2011-06-14
吉村昭
1冊挫折。
挫折27『高熱隧道』吉村昭(新潮社、1967年/新潮文庫、1975年)/「こうねつずいどう」と読む。文章のリズムが合わなかった。事実の羅列が長すぎて、私の脳にスッと入ってこなかった。黒部ダムを築いた人柱を描いた小説だ。電力と国策に興味がある人は必読のこと。
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
ツイッターにブロック機能というのがある。フォローされた相手のタイムラインに自分の投稿が表示されなくなるというもの。
そもそもツイッターとは、呟(つぶや)き、囀(さえず)りといった意味合いなので独り言が基本である。だが妙な絡み方をする輩が必ず出てくる。目の前にいれば2~3発殴ってやれば済むのだが、光回線越しだとそうもいかない。
だから私はどんどんブロックする。流れてきたリツイートやtogetterなどで癇に障る文章を見たら、片っ端からブロックする。後で間違えてフォローすることがないように先手を打っているのだ。
大体、インターネット上にいる大半の人はまともではない。頭がおかしいというよりも、コミュニケーションスキルがなさすぎるのだ。文脈を無視して、つまらない印象を書いている人が目立つ。
数年前からブログが大流行したが、読むに値するものは十に一つもないだろう。日記の類いが一番多いと思われるが、はっきり言って個人の日常に対して一片の興味も覚えない。
次にこれは私も含まれるのだが、政治テーマや社会問題に対する意見・主張・文句・呪詛(じゅそ)がある。日本は民主主義国家なので、いくら首相を口汚く罵っても逮捕されることがない。ただし天皇の悪口を言うと右翼から襲われる可能性がある。
我が国の民主主義は投票制度を意味するものであって民主的な合意形成とは無縁だ。私は既に半世紀近く生きているが、政治家から政治的な意見を求められたことが一度もない。我々は投票率や世論調査のパーセンテージを支える存在であっても政治の主体者ではない。
政治制度の理論はどうでもいい。それよりも議院内閣制に国民の声が反映されていない事実を自覚すべきだ。福島の原発事故はその実態を白日の下にさらけ出した。
そもそも政党政治である以上、選挙による政策の選択肢は限られている。原子力発電所の右側に保守、左側に革新勢力が鎮座している。国家権力があって、権力を牛耳る連中がいるゆえ、左右という政治ポジションが消えることは考えにくい。
ま、こんなことをダラダラと書くこと自体、あまり意味のあることではない。それでも尚、私は何か言わずにはいられないし、書かずにはいられない。
現代のもっとも大きな詐欺の一つは、ごく平凡な人に何か言うべきことがあると信じさせたことである。(ヴォランスキー)
【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル:吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】
E・H・カーが近代以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」としている(『歴史とは何か』)。驚くべき指摘だ。
つまり、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)と言うまで、民衆に自我は存在しなかったのだ。近代の扉は「我」の発明によって開かれた。
では私の意見を吟味してみよう。果たして本当に私の意見なのだろうか? 政治的な主張は田原総一朗の受け売りかもしれないし、人生の態度を説く場合はブッダやクリシュナムルティをパクっている可能性が高い(笑)。
私はメディアからの情報に反応し、本を読んでは影響を受け、自分の感受性に適合した何かを編んでいるだけであろう。たとえ涙こらえて編んだセーターであったにせよ、毛糸を作ったのは他の誰かだ。
私は私の権利を主張する。これが人権感覚の基本となる。私が大事であればこそ、見知らぬ誰かも大切な存在と受け止めることができる。
でもさ、本当はただの化学反応かもしれないね。
・速く:A Time Lapse Journey Through Japan
この動画を観ると人間がアリと変わらないように思えてくる。
悩みや苦しみは多くの場合、社会的な関係性から生じる。現実的に考えれば、痛みや疲労を大声で訴えないと群れから置いてけぼりを食らう。周囲からの配慮がなければ自我は保てない。
ネット上の人々を私が蔑んでいるように、政治家も私を見下しているはずだ。
民主主義の正体はひとかどの意見を言うことで、何かを成し遂げたと錯覚することなのだろう。
・ロラン・トポール「知性は才能の白い杖である」/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
・毒舌というスパイス/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
・フェミニズムへのしなやかな眼差し/『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー ・属人主義と属事主義/『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一
・目的や行為は集団に支配される
・Mercedes Sosa - Todo cambia
・犬のパンセ
・非難されない人間はいない/『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
料理進化論/『火の賜物 ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム
ヒトとサルを分けるものは何か? 「服を着ているかいないかの違いだな」。確かに。「美容院にも行かないわね」。その口で美容を語らないでもらいたい。「タイムカードも押さないよな」。彼らの方が幸せなのかもしれない。
ま、一般的には二足歩行・道具の使用(厳密には道具の加工製作)・火の使用・言語によるコミュニケーションといわれる。身体的な特徴としては何といっても「巨大な脳」である。二足歩行であるにもかかわらず、最も重い頭が一番上に位置している。
脳は体重の2%ほどの重さしかないにもかかわらず、全体の20~25%ものエネルギーを消費する。他の霊長類では8~10%、哺乳類では3~5%にすぎない(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。
このため人間は高カロリーの食べ物を必要とした。それが「肉」である。ま、よく知られた話だ。リチャード・ランガムはもう一歩踏み込む。
本書において私は新しい答えを示す。すなわち、生命の長い歴史のなかでも特筆すべき“変移”であるホモ属(ヒト属)の出現をうながしたのは、火の使用料理の発明だった。料理は食物の価値を高め、私たちの体、脳、時間の使い方、社会生活を変化させた。私たちを外部エネルギーの消費者に変えた。そうして燃料に依存する、自然との新しい関係を持つ生命体が登場したのだ。
【『火の賜物 ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2010年)以下同】
つまり調理によってエネルギー摂取が劇的に高まるというのだ。実に斬新な視点である。生で食べると大半の栄養は吸収されないとのこと。そう考えると、案外「加工」にヒトの本質があるような気がする。
変異の最初のシグナルは260万年前に見られる。エチオピアの岩から掘り出された鋭い石片で、丸い石を意図的に打ち削って道具にしたものだ。そういう単純なナイフを使って、死んだレイヨウから舌を切り取ったり、動物の肢の腱を切って肉を取ったりしていたことが、化石の骨についた傷からわかった。
人類最初のテクノロジーは小さな斧だった。たぶん黒曜石のような石を使ったのだろう。もちろん武器にもなった。
したがって、私たちの起源に対する問いは、アウソトラロピテクスからホモ・エレクトスを発生させた力は何かということになる。人類学者はその答えを知っている。1950年代以降もっとも支持されてきた学説によると、そこに働いた唯一の力は“肉食”である。
結局のところ、二足歩行・道具の使用・火の使用は脳の巨大化に直結している。肉と脳。肉欲だ(笑)。
料理した食物は生のものより消化しやすいのだ。牛、羊、子豚などの家畜は、調理したものを与えるとより早く育つ。
ってことはだよ、本来なら調理することで人間は少ない食べ物で生きることが可能になったはずだ。エネルギー効率が上がるわけだから。発達した脳は農耕を可能にした。更に牧畜や漁業で計画的に食料を確保できるようになった。にもかかわらず我々は貪欲に地球を食い尽くそうとしている。
結果はどちらのグループでもほぼ同じだった。料理した卵の場合には、タンパク質の消化率は平均91パーセントから94パーセントだった。この高い数値は卵のタンパク質が食物としてすぐれていることから当然予測できる。しかし、回腸造瘻術の患者について、生の卵の消化率を測定すると、わずか51パーセントしかなかった。
回腸造瘻術とは、癌患者が小腸の一部に穴を開けて老廃物を排出させるもの。消化のメカニズムは複雑で奥が深い。
着想は素晴らしいのだが本の構成が悪い。もうちょっと何とかならなかったのかなあ、というのが率直な感想だ。
・『イーリアス』に意識はなかった/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・野菜の栄養素が激減している/『その調理、9割の栄養捨ててます!』東京慈恵会医科大学附属病院栄養部監修
2011-06-13
フランク・シェッツィング
1冊挫折。
挫折26『深海のYrr(イール) 上』フランク・シェッツィング/北川和代訳(ハヤカワ文庫、2008年)/120ページほどで止める。クライブ・カッスラーのダーク・ピット・シリーズと似た作風だ。エンタテイメント色が強すぎて好みではない。それでも翻訳がよくてスイスイ読める。巻末見返しに著者近影が掲載されているが、見るからにナルシストっぽい。登場人物の造形も鼻につく。致命的なのは、自己鏡像認知が可能なのは「チンパンジーとオランウータンだけ」(116ページ)としているところ。直前に象はできないと書いてあるが、これは完全な誤り。他の記述も眉に唾したくなる。
投げやりな介護/ブログ「フンコロガシの詩」
妙なブログを見つけた。明らかに変だ。
・フンコロガシの詩
まず書き手の性別がわからなかった。で、古い記事を最初から辿ると、要介護者である父親は投資詐欺に引っ掛かっていた(5400万円!)。介護と詐欺被害が奏でる二重奏は、スキー場で骨折した直後、雪崩(なだれ)に襲われたも同然だ。あまりにも気の毒で、「気の毒」と書くことすらはばかられる。
何の気なしに読み進むと更なる違和感を覚える。軽妙な筆致と投げやりな態度に。「ったく、面倒くせーなー」オーラが全開なのだ。
介護は介が「たすける」で、護は「まもる」の謂いである。そして実はここに落とし穴があるのだ。人は弱者を前にすると善人を気取りたくなる。障害を「障がい」と書こうが、個性だと主張しようが、弱者であるという事実は1センチたりとも動かない。
どんな世界にも論じることが好きな連中がいるものだ。実際に介護をする身からすれば、オムツ交換を手伝ってもらった方がはるかに助かる。
この書き手は善人ぶらない。それどころか偽悪的ですらある。認知症はわかりやすくいえば「自我が崩壊する」脳疾患といってよい。じわじわと本人の記憶が侵食され、溶け出してゆく。介護は労多くして報われることが少なくなってゆく。
多くのケースだと、親身になりすぎて介護者が音(ね)を上げてしまう。「ここまで一生懸命尽くしているのに……」となりがちだ。
ところがどっこい、藤野ともねは「投げやりな態度」で一定の距離感を保っているのだ。ここ重要。星一徹は一方的に息子の飛雄馬(ひゅうま)を鍛えたが、これを介護とは呼ばない(←当たり前だ!)。介護者から要介護者への一方通行では関係性が成立しないのだ。相手に敬意を払うのであれば、たとえ寝たきりで閉じ込め症候群(locked-in syndrome)になったとしても、反応を確かめる必要がある。
反応を確かめるわけだから、近づきすぎることなく適当な距離感が求められる。この距離感を藤野は「投げやりな態度」で表現しているのだ。
ブログが書籍化されるようなんで一丁読んでみるか。
【※本が上梓されることとなったので、敢えて敬称を略した】
・頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね
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