2011-07-08
ジョルジュ・ヴォランスキー、松本史朗
2冊挫折。
挫折38『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー:萩原葉〈はぎわら・よう〉訳(講談社、1981年)/著者はフランス風刺漫画の第一人者。『世界毒舌大辞典』で知った。夫婦生活を飄々と軽妙な筆致で綴っている。エッセイとしてはかなり秀逸なのだが、如何せん48歳にもなると他人の股ぐらに興味が湧かない。少ない線で描かれたイラストも素晴らしい。若い人にオススメ。
挫折39『仏教への道』松本史朗〈まつもと・しろう〉(東京選書、1993年)/視野が狭くて面白くない。細分化された学問領域は知的跳躍を欠く。時間論、存在論、情報論として思想を深めなければ宗教の意味はない。ま、有り体にいえばタコツボ教学の類いだ。狭い場所で行われる細かい勝負。宗教者は科学者に向かって、科学者は宗教者に向かって話しかけるべきだ。
我々は自分が想像したもの、そして相手から想像されたものとして存在している
我々はみな、ひとりひとりが、自分が自分のあり方として想像したもの、そして相手から想像されたものとして存在している。回想の中で記憶はふたつの異なる道筋をたどる。ひとつは他者が想像したものに合わせて人生がかたちづくられるとき、もうひとつは自由に自分の姿を決められるはるかに個人的な時間だ。
【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ:柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】
2011-07-07
頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね
介護とはコミュニケーションだ。健常者が要介護者の世話をする作業に限定すると、介護はたちまち厄介な仕事となる。生老病死(しょうろうびょうし)は誰人も避けられない。人生とは死にゆく過程である。介護とは目の前の生老病死を受容する営みであり、一つのコミュニケーション・スタイルなのだ。これは教育も同様である。
本書は藤野ともねのブログ「フンコロガシの詩」を書籍化したもの。まず本の作りがよい。絶妙な構成で内容を引き立てている。奥付を見ると梅澤衛という人物がプロデュースしているようだ。イラスト、レイアウト、フォントの色に至るまで目が行き届いている。
藤野の父親は初期の認知症と思われるが、要介護度が低ければ介護は楽というものではない。むしろ動ける状態が仇(あだ)となる。徘徊や火の始末など。つまりそれぞれの要介護度に応じた苦労が伴う。
もしも自分の親は元気だから介護に興味がない、うちには子供がいないから教育問題とは縁がないという人がいたとすれば、貧しい人生を送っている証拠といえる。他者への共感を欠いた生き方が人生を灰色に染めてゆくことだろう。人生における選択とは、常に「もしも」という事態を想定することで判断可能となるのだ。
笑えるエピソードの合間に著者はしっかりと介護で得た知恵を盛り込んでいる。
何となく会話がかみ合わない、冷蔵庫の中に同じものが買ってある。そのくせ私が作った惣菜には手をつけずに腐らせるなど、(以下略)
【『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね(シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年)以下同】
病気には必ず何らかの兆候がある。早期発見が急所だ。
周囲の認知症の高齢者を見ていると、「お菓子をやたら買い込む」という行動はかなり重要な初期サインだと気づかされる。ポイントは「甘いものが以前より好きになる」「大人買いする」ということだ。味覚が変わるのは認知症の初期症状で、最初に酸っぱいモノがダメになり、甘さを感じる味覚は最後まで残るらしい。
これは知らなかった。一般的には耳が遠くなる。聞こえていないのに聞こえたふりをする。「はい」ばかりで、「ノー」の意思表示をしなくなる。そして段々と話をしなくなる。
認知症はまず家族の前で症状が出始める。不思議なことだがお客さんや見知らぬ人の前では出ない。だから、どんどんデイサービスなどを利用すればよい。ところが一昔前まではこうした事実が知られておらず、家族の恥と受け止め、外へ出すことを恐れる家が多かった。これが認知症を悪化させた。
皮膚感覚ではないが、皮膚の表面の状態については私なりの考察がある。それはこうだ。親父を含め周りの高齢者を見ていて、「あるとき」からイキナリ、肌がキレイになることに気がついた。その「あるとき」とは、認知症が始まったときである。
これも初耳だ。とすると、認知症はホルモンと関連性があるのかもしれない。
親父は背が縮み、今や私のほうが10センチ以上は高いので、まるで傷ついた少年兵に肩を貸す三等兵みたいだ。
まったく侮れない文章だ。小田嶋隆の「私の祈りは空しく、努力は報われず、私のささやかな願いは線路工夫の口笛のように風の中に消えてしまった」(『我が心はICにあらず』)という文章を思い出した。
藤野は「頑張らない介護」を目指し、「笑いのツボ」を見つけることに執念を燃やす。何が何でも笑い飛ばしてやろうという意気込みが素晴らしい。笑うことは突き放すことだ。知的に客観視することで笑いは生まれるのだ。この距離感を維持することで藤野は精神のバランスをコントロールしている。やや大袈裟にいってしまえば、惨めな介護を笑える介護へと革命したのだ。やはり心の向きが大切だ。
ブログでは冒頭に書かれていた投資詐欺事件が本書の最後で紹介されている。これはさすがに「笑えない」話だ。藤野の父親は全財産の5400万円を投資会社に預けてしまった。で、案の定、この会社は破綻した。「グローバル・パートナー」(その後ベストパートナーに社名変更。神崎勝会長)という会社だ。
産経ニュースによれば、「約970人の高齢者を中心とした顧客から約91億円をだまし取った」とのこと(2011年1月14日)。この手の犯罪に関して政治家や金融機関が熱意を発揮したことはない。
藤野は刑事告訴の用意をした。
(※4カ月近く待たされた後)「もうすぐ時効だし、こんな人はいっぱいいるんですよね」ということで、告訴状を受け取ることさえしなかった。
これが警察窓口の対応だった。桶川ストーカー事件から何も変わっていないようだ。
・腐敗しきった警察組織/『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔
高齢者を取り巻く社会情況はかくも厳しい。それでも藤野はめげない。
尚、実は秀逸なセンスが散りばめられている。大野一雄、マディ・ウォーターズ「マニッシュ・ボーイ」を取り上げ、楳図かずお著『アゲイン』が出てくるに至っては心底驚いた。私が小学生の時、立ち読みしていて笑いが止まらなくなったマンガ作品だ。
ブログの性質上致し方ないとは思うが、藤野のプライベートが書かれていないため、介護の背景が薄くなってしまっているのが残念なところ。それでも「転ばぬ先の杖」としては十分に有用だ。
・認知症の生々しい描写/『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人
・『もっと!らくらく動作介助マニュアル 寝返りからトランスファーまで』中村恵子監修、山本康稔、佐々木良(医学書院、2005年)
・オムツにしない工夫こそが介護/『老人介護 常識の誤り』三好春樹
・年をとると個性が煮つまる/『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹
・ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠
・赤ちゃん言葉はメロディ志向~介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン
・ケアとは「時間をあげる」こと
2011-07-06
ガロア
・ピュタゴラスは鍛冶屋で和音を発見した
・ソフィー・ジェルマン
・川の長さは直線距離×3.14
・ピタゴラスの定理
・ピタゴラスの証明は二重の意味で重要だった
・図書室の一冊の雑誌をめぐる偶然の出会いが数学史を変えた
・ガロア
数学に対するガロアの情熱は、まもなく教師たちの手に余るようになった。そこで彼は、当時の大数学者による最新の書物からじかに学びはじめた。ガロアはどんなに複雑な概念でもスポンジのように吸収し、17歳にして『ジェルゴンヌ数学年報』に処女論文を発表するまでになった。神童の前途は洋々として見えた。だが、カミソリのように研ぎ澄まされたその頭脳こそが、ガロアの行く手をさえぎる最大の障壁となったのである。彼の数学の知識をもってすれば、高等中学の試験ぐらいはわけなく合格できただろう。しかし彼の解法はときとしてあまりにも革新的で洗練されすぎていたため、試験官には理解できなかったのである。さらに悪いことに、ガロアは多くの計算を暗算ですませ、論証のプロセスをいちいち書こうとはしなかった。それが無能な試験官たちをいっそういらだたせることになった。
しかもこの若き天才は、短気なうえに無分別ときていた。
【『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン:青木薫訳(新潮社、2000年/新潮文庫、2006年)】
・エヴァリスト・ガロア
・ガロアの生涯
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