・ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった
・数の概念
・太陽暦と幾何学を発明したエジプト人
・ピュタゴラスにとって音楽を奏でるのは数学的な行為だった
・ゼロから無限が生まれた
・パスカルの賭け
・『宇宙を復号(デコード)する 量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』チャールズ・サイフェ
数字のゼロはバビロニアで生まれ、インドで育った。ゼロは西洋で嫌悪され、東洋で大切に扱われた。そしてキリスト教がゼロを亡き者にし、仏教がゼロに魂を吹き込んだ。
バビロニアの天文学とともにバビロニアの数ももたらされた。天文学上の目的でギリシア人は六十進法の数体系を採用し、1時間を60分に、また1分を60秒に分けた。紀元前500年頃、バビロニアの文献に空位を表すものとしてゼロが現れはじめた。当然、ゼロはギリシアの天文学界にも広まった。(中略)ギリシア人はゼロを好まず、使うのをできるだけ避けた。
【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)以下同】
バビロニアのゼロは空位を示すだけのものであった。計算に用いられることはなかった。ギリシア人はなぜゼロを嫌ったのか?
無限と空虚には、ギリシアを恐れさせる力があった。無限は、あらゆる運動を不可能にする恐れがあったし、無は、小さな宇宙を1000個もの破片に砕け散らせる恐れがあった。ギリシア哲学は、ゼロを斥けることによって、自らの宇宙観に2000年にわたって生きつづける永続性を与えた。
ピュタゴラスの教義は西洋哲学の中心となった。それは、宇宙全体が比と形に支配されているというものだった。惑星は、回転しながら音楽を奏でる天球の一部として動いているのだった。だが、天球のむこうには何があるのか。さらに大きな天球があり、そのまたむこうにはさらに大きな天球があるのか。いちばん外の天球は宇宙の果てなのか。アリストテレスやその後の哲学者たちは、無限の数の天球が入れ子状になっているはずはないと主張した。この哲学を採用した西洋世界に、無限を受け入れる余地はなかった。西洋人は無限を徹底的に排除した。というのも、無限はすでに西洋思想の根元を蝕みはじめていたからだ。それはゼノンのせいだった。同時代人から西洋世界でもっとも厄介な人物と見なされていた哲学者だ。
ギリシアは無限を嫌ったのだ。気持はわかる。無限は想像することを拒み、人間をどこまでも卑小にする。ま、底なし沼みたいなものだ。ギリシアの理性は「万物のアルケー」から始まっているから無限とは相性が悪い。そこでゼノンがちょっかいを出した。
ギリシア人はこの問題に悩んだが、その根源を探り当てた。それは無限だった。ゼノンのパラドクスの核心にあるのは無限である。ゼノンは連続的な運動を無限の数の小さなステップに分割したのだ。ステップが無限にあるから、ステップが小さくなっていっても、競争はいつまでもつづくのだとギリシア人は考えた。競争は有限の時間のうちには終わらない――そうギリシア人は考えた。古代人には無限を扱う道具がなかったが、現代の数学者は無限を扱うすべを身につけている。無限は注意深く処理しなければならないが、征服できる。ゼロの助けを借りれば。2400年分の数学で武装した私たちにとって、振り返って、ゼノンのアキレス腱を見つけるのはむずかしくはない。
永遠の向こう側にある無限ではなく、0と1の間にある細分化された無限だ。アキレスは亀に追いつくことができない。
ギリシア人はこのちょっとした数学上の芸当をやってみせることができなかった。ゼロを受け入れなかったため、極限の概念をもっていなかった。無限数列の項には極限も目的地もなかった。終点もなく小さくなっていくように思われた。その結果、ギリシア人は無限なるものを扱うことができなかった。無の概念について思索はしたが、数としてのゼロは斥けた。そして、無限なるものの概念を弄んだが、数の領域の近辺のどこにも無限――無限に小さい数と無限に大きい数――を受け入れようとしなかった。これはギリシア数学最大の失敗であり、ギリシア人が微積分を発見できなかったただ一つの理由だった。
無限、ゼロ、極限の概念はすべて結びついて一束になっている。ギリシアの哲学者は、その束をほぐすことができなかった。そのため、ゼノンの難問を解くすべがなかった。だが、ゼノンのパラドクスはあまりにも強力だったので、ギリシア人は、ゼノンの無限を説明して片づけてしまおうと繰り返し試みた。しかし、妥当な概念で武装していなかったので、失敗する運命にあった。
当時の数学は宗教と密接に結びついていた。それを踏まえると思想的影響の大きさが窺い知れよう。ゼノンはエレアの圧政者ネアルコスを打ち倒そうと武器を密輸していた。これが発覚し逮捕、拷問。ネアルコスに共謀者の名前を告げるふりをして耳に噛み付いた。ゼノンは撲殺されるまで口を開かなかった。
5世紀頃、インドの数学者は数体系を変えた。ギリシア式からバビロニア式に切り換えたのだ。新しいインドの数体系とバビロニア式との重要な違いの一つは、インドの数が60ではなく10を底としていたことだ。私たちの数字は、インド人が用いた記号が発展したものだ。だから本来、アラビア数字ではなくインド数字と呼ばれるべきである。
アラビア経由でヨーロッパに伝わったため、アラビア数字という名称がついた。
インド人にとっては、負の数は文句なしに意味をなした。負の数がはじめて姿を表したのは、インド(および中国)だ。7世紀のインドの数学者、ブラフマグプタは、数を割る規則を述べ、そこに負の数も含めた。「正の数を正の数で割っても、負の数を負の数で割っても、正である。正の数を負の数で割ると、負である。負の数を正の数で割ると、負である」と書いた。これらは今日認められている規則だ。二つの数の符号が同じなら、一方をもう一方で割ると、答えは正である。
負の数は理解しやすい。借金がそうだ。返すことでゼロになるわけだから、マイナスの概念は腑に落ちる。ブラフマグプタはゼロに魂を吹き込んだ。
ブラフマグプタは、0÷0は0だと考えた(後で見るように、これは間違っている)。そして、1÷0は……何だと考えたのか、実はわからない。何しろ、ブラフマグプタの言っていることは大した意味がないから。要するに、ブラフマグプタは、手を振って、問題が消え去ってくれるよう願っていたのだ。
ブラフマグプタの誤りは、それほど長続きはしなかった。やがてインド人は、1÷0が無限大であることに気づいた。「ゼロを分母とする分数は、無限量と名づけられる」と、12世紀のインドの数学者、バスカラは書いている。バスカラは1÷0に数を加えると、どうなるかを語っている。「多くを足しても引いても、何の変化もない。無限にして不変の神のなかでは何の変化も起こらない」
神は見いだされた。無限大のなかに。そしてゼロのなかに。
よき問いはよき答えそのものだ。偉大なる問いが人類の知性を開拓してきた。ゼロは無限に変貌した。100という数字の00は、99.999……を示している。おわかりだろうか? 小数点以下の999……が無限に続いているのだ。ゼロは無であると同時に無限となった。それはそのまま「空」(くう)の概念をも意味した。
・数字のゼロが持つ意味/『人間ブッダ』田上太秀
アリストテレスはまだ教会をしっかり支配していて、どんなに優れた思想家も、無限に大きなもの、無限に小さなもの、無を斥けた。13世紀に十字軍が終わっても、聖トマス・アクイナスは、神が無限なるものをつくるなどというのは、学のある馬をつくるようなもので、そんなことはありえないと言い放った。しかし、だからといって、神が全能でないわけではなかった。神が全能でないという考えは、キリスト教神学で御法度だった。
西洋で無限が認められるのは神だけであった。キリスト教は啓典宗教なのでテキスト絶対主義である。断固たる教条主義であり、神以外の権威を認めない。ゼロを否定したせいで、西洋の学問は大幅に後(おく)れを取る。元々十字軍(1096年)以前は中東の方が先進的であった。
教会はさらに数百年アリストテレスにしがみつきつづけるのだが、アリストテレスの没落と、無と無限の台頭は明らかにはじまっていた。ゼロが西洋世界に到来するのに好都合な時代だった。12世紀半ば、アルフワリズミの Al-jabr の最初の翻訳がスペイン、イングランド、ヨーロッパのその他の地域に入ってきていた。ゼロは迫ってきていたのであり、教会がアリストテレス哲学の足かせを断ち切るとすぐに登場した。
つまり端的にいってしまえば、教会とアリストテレスが西洋世界を作り上げたわけだ。数学世界ではゼロが風穴を開けたわけだが、今も尚両者の呪縛は随所に見られる。2000年に及ぶ緊縛プレイだ。
ゼロは無限だ。だから資産がゼロでも嘆くな。
・ゼロ