2009-03-07

読書という営み/『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬


 20代半ばで読んだ。私は感覚的・感情的・条件反射的な性質が強いこともあって、カルチャーショックを受けた。澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)を「先生」と呼びたくなったほどだ。

 そこに何が書かれているかを要約できなければ、本を読んだことにはならないとした上でこう綴る――

 ラスキンは読書を鶴嘴(つるはし)をふるって金礦(きんこう)を求めゆく坑夫になぞらえております。そして、奥にある金礦に達するためには、外側にある固い鉱石を打ちくだかなければならないと申しております。ともかく、文字という固い、不動なものをつき貫(ぬ)いて、その奥にある動的な、というよりも燃えていると言ったほうがいいと思われる思想そのものをとらえねばならないのです。もしここでさらに別の比喩をもってまいりますなら、書物を読むとは、火山の上に噴き出しているエネルギーそのものを知ることであります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年『「自分で考える」ということ 理性の窓をあけよう』改題角川文庫、1963年/角川文庫、1981年、増補版/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「言葉ではなく意図を、そして意図よりも思想に触れよ」というのだ。私は恥ずかしさを覚える。精神がフリチン状態になったような気分だ。真に正しい意見には人を恥じ入らせる作用がある。

「著者の魂を鷲づかみにして、それを自分の魂に取り入れよ」――澤瀉久敬の轟くような声が私には聞こえる。

2009-03-06

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト その五

 これはランダムウォーク理論といっていいだろう。ランダムとは無作為という意味で、ランダムウォークとは酔っ払いの千鳥足のこと――

 人は、偶然によるできごとがどのようなものであるかについて、間違った直観をもっていることが心理学者によって明らかにされている。たとえば、投げ上げたコインの裏表の出方は、一般に考えられているよりも裏や表が連続しやすい。そこで、裏表が交互に出やすいものだという直観に比べて、真にランダムな系列は、連続が起こりすぎているように見えることになる。コインの表が4回も5回も6回も連続して出ると、コインの裏表がランダムに出ていないように感じてしまう。しかし、コインを20回投げたとき、表が4回連続して出る確率は50%であり、5回連続することも25%の確立で起こりうる。表が6回連続する確率も10%はある。平均的なバスケットボールの選手は、ほぼ50%のショット成功率なので、1試合の間に20本のショットを試みるとすれば(実際、多くの選手はこれくらいショットを試みる)、あたかも「波に乗った」かのように、4本連続や、5本連続、あるいは6本連続でショットを決めるようなことは偶然でも充分起こりうることなのである。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)】

 人間は単調さに耐えられない。変化を好むのが人間の性分だ。例えばこんなことはないだろうか。信号待ちでウインカーを点灯する。カチッカチッとメトロノームのように規則正しい音が鳴る。すると、その音から微妙にずらしたリズムでハンドルを指で弾く。こうして独創的な音楽が誕生する。私の指が単調なリズムを破壊したのだ。

 株価のチャートを見てみよう。これは日経平均の9ヶ月間にわたる日足チャートだ。昨年8月上旬に底を打って揉み合いが続いている。2本の移動平均線を超えれば反転しそうだ。株価は上がるか下がるかのどちらかである。とすると、損得の確率は1/2となる(横ばい、手数料は無視して考える)。つまり、コインの裏表と確率的には一緒なのだ。もっとわかりやすく言おう。コインを放って出た裏表の結果を1と計算してチャートにすれば、株価と同じような山と谷ができるってわけだよ。コインを投げる回数はまったく問題ではない。1日1回だって構わない。それでも、チャートの山が形成される。

 人間は物語なしで生きてゆけない。不幸にも幸福にも物語がある。目に見えない運や不運で説明し、他人の実力を羨み、自分の非力を嘆き、昔よりも今の方がいいとか悪いとか言い募る。

 翻って、動物には固有の人生が存在するのだろうか? あまり考えたことがない。「我が家の犬は幸せだ」と思っている飼い主は多いだろうが、それは一方的な幻想に過ぎない。

 大数の法則が恐ろしいのは、「人間の人生なんて、それほど変わるもんじゃないよ」と我々をたしなめているからだろう。

 それでも人は「自分だけの物語」を生きる。人間は、平均を個性に変える天才だ。



必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人

2009-02-26

豊かな生命力は深い矛盾から生まれる/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男


 ・豊かな生命力は深い矛盾から生まれる
 ・家族の目の前で首を斬り落とされる不可触民
 ・不可触民の少女になされた仕打ち
 ・ガンジーはヒンズー教徒としてカースト制度を肯定

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ
『中国はいかにチベットを侵略したか』マイケル・ダナム

 山際素男を初めて読んだが、この人は文章に独特の臭みがある。漬け物や演歌と似た匂いだ。漢字表記や送り仮名までが匂いを放っている。

 だが、これは名文――

 生命というものは、矛盾(むじゅん)そのものを一瞬一瞬、あわやというところで乗り越え、乗り越え損(そこ)ない、といった際(きわ)どい運動の非連続的連続のくり返しの中に存在するものであろう。
 だから、生命力が豊かだということは、より深い矛盾の中から生れてくるなにものかでなくてはなるまい。

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/知恵の森文庫、2000年)】

 一読後、再びこの文章を目にすると「そいつあ奇麗事が過ぎるんじゃないか?」と思わざるを得ない。多分、インドの豊穣な精神を表現したものだろう。しかしながら、インドが抱えてきたのはカースト制度という「桁外れの矛盾」であった。

 暴力の社会階層化、差別の無限システム――これがカースト制度だ。インドは非暴力の国であり、核を保有する国家でもある。そして中国同様、文化・宗教・言語すら統一されていない巨大な国だ。大き過ぎる危うさを抱えているといってよい。

 山際の文章に何となくイライラさせられるのは、「矛盾を肯定するものわかりのよさ」を感じてしまうためだ。所詮、傍観者であり、旅行者の視線を脱しきれていない。苦悩に喘ぐ人々に寄り添い、同苦し、何らかの行動を起こそうという覚悟が微塵もない。「本を書くためにやってきました」以上である。

 読みながら何度となく、「山際よ、インドの土になれ! 日本に帰ってくるな!」と私は叫んだ。だが私の声は届かない。だって、30年前に出版された本だもんね。

 差別は人を殺す。ルワンダの大量虐殺もそうだった。人類は21世紀になっても尚、差別することをやめようとはしない。きっと差別せざるを得ない遺伝情報があるのだろう。問題は、自由競争のスタート地点で既に厳然たる差別があることだ。

2009-02-21

砂漠の民 ユダヤ人/『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭


 流浪の民ユダヤ人は、砂漠に追放された民でもあった――

「私にとって、砂漠の経験はまことに大きなものでした。空と砂の間、全と無の間で、問いは火を噴いています。それは燃えていますが、しかし燃え尽きはしません。虚無の中で、おのずから燃え立っております。」(「ノマド的エクリチュール」
「おまえはユダヤ人か」という火を噴くような問いを、このように「砂漠」を憶(おも)いつづける自分自身につきつけて思考するのは、エドモン・ジャベス(1912-91)である。エジプトからヨーロッパの大都市パリへ移住してきたこの詩人は、さらにこれにつづけて、「他方で、砂漠の経験は研ぎすまされた聴覚とも関係があります。全身を耳にする経験と言っても差しつかえありません」と言う。ジャベスのこのような「砂漠の経験」の根底には、当然のことながら、追放という濃密なユダヤ性が鳴りひびいている。
 エードゥアルト・フックスによれば、少なくとも1000年間は砂漠の中に暮らしていたというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち早く察知する能力を身につけていた。砂漠の遊牧民だったユダヤ人は、地平線から近づいてくる「生きもの」が獣であるか人間であるかを、そのかすかな音を耳にした途端すでに聞き分け、刻々と変化する危険な事態を乗り切るため、つぎの行動に素早く移行しなくてはならない。こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。

【『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭〈こぎし・あきら〉(岩波新書、1997年)】

 実に味わい深いテキスト。砂漠という空間と、ユダヤ民族という時間が織り成す歴史。

 養老孟司が『「わかる」ことは「かわる」こと』(佐治晴夫共著、河出書房新社)の中で興味深いことを語っている。耳から入る情報は時間的に配列される。つまり、因果関係という物語は耳によって理解される。一方、眼は空間を同時並列で認識する。

 つまり、だ。迫害され続けてきたユダヤ人は、歴史の過程で「強靭な因果」思想を構築したことが考えられる。彼等が生き延びるためにつくった物語はどのようなものだったのだろうか。そこにはきっと、智慧と憎悪がたぎっていることだろう。

 民族が成立するのは、「民族の物語」があるからだ。そして民族は、過去の復讐と未来の栄光を目指して時が熟すのを待つようになる。



穀物メジャーとモンサント社/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
中東が砂漠になった理由/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

2009-02-18

「裸の王様上司」は「ヒラメ部下」によってつくられる


 ・「裸の王様上司」は「ヒラメ部下」によってつくられる

『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン
『隠れた人材価値 高業績を続ける組織の秘密』チャールズ・オライリー、ジェフリー・フェファー

「偉い」ことと「偉そう」なことは意味が違うのに、まつり上げられて、ダメなリーダーになっている上司は多い。だが、上司がダメなのは、実は部下のせいでもあるという……。上司と部下。互いの幸せのため、何を心掛ければいいのか。

【ピープル・ファクター・コンサルティング代表高橋俊介=談
 たかはし・しゅんすけ●1954年生まれ。ワトソンワイアット社代表取締役等を経て独立。個人主導のキャリア開発の第一人者として知られている】

上司がダメなのは半分は部下のせい?

 日本の、特に古い大企業では、部長になり役員になりと、役職が上がれば上がるほど、自分が偉くなったように錯覚して偉そうな行動を取ってしまう人が多い。つまり「偉い」ことと「偉そう」とはまったく意味が違うのに、自分自身がスポイルされ、まつり上げられてダメなリーダーになっていくのである。これは上司本人にも問題があるが、半分は部下のせいでもある。
 では、どのようにすれば、ダメな部下を見抜けるのだろうか。偉そうな上司をつくり上げてしまう部下の典型には、二つのタイプがある。その一つを、テレビのお笑い番組になぞらえてAD(アシスタント・ディレクター)型の部下と呼ぼう。テレビに登場する芸人は、大して面白くなくても、スタジオの観客には受けている。隣でADが手を振って合図をしているからだ。しかし視聴者、つまり顧客からの距離は遠くなるばかりである。
 もう一つのタイプに、ヒラメ型の部下がいる。ヒラメは目が上にしかついていない。だが、実はそればかりでなく、表と裏では色が違う。つまり、自分の利益のために、上司に対する態度を180度変えるのである。
 このような部下に取り囲まれていると、最後には上司は裸の王様にされてしまう。とりわけヒラメ型は、裏で何をするかわからず非常に危険な存在である。なかなか見抜けない点も問題だ。そのため、上司としては、自分に心地よいことばかりを言う部下を集めるのではなく、常に表裏のある人間を見抜く訓練を重ねなくてはならない。

ビジョンを発信すればよい部下が集まる

 逆に、よい部下とは、表裏がなく、自分に気づきを与えてくれる部下、言い換えれば自分を映す「鏡」のように、自分の足りない部分や問題のある部分を跳ね返してくれる部下である。こういう部下を集めることができれば、裸の王様にならずに済む。そのためには、上司ははっきりとしたビジョンを持ち、そのビジョンを周囲に向けて発信することだ。そうすれば、ビジョンに共感する鏡のような部下が一人、また一人と集まってくる。
 また、このときに大切なのは、チームの健全性を保つためには、タイプの異なる部下を組み合わせることである。パーソナリティーの明暗という側面にも注意しなくてはならない。例えば支配欲、影響欲という動機が強い人の場合、それがポジティブに表れれば非常にうまくチームをまとめてくれるが、ネガティブな面が強く出ると、自分の言うことを聞かせるために周囲を怒鳴り散らしたりして、チームの雰囲気を壊してしまう恐れがあるからだ。
 一方、部下の側でいえば、出世するためにはどうすればいいかばかり考えて、上司からの評価を気にしているようではダメである。上司に評価されようとして、評価された人はいない。天職を先に決め、逆算して行動するのではなく、ポリシーを持って自発的に仕事をした人が、その結果として天職にたどりつくものなのだ。
 さらに言えば、もし今の上司が自分を評価してくれないからといって、その上司に迎合してしまったら、本当に自分を評価してくれる上司とは永久に巡り合えなくなってしまう。大きな組織がよいのは、捨てる神あれば拾う神ありという点である。今の神が合わなくても、別の神がいると思って自分のポリシーを貫けば、最後には、そちらのほうが勝ち組になるはずだ。

【『プレジデント』2003年11月3日号】