた。留保を撤回しなければ「PA法」を発動して、日本から車や半導体の輸入を禁止する、と脅しをかけてきたのである。
 べっ甲産業は車や電子産業とは比較にならないほど小さい。通産省は91年6月に、タイマイの留保を94年7月で取り下げるとアメリカ商務省に伝え、この問題に決着をつけた。

 環境帝国主義の本家アメリカは、環境問題に関する行動を、表面上は一応法律に基づいて起こしている。そのパターンを整理すると次のようになる。
 1.まず、保護したい動物を大げさに美化する。そして資源が絶滅しかけているという危機感を打ち上げて国際世論を喚起する。
 2.IWCや「ワシントン条約」の会議で、多数派工作をして数の力で狙いを達成する。
 3.決定に対して異議を申し立てたり、留保をして抵抗を試みる国には、国内法による制裁発動を持ち出し、無理矢理に従わせる。
 環境帝国主義の犠牲になっている民族が、日本人、イヌイット、アフリカ人など、ほとんどが有色人種である点も見逃せない。
 ところで、アメリカ政府関係者も環境保護運動家たちも、当然のことだが自分たちが環境帝国主義者との認識は全くないのである。むしろ優れた価値観や文化を理解させたとの宣教師的な満足感を持っている。

【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】

 何と、国内法で外国を制裁するという無理無体なことをしている。繁華街を牛耳る暴力団より酷い。やくざ者の場合なら「この街じゃ俺達が法律だ」で済むが、アメリカさんの場合は「どの街も俺達のルールに従ってもらう」という論法だ。もちろん歯向かった時は、暴力団も足下に及ばぬ暴力的な措置が迅速に執行される。

 グローバリゼーションとは、「アメリカのやり方に従う」という意味である。

2009-02-16

論理ではなく無意識が行動を支えている/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 意識と無意識のわかりやすい例え――

 人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない。書くことはできるが、どうやって書いているのかを書きながら解説することはできない。楽器は演奏できても、うまくなればなるほど、いったい何をどうしているのか説明するのが困難になる。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】

 それまではできなかったことができるようになると、脳内ではシナプスが新しい回路を形成する。この回路が滑らかに作動すると、我々は無意識でそれができるようになる。

 自動車の運転もそうだ。教習所に通っているうちは、「まずエンジンをかけて、それからブレーキペダルを踏んで……」などと頭で考えている。だが免許を取得して運転に慣れてしまえば、全く何も考えることなくラジオに耳を傾け、同乗者と会話しながら運転ができるようになっている。

 そのことを「言葉で説明できない」と指摘するところがトール・ノーレットランダーシュの凄いところ。意識を支えているのが無意識であることが明らか。無意識は言葉にできない。それでも我々は、言葉を交わしながら互いの無意識を感じ取っているのだ。

 きっと無意識は、善悪が混沌としてスープのように煮えたぎっている世界なのだろう。これをコントロールすることは可能なのだろうか? 多分可能なのだろう。無意識が意識を形成し、意識が行為に至る。そして今度は、行為がフィードバックされて意識から無意識へと通じる回路があるはずだ。それをブッダは「業(ごう=行為)」と呼んだ。善男善女よ、善行に励め。



言語も及ばぬ意識下の世界/『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック

2009-02-15

少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした/『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二


 ・少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした
 ・シエラレオネ反政府軍に使われた少年兵は5000人以上
 ・麻薬で殺人に駆り立てられる少年兵

『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治
『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー

 ユニセフは少年兵の数を25万人と想定している。では子供達が戦場でどのような攻撃をしているのか――

 子どもたちのなかには養女がいます。メムナちゃんといいます。妻エリザベスさんの姉の娘です。
 3歳になるメムナちゃんですが、彼女もまた、反政府軍によって右手を切り落とされていました。
(こんなに小さな子が逆らうはずもないのに、なぜ? 兵士たちは狂っている…)
 わたしはこの時、自分の腕がじーんと痛くなるのを感じました。
 メムナちゃんがおそわれたのは、1年前のこと。
 勢いにのった反政府軍が、地方から首都フリータウンへ攻め入ってきた時のことです。
 反政府軍の残酷なやり方はこれまでよりも激しくなっていました。無差別に銃を乱射し、家に火をつけ、逃げまどう市民たちをつかまえては、列にならばせました。そしてまるで流れ作業のように手や足を切り落としていったといいます。(中略)
 エリザベスさんはその時のことを話してくれました。
 自分たちをおそった反政府軍の兵士は、10歳前後の子どもたちのグループだったといいます。
「そのグループはジョンダとよばれていました。リーダーは12歳と聞きました。」
 私は一瞬、自分の耳を疑いました。
「子どもの兵士だったのですか?」
「銃を持っていたのはほとんどが10歳前後の子どもたちでした。
 最初、わたしたちはメムナの家族といっしょにモスクにかくれていたんです。
 でも、ジョンダ・グループの子ども兵士たちに見つかって、わたしたち全員が建物の外に出されて、ならばされました。
 小さな体なのに大きな銃を持った子ども兵士たちは、わたしたちの列に向かっていきなり銃を撃ち始めました。
 その時、メムナは泣いていて、母親がかばおうとしました。すると、彼らは母親を撃ち、メムナを連れて、その場を笑いながら去っていったのです。」(3日後に右手が切断されたメムナちゃんが発見される)

【『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二(汐文社、2005年)】

 本書で紹介されている少年兵は、襲撃した村からさらってきた子供達であり、麻薬漬けにされている。表紙の拡大画面を見て欲しい。左目の下にある三日月の傷痕は、カミソリで切られて麻薬を埋め込まれたものだ。

 シエラレオネは世界一平均寿命が短い国である。アフリカ諸国は欧米に利用されるだけ利用され、踏みつけられるだけ踏みつけられてきた歴史がある。ルワンダもそうだ。欧米に共通するのはキリスト教という価値観であり、そこに差別的な発想があるとしか思えない。ノアの箱舟に乗れるのは自分達だけで、それ以外の有色人種はどうなろうと構わないのだろう。彼等がイエスを信じた時から、多分神は死んでいたはずだ。

 元少年兵を社会が受け入れ、苦悩し続けるシエラレオネ。殺した者と殺された者とが手を取り合おうと呻吟(しんぎん)するシエラレオネ。明るい未来を思わずにはいられない。


シエラレオネ 裁かれる戦争犯罪 - 孤帆の遠影碧空に尽き
後藤健二氏殺害の真相/『日本人が知らない地政学が教えるこの国の進路』菅沼光弘

2009-02-14

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『唯脳論』養老孟司

 ・世界よりも眼が先
 ・人間が認識しているのは0.5秒前の世界
 ・フィードバックとは

『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

必読書リスト その三

 知覚に誤差があるのは何となく理解できるだろう。光や音のスピード、はたまた神経回路を伝わる時間差など。だが、よもや0.5秒もずれているとは思わなかった。

 もっと言っちゃうとね、文字を読んだり、人の話した言葉を理解したり、そういうより高度な機能が関わってくると、もっともっと処理に時間がかかる。文字や言葉が目や耳に入ってきてから、ちゃんと情報処理ができるまでに、すくなくとも0.1秒、通常0.5秒くらいかかると言われている。
 だから、いまこうやって世の中がきみらの前に存在しているでしょ。僕がしゃべったことを聞いて理解しているでしょ。自分がまさに〈いま〉に生きているような気がするじゃない? だけど、それはウソで、〈いま〉と感じている時間は0.5秒前の世界なんだ。つまり、人間は過去に生きていることになるんだ。人生、後ろ向きなんだね(笑)。

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二(朝日出版社、2004年)】

 知覚された情報は過去のものだが、意識は常に「現在」という座標軸に固定されている。例えば、我々が見ている北極星の光は430年前のものだが、光は年をとらない。そして意識は未来へと向かって開かれている。

 それにしても、0.5秒という誤差は驚くべきものだ。宇宙が生まれたのは137億年前だと考えられているが、刹那と久遠のはざ間に時間の本質が隠されている。

 しかも、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)によれば、意識が生じる0.5秒前から脳内では準備電位が現れるという。とすると、本当のリアルを生きているのは無意識ということになるのか。

物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一



視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン

2009-02-12

忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス/『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー


『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ・忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス

 予告編を観てピンと来るものがあった。七つの短篇はいずれも素晴らしい作品に仕上がっている。


『タンザ』メディ・カレフ監督(ルワンダ)

 DVDに収められているプロダクションノートを見てルワンダであることを知った。シエラレオネの少年兵の実態(後藤健二著『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』汐文社、2005年)より悲惨さは少ないが、それでもやはり映像の迫力は凄い。長い間の取り方が否応(いやおう)なく緊迫感を高める。チョークに込められたのは学ぶことへの憧れであり、爆弾の擬声が戦闘に対する無自覚を示している。ラストで静かに流れる少年兵の涙が過酷な現実を雄弁に物語っている。

『ブルー・ジプシー』エミール・クストリッツァ監督(セルビア・モンテネグロ)

 監督はサラエボ生まれとなっているが、フランス映画のような軽妙さがある。完成度も高い。父親に窃盗を強要され、時に激しい暴力を加えられる少年が主人公。少年院の内側の方が主人公にとっては安心できる世界だった。少年院での歌の練習シーンなどは爆笑もの。窃盗団が奏でる音楽が人々の心を奪うというアイディアもグッド。

『アメリカのイエスの子ら』スパイク・リー監督(アメリカ)

 子供に隠れて麻薬を常習する両親。それでも愛情に嘘はなかった。その上、親子はHIVに感染していた。学校でいじめられる少女。「私は生きたいのよ!」と叫ぶ声が悲惨を極める。これもラストシーンが鮮やか。深刻な問題を抱えても「私は私」というメッセージが込められている。

『ビルーとジョアン』カティア・ルンド監督(ブラジル)

 実はこの作品に期待していた。カティア・ルンド(※カチア・ルンジという表記もある)は『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督)の共同監督を務めた人物。多分この作品も多くの素人を起用していることだろう。躍動的なカメラワークと子供達の逞しい姿は『シティ・オブ・ゴッド』を彷彿とさせる。幼い兄と妹が家計を助けるために空き缶やダンボールを拾い集める。店先や業者とのやり取りは大人顔負け。「フライドポテトは明日買ってあげるよ」という兄の言葉が、未来に向かって生きる二人の姿を象徴している。スラムの後ろに巨大なビル群がそびえ立つ映像も忘れ難い。

『ジョナサン』ジョーダン・スコット&リドリー・スコット監督(イギリス)

 最初の効果音が凄い。お見事。戦場カメラマンが神経症のような症状を発祥する。森で見かけた子供達を追い掛けているうちに、男も少年になっていた。ファンタジックなストーリー。戦場の現実を再確認して、男は再び家に戻る。

『チロ』ステファノ・ヴィネルッソ監督(イタリア)

 少年が自分の影と戯れる最初のシーンが秀逸。大人達の矛盾に戸惑いながらも、少年は逞しく生きる。窃盗という手段で。犬に追い掛けられるシーンは、サブ監督の『ポストマン・ブルース』さながら。綿飴を買うシーンや遊園地の幻想的な場面も巧い。少年が倒れるシーンに至っては詩的ですらある。

『桑桑(ソンソン)と子猫(シャオマオ)』ジョン・ウー(中国)

 裕福な少女と貧しい少女の運命が、美しい人形を介して交錯する。身寄りのない子供達が強制的に花を売らされる。売り上げがなければご飯を食べさせてもらえない。二人の少女も大人のエゴイズムの犠牲者だ。貧しい少女が裕福な少女に花をあげる。限りない豊かさが画面いっぱいに横溢(おういつ)する。

 いずれの作品も『それでも生きる子供たちへ』というタイトルに相応しい内容。随分と長く感じたと思っていたら、何と170分という長尺ものだった。世界の子供達が置かれている現実、そして苛酷さを極めるほど逞しく生きる姿。歳をとって忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバスだ。最後に流れる歌がまた素晴らしい。