2011-07-12
柳川喜郎
1冊読了。
47冊目『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎〈やながわ・よしろう〉(岩波書店、2009年)/著者は岐阜県御嵩(みたけ)町の町長を務めた人物で元NHK記者。タイトルからしてクライマックスで襲われるのかと思いきや冒頭に襲撃シーンが。産廃を見直す発言をした柳川に二人の暴漢が襲い掛かり滅多打ちにする。頭蓋骨陥没、右上腕は直角に骨折していた。瀕死の重傷。プロの手口だった。ここから柳川の本当の戦いが始まる。相手は産廃業者の寿和(としわ)工業(韓鳳道〈清水正靖〉会長、当時)と産廃設置を推進しようとする岐阜県&梶原拓知事(当時)、それに暴力団だ。小さな町だからこそ、この国の政治情況が縮図となっている。電話を盗聴され、地元ミニ新聞から攻撃され、岐阜県から圧力を掛けられても、柳川は屈しなかった。本書の中心テーマは住民投票と住民自治である。柳川は自らが犠牲となって民主主義に魂を吹き込んだ。梶原拓知事の意向があったのか、警察は襲撃事件すらまともな捜査を行わなかったことが後に判明する。都道府県が官僚となって市町村の足を引っ張っていることがよく理解できる。産廃を取り巻く闇の深さに圧倒される。
宗教団体法の原型となった「宗教法案」
宗教団体法の原型となった「宗教法案」が最初に登場したのは、明治22年(1889年)のことだった。第14回帝国議会に提出されたもので、時の総理・山県有朋は次のように法案の提出理由を述べている。
「国家ハ信仰ノ内部二立入テ干渉セザルコトハ勿論ノコトデアリマス。併シナガラ其ノ外部二現ハルル所ノ行為ニツキマシテハ……国家ハ之ヲ監督シテ社会ノ秩序安寧ヲ妨ゲズ、又臣民ノ義務二背カザラシメントスルコトハ、是レ国家ノ義務デアルノミナラズ、又其ノ職責二属スルモノト存ジマス」
と述べ、続いて提出理由は宗教団体への恩典の数々を並びたてた内容だった。「兵役の特典」「租税の免除」等々。要するに、監督管理する代わりに、特典が与えられるアメとムチが中身だった。
【『ルポ・宗教 横山真佳報道集 1』横山真佳〈よこやま・みちよし〉(東方出版、2000年)】
2011-07-11
律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅/『孟嘗君』宮城谷昌光
・『管仲』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・大いなる人物の大いなる物語
・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
・孫子の兵法
・田文の光彩に満ちた春秋
・枢軸時代の息吹き
・『長城のかげ』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
風洪(ふうこう)と公孫鞅(こうそんおう)は行動を共にする。やがて、それぞれが進む道へと分かれてゆく。人生の転機は出会いによってもたらされ、鮮やかなアクセントをつけて調子を変える。
いかなる人物とどのように出会うか――そこに人生の縮図が表れる。
人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
寿洋(じゅよう)の目が少年のようだ、と風洪(ふうこう)が感じたのは、寿洋という商人が少年の純粋さをもちつづけてきたということであろうが、寿洋の心が商略という腥風(せいふう)の吹きすさぶ道を歩いてきたにもかかわらず、汚れなかったということであり、さらにいえば、かれを襲った不幸をはねかえし、かれを浸(ひた)した幸福におぼれなかったということでもあり、そのことはとりもなおさず、常人ばなれのした信念があるということである。
風洪はそう考えた。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
人に噂はつきものである。しかし噂には責任が伴わない。又聞きも多く、熟慮や吟味を欠く。相手を見つめるのは「自分という鏡」だ。要らぬ先入観や勝手な思惑があれば、映像は歪んでしまう。
寿洋という商人がひとすじなわでないことくらい、風洪にもよくわかる。
──が、あの老人は、善人だ。
と、心のなかで断定した。その人をみきわめるには、初対面こそがもっとも重要である、と風洪はおもっている。その点、寿洋という老人は素直に心にはいってきた。
・ひらめき=適応性無意識/『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル
パッと見た瞬間、生命(いのち)から滲み出る何かがある。それは匂いに近いものだ。繕(つくろ)えば、その繕い方から性根が垣間見える。威儀や振る舞いから伝わるものは多い。
公孫鞅(こうそんおう)は風洪(ふうこう)の妹を娶(めと)り、官職に就く。魏(ぎ)の恵王(けいおう)からは蔑ろにされたが、秦(しん)の若き君主・孝公(こうこう)は公孫鞅の熱弁を理解できた。官位を得た公孫鞅は法令改正を思い立つ。
公孫鞅(こうそんおう)は、連日、孤立無援の論陣を張っていた。
かれの思想の根幹にあるのは、
──いかに国を富ませ、兵を強くするか。
ということであり、そのためには国家の意志を統一しなければならないということであった。
たとえば法も国家の意志のあらわれであるが、その法が国民すべてに適用されなければ、効力をうしなってしまう。が、現実には公族や貴族には適用されていない。おなじ罪を犯しても、庶民は罰せられるが、貴門の者はゆるされる。
国民とひとくちにいうが、公民と私民とがあり、公民と私民とでは賦税(ふぜい)の率がちがい、私民のあいだでも、主君がちがえば賦税の重さがちがう。
こまなことをいえば、一升(しょう)の量でも、各領地によってちがうのである。
そのようにばらばらなものがよりあつまって秦(しん)ができている。それではいくら君主が心をくだき骨をけずって善政をおこなおうとしても、だれの目にもみえる業績とはならない。
このさい、ことごとく旧弊(きゅうへい)を廃し、新制度をしきたい。それが公孫鞅の主張であった。
富国強兵は政治の原点であろう。政治は経済と軍事に尽きる。ここを見落とすと政治は虚言(きょげん)と化す。法律や制度を見直し、予算を組むのも富国強兵のためである。
孝公(こうこう)は慎重であった。
改革に賛同する者の声が反対する者の声にかき消えないほどのたしかさをもつまで、自分の意中をいわず、議論をみまもりつづけた。
ふたつの声の量が、ひとしくなった。
臣下の目がそろって孝公を仰いだ。
──もうよかろう。
と、おもった孝公は、おもむろに口をひらいた。
「窮巷(きゅうこう)は怪(かい)多く、曲学(きょくがく)は弁(べん)多しときく。愚者(ぐしゃ)の笑いを智者は哀しみ、狂夫の楽しみを賢者は憂える。世にかかわりて、もって議するも、わしはこれを疑わず」
孝公がそういった瞬間、秦(しん)は改革の第一歩をふみだしたことになる。
窮巷、すなわちかたいなかに住んでいると、世知に欠け、なんでも怪しむようになり、曲学、つまり正しい学問をしていない者はいたずらにしゃべるだけである。愚かな者が笑ったことを知恵のある者は哀しみ、狂人の楽しむことを賢人は憂えるものである。世俗の旧習にとらわれた議論がどんなにおこなわれようとも、わしには信念がある。
孝公はそういったことになる。
その信念とは、秦を改革することであり、それは国法を変ずることになるので、当時のことばとして、
「変法」
である。議場は粛然(しゅくぜん)とした。
変法が行われたのは紀元前359年のことである(Wikipedia)。公孫鞅(こうそんおう)は法令に信賞必罰の魂を吹き込んだ。
中央の目がとどかないことをさいわいに、かってに法令を変える悪辣(あくらつ)な官吏もいる。法令の一字を加えても消しても死刑にする。公孫鞅(こうそんおう)がそういったとき、
「一字で、死刑か」
と、孝公はつぶやき、目をみはった。
「さようです」
公孫鞅は平然といい、ことばを継(つ)いだ。
不公平があれば民は法に従わない。役人の匙(さじ)加減で運用が変われば贈収賄の温床となる。公孫鞅(こうそんおう)は厳罰をもって施行に臨んだ。
とにかく公孫鞅の提言は重大なことをふくんでいた。公族や貴族の領地では法令の書きかえなど日常茶飯事(さはんじ)であったのに、それができなくなった。各地方の役人は法令の内容を人民にろくにしらせずに、独断でとりしまりをおこなっていたのに、こんどは法令の全文を人民に告げ、なおかつ説明しなければならない。それをおこたり人民が罪を犯すと自分が罰せられるのである。いわば人民もその法令によって、官吏(かんり)を監視できるのである。違法の官吏がいれば、法官の長に質問し、その質問は公表されるからである。
法令が人民から見えるようにしたことで、役人のインチキを未然に防いだ。この他にもありとあらゆる知恵を巡らした。
「法令は民の命です。政治をおこなう本(もと)です。それなくして民を守ることはできません」
と、あえて強く言上した。
今の官僚にこの気概がありやなしや。国家を治めるどころか、我欲を治めることもできずに自らの天下りを確保する姿は浅ましい限りである。政治は義を失って利で動くようになってしまった。既に政治とは「商い」をする言葉へと堕落した。
孝公(こうこう)の太子が法を犯した。
「太子をさばくのですか」
と、法官はうろたえぎみにいった。
「そうです。法の下には身分の上下はありません。わが君が罪を犯せば、たとえ一国の君主でも、刑罰をうけねばなりません。太子でも容赦はなりません」
公孫鞅(こうそんおう)は厳然としていった。
太子駟(たいしし)の罪状はあきらかとなり、有罪と決した。が、一国の嫡子に刑をおよぼすことをはばかり、傅(ふ)の公子虔(けん)を■(ぎ/鼻+リ)、師の公孫■(こうそんか)を黥(げい/いれずみをする)刑に処した。翌日から法令を非難する民の声はぴたりと熄(や)んだ。
公正さは厳しさを伴う。身内への甘さが腐敗を生む原因となる。諸葛孔明は泣いて馬謖(ばしょく)を斬った。
東日本大震災で原子力行政と東京電力の欺瞞(ぎまん)が明るみに出た。福島県の自殺者は昨年(4-6月期)に比べて2割も増えている。菅首相は「白紙に戻す」としておきながら、原子力推進を継続する旨を言明している。
誰一人罰することなく、誰一人責任をとっていない。官僚は今頃、新しい安全神話の作成に着手しているような気がする。
史実によれば公孫鞅(こうそんおう)は、この太子によって車裂の刑に処せられている。逃亡を試みたが、自分で作った法令が仇(あだ)となった。
公孫鞅(こうそんおう)が心血を注いで作り上げた法令は、唐の時代にまで影響を及ぼし、更には日本へと伝わった。
一方、風洪(ふうこう)は白圭(はくけい)と改名し、商人の道を歩み始める。
「利の世界で生きようとなさる」
「いえ、仁義の世界で生きるつもりです」
「ほう」
尸子(しし)は微笑をふくんだ。
「義を買い、仁(じん)を売ります。利は人に与えるものだとおもっております」
社会的責任において買ったものを心で売る。そこで得た利益を世の人に還元するということである。
「かつてそんな商人はいなかった。もしあなたがそれをなせば、あなたは万民に慕われるだろう」
と、尸子は楽しげにいった。
この物語は読み手の背中を垂直にする。人の歩むべき道が確かに存在することを教えてくれる。
・「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次
夢に関する覚え書き
夢1 睡眠時の夢について考える連続ツイート。夢のメカニズムについてはまだわかっていない。浅い眠りに陥るレム睡眠中に見るとされ、ノンレム睡眠時は発現されないと考えられていた。 しかし、最近ではノンレム睡眠時にも夢を見ることが確認されている。http://bit.ly/dphJ8r
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
・Wikipedia
夢2 夢の語源は「寝目(いめ)」で、「寝」は「睡眠」、「目」は「見えるもの」の意味である。平安時代頃より「ゆめ」に転じ、「はかなさ」など種々の意味で比喩的にも用いられるようになった。夢が「将来の希望」といった意味で使われ始めたのは近代以降。http://bit.ly/ajxNsX
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
・語源由来辞典
夢3 部首は下の「夕」で、「夕方」「夕べ」の「夕」ですから、「暗い」とか「よく見えない」という意味ですから、なんとなくわかります。それで上半分ですが、これは「かん」という漢字(昔の字なのででないのです... http://bit.ly/cQPYmW
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
・続き
・夢という漢字の由来について
夢4 荘子「胡蝶の夢」 http://bit.ly/dBSNa6
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
・荘子「胡蝶の夢」
夢5 『枕中記』(ちんちゅうき)「邯鄲の夢」(かんたんのゆめ) http://bit.ly/ahFiiP
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
・『枕中記』(ちんちゅうき)「邯鄲の夢」(かんたんのゆめ)
夢6 脳は睡眠中も起きている時と同等の活動をしていることが明らかになっている。睡眠時は五官からの情報が遮断されている。そして意識がない。物理的な現象が夢に影響を与えることはあるが、これは半覚醒状態といえよう。夢は無意識領域に現れた意識と考えることが可能だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢7 私は夢を幽霊のようなものだと考えている。前の日に感じた違和感、無念、恨みつらみといったものが化けて出てくるのだ。その思いや思念を何らかの形で社会の枠組みに合うように変換しているのだと思う。脳内ネットワークが社会ネットワークと摺り合わせをするのが夢なのだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢8 この考えが正しければ、幽霊が死んでも死にきれない怨念を表しているように、夢は眠っても眠りきれない中途半端な状態といえる。虐殺や事故死が痛ましいのは、そこに我々が「無念の物語」を描くためだ。だが、平均寿命まで生きたとしても「中断された」ような死に方をする人は多い。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢9 夢は現実と対比される。夢か現(うつつ)か幻か。その一方でぼんやりと人生を過ごすことを酔生夢死という。これは私にいわせれば「夢生現死」となる。完全に意識が休んで(=死んで)いれば夢は見ない。だから夢を多く見る人ほど、社会で違和感を覚えたり、恐れを抱いているように思う。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢10 物事に熱中することを無我夢中という。これまた本当は「無我眠中」である。なぜなら夢には「我」(が=意識)が存在するからだ。完全に生きるとは「生に没頭する」ことだ。生を味わい尽くすことだ。ここにブッダが説いた無我の境地がある。大切なのは違和感を言葉にすることだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
夢11 違和感を放置しない。自分の感覚が狂っているのか、周囲が誤っているのかを厳しく問うべきだ。「おかしい」と思ったら声を上げることが正しい。違和感をうやむやにしている人は判断力が劣化してゆく。生きるとは疑問を乗り越えてゆくことでもある。生の炎を燃焼させよ。夢を見るな。以上
— 小野不一 (@fuitsuono) September 22, 2010
現象に関する覚え書き
・川はどこにあるのか?
・月並会第1回 「時間」その一
・月並会第1回 「時間」その二
・時間とは記憶の残像である
・現象に関する覚え書き
・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
川を見る。次から次へと流れ去る水を見つめる。川はどこにあるのだろう? 川を自宅に持ち帰ることはできない。とすると川に実体はないのだろう。水が干上がれば、それは川ではない。つまり川が流れているのではなく、流れそのものが川なのだ。私の目の前にあるのは「川という現象」だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 30, 2010
打ち上げ花火を見る。一筋の光が天を目指し、爆発する。地面を揺るがす音と共に七色の炎が放射状に広がる。光の雫は重力に抗えず、垂れかかった涙のように闇の中へ消えてゆく。夜空に花火の残像が浮かぶ。花火もまた現象である。 RT @fuitsuono: 川を見る…
— 小野不一 (@fuitsuono) August 31, 2010
花を見る。やがて花は枯れる。遂に跡形もなくなる。花という現象。人を見る。人の一生を見る。やがて人は死ぬ。骨も消え去る。人という現象。私も川も現象である。実体はない。あるのは流動性だけ。変化こそ本質である。これを諸行無常という。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 31, 2010
生命現象とは「時間的存在」なのだろう。 RT @krishnamurtibot: このように、時間の永続性があり、また最後には到達される真理という観念に対して思考が付与した永遠性がある。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 14, 2010
私が在(あ)るのではなく、私という現象が在る。