・神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス
・ウイルスとしての宗教
・進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・キリスト教を知るための書籍
ここにビーカーがある。中には世界が入っている。今から2000年ほど前を境にして、ビーカーの内部は3色に染められた。後世の人々はこれを世界三大宗教と呼んだ。科学的視点とはこういうものだ。客観性に裏打ちされた俯瞰。
で、色が広がる様相をウイルスの猛威に例えることは決して奇想天外のものではない。人々の間で心から心へと伝達や複製をされる情報の基本単位を表す概念をリチャード・ドーキンスは「ミーム」と名づけた。
・ミーム:Wikipedia
過激な保守や革新、原理主義的色彩の強い宗教、短絡的なレイシスト(人種差別主義者)を見ていると、ウイルスという考えが腑に落ちる。ストンと落ちるね。声高な主張はいかなる内容であったとしてもどこか病的だ。彼らの思想は、心を病んだ連中がもたれかかる杖のように映る。
ミームとは多くの人々の脳内情報を書き換えるウイルスと考えればわかりやすい。
これ(※寄生虫にコントロールされるアリ)と似たようなことが、そもそも人間に起こるだろうか。まったくその通り、起こるのである。私たちは、しばしば、人間が自分の個人的な利益や、自分の健康や子どもを持つ機会を顧みず、自分の中に寄宿している【観念】の利益を増加させることに全人生を棒げるのを見る。【イスラーム】というアラビア語は「服従」を意味し、良きイスラム教徒(ムスリム)は皆、証人(あかしびと)となり、1日に5回祈りを捧げ、施しを与え、ラマダンの時間には断食し、メッカへの巡礼の旅をしようと努力する。すべて、アラーという観念のため、そして、アラーの言葉を伝えるマホメットという観念のためである。もちろん、キリスト教徒やユダヤ教徒も、同様のことをする。彼らは、〈御言葉〉を広めるために生涯を捧げ、一つの観念のために多大な犠牲を払い、苦しむこと厭わず、命を危険にさらす。シーク教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒も同じだ。さらに、〈民主主義〉や〈正義〉、さらに明白な〈真理〉のために自らの命を捧げた、何千もの世俗のヒューマニストも忘れてはなるまい。そのために死ねるような観念は、たくさんあるのである。
【『解明される宗教 進化論的アプローチ』ダニエル・C・デネット:阿部文彦訳(青土社、2010年)以下同】
・寄生虫は人間をマインドコントロールするか 英研究
似たような動画があるので紹介しよう。
ゾンビに支配されると長生きできることが前もってわかっていれば、あなたはどうするだろうか? 最近だと少量の放射線が健康にいいという論調もある。免疫学者の藤田紘一郎〈ふじた・こういちろう〉は15年間で6代にわたってサナダムシを飼育している。自分の腸内で。ビフィズス菌になら支配されてもいいよ、俺は。
いずれにせよ人々に犠牲を命ずる思想は、「人間を手段化する」と考えてよろしい。必ずプロクルステスのベッドみたいな状況が出てくる。ほんの少しでも殉教を美化する宗教は危険だ。
観念というものは、どのようにして心によって創造されるのだろうか。奇跡的な霊感(インスピレーション)によってかもしれないし、もっと自然な手段によってかもしれないが、いずれにせよ、様々な観念は、心から心へと広がり、異なる言語間の翻訳で生き残り、歌や聖像や彫像や儀式に乗ってヒッチハイクし、特別な人々の頭の中で思いがけない結合状態を作り出す。この結合状態において、観念は、自らを刺激した諸観念と親和的類似性を持つことによって、しかしまた、新しい特徴と前進する新しい力を持つことによって、さらに新しい「創造」を成し遂げる。
社会も脳もネットワークで構成されている。システムの変更には必ずフィードバックを伴う。つまり現実との双方向性の中で観念は構築されるのだ。インスピレーションは無意識領域から湧くものだ。何かと何かがつながる瞬間であり、それ自体が新たなネットワークと化す。流行が受け入れられるのは、それだけ同じ無意識領域を共有している人が多いことを示している。
ダニエル・C・デネットはアメリカの哲学者なので、キリスト教を俎上(そじょう)に乗せていると考えられる。だが、鋭い切っ先は全ての宗教が受け止めなくてはならない。
では宗教をどのように定義するのか?
さらに言えば、定義というものは修正を受けるものであり、それは出発点であって、石に深く刻まれたもののように消滅の危険から守られているものではない。先の定義に従えば、エルヴィス・プレスリー・ファンクラブは宗教ではない。なぜなら、そのメンバーは確かにエルヴィスを【崇拝している】かもしれないが、エルヴィスを文字通り超自然的なものとは考えてはおらず、とりわけすばらしい人間だったと考えているからである(そしてもしも、エルヴィスは真に不死なるもの、神的なものであると判断するファンクラブが現れるなら、その時には、そのファンクラブはまさに新しい宗教への歩みをはじめたことになる)。
「永遠なるものへの崇拝が宗教である」と。上手い。論理を超越した非科学性に額づかせるのが宗教の仕事だ。「黙って私についてきなさい」と。で、ついてゆくと、そこには募金箱があるという寸法だ。
人間が有限性を自覚した時、神が誕生したのだろう。神は不老不死であり、永遠を体現している。だが永遠というものは概念であって実体はない。無限の数と一緒で、数える人がいなくなった時点で永遠の息の根は絶たれる。っていうか、時間そのものが概念なのだ。
・月並会第1回 「時間」その一
第一の呪縛(スペル)――タブー――と、第二の呪縛――宗教それ自身――は、たがいに結びつき、奇妙な合体状態を形成している。宗教の持つ強さの【一部】は――おそらく――タブーによる庇護であるかもしれない。
これまた見事な指摘である。「タブーによる庇護」と。どんな教団でも神聖さを冒すような質問は許されない。神への冒涜は信仰者が最も恐れる罪状だ。
誰でも聖書を引用して、どんなことでも示すことができるが、だからこそ、自信過剰を憂慮すべきなのだ。
あなたは今まで、【自分が間違っていたらどうなるのだろう】と自問したことがあるだろうか? もちろん、あなたのまわりにはあなたの確信を共有しているたくさんの仲間たちがいるだろう。これが責任の所在を分散し――そして、悲しいことに、責任を軽くしている。だから、これからあなたが後悔の言葉を口にする機会があっても、簡単に言い訳をすることができるだろう。自分は狂信者たちに引きずられていただけだ、と。しかし、あなたは、悩ましい事実にきっと気づいていたはずだ。歴史は、お互いに扇動し合って破滅への道を突き進んだ勘違いしたら大集団のたくさんの実例を、教えてくれる。あなたはそのような集団に属しているのではないと、どうして確信を持って言うことができるのだろうか? 私個人としては、あなたの信仰に畏敬の念を抱いてはいない。私は、あなたの傲慢さに、すべての答えを知っているという無責任な確信に、本当に驚かされる。〈終わりの時〉を信じる人々は、この本を読み通す知的な誠実さや勇気を持てるだろうか?
アメリカは世界でも珍しい宗教風土で、科学が否定された中世的な色彩が濃い。例えば日本では公開されていないが、こんな映画もある。
・映画『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』
虐待に等しい洗脳教育をされた挙げ句に、幼い子供たちが喜悦の涙で頬を濡らしている。これほど醜悪な映像もあるまい。閉ざされた環境におかれると人間は簡単にコントロールされる。
宗教とは確信の異名でもあろう。そこに懐疑が入り込む余地はない。信仰という情念が知性を封ずる。
更にいえば、教義の絶対性に依存することで、宗教者は自我の脆(もろ)さを補完していると考えることができよう。
本のつくりが素晴らしく青土社(せいどしゃ)の気合いが伝わってくる。後半はやや失速しているが、十分お釣りがくる内容だ。
・宗教とは何か?
・キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
・デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
・読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
・人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄
・寄生生物は人間を操作し政治や宗教にまで影響を及ぼす/『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
・昆虫を入水(じゅすい)自殺させる寄生虫/『したたかな寄生 脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』成田聡子