2011-07-29

必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー


 科学も宗教も突きつめると時間に行き当たる。人間が一生という時間に支配されている以上、それも当然か。ただ時間というのは概念であって実体はない。昨日の8時を持ってこいと言われても無理だ。

月並会第1回 「時間」その一
月並会第1回 「時間」その二

 とすると時間をどう解釈するかが問われる。人生の幸不幸は多くの場合錯覚であるといってよい。例えば「努力が実る」という言葉があるが、実際は実らない人の方が多い。成功者の発言が一人歩きしていると見ていいだろう。

 人間の脳は時系列に沿って因果という物語を仕立て上げる。我々にはよき出来事を必然と捉える癖がある。つまり「必然という物語」だ。

「起きたことだけのリストを見れば、まるで起こりそうもない一連の出来事のように思えます。でも、それは数霊術の世界の話。人は同じことだけを捜して、異なることをすべて無視する。(中略)
 こんなふうに類似性を探して、それについて想像を膨らませ、似ていることだけを数えあげるなら、誰であれ地球上の二人の間には、驚くほどたくさんの共通点を見つけられるでしょう」(イアン・スチュアート教授、イギリス)

【『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング:有沢善樹、他訳(アスペクト、2004年)以下同】

 このあたりについては既に検証されつつある。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 その意味で体験はおしなべて擬似相関だといってよい。相関関係を因果関係と認識する誤謬(ごびゅう)だ。必然病。「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」(上杉鷹山)。その意気込みやよし。だが人生や社会における出来事の因果を特定することは不可能だ。経済ですら予測が当たらない。

 本書では偶然と必然を天秤に載せ、これでもかと言わんばかりに偶然とは決して思えないエピソードを次々と紹介している。

 イギリス騎兵隊の将校メジャー・サマーフォードは、第一次世界大戦最後の年、フランドルの戦場において、稲妻に打たれて落馬した。それ以降、彼は腰から下がマヒしてしまう。6年後、メジャーはカナダのバンクーバーに移住する。そして、川釣りをしているときに、ふたたび落雷に遭い、右半身がマヒしてしまう。
 2年後、彼は地元の公園で散歩できるようにまでなった。ところが、1930年のある日、みたび稲妻が彼を襲った。それにより、彼の体は全身マヒになった。彼が死んだのは、それから2年後である。
 ゼウスはそれでもメジャー・サマーフォードを許さなかった。4年後、稲妻が彼の墓を直撃したのである。

 雷の祟(たた)りだ。人は不幸が続くと高価な壷を買わされる羽目になる。先祖の祟りも金次第。

 世界の人口からすれば三度も落雷に撃たれる人は存在しないに等しい。だが撃たれた人がいるとなると、今度は「なぜ撃たれたのか?」という理由探しを脳が始める。「原因は何か」と。

 起こってしまった出来事は書き換え不可能だ。必然志向の問題は別の可能性を封じてしまうところにある。メジャー・サマーフォードに雷が落ちたことは必然か偶然か? 例えばこう人もいる。

6回目の雷直撃も無事回復、なぜか数年の間に撃たれ続ける米国の男性
1分間で二度も雷に撃たれた人

 病気も同様である。遺伝要因と環境要因を特定するのは極めて困難だ。他にも進化医学では進化要因という見方がある。一つの事象には様々なことが複雑に絡み合っている。

 脳は退屈や平凡を嫌う。このため珍しいことや不思議なことに遭遇すると脳は活性化する。超並列で動く脳は色々な情報を結び合わせる。結果から起承転結を導き出すのは最も得意とするところだ。

 デレク・シャープはイギリス空軍のパイロットという職業柄、一般人より死の危険に直面する確率が高いが、それにしても多すぎる死の危険にこれまで直面してきた。しかも、ふつうなら死んで当然という状況から必ず生還した。これを単なる偶然の結果と片づけるのは無理というものだろう。(中略)
 彼が死と一戦まじえた経験は何度もあるが、最初のがいちばん劇的だったと言えるだろう。あれは1983年2月に起こった事故だった。レズ・ピアースという訓練中の航空士を同乗させ、ケンブリッジシャーの町や村の上空を時速1000キロで飛んでいたとき、二人が乗っていたイギリス空軍のホーク戦闘機にマガモが激突したのである。
 マガモは飛行機の風防を突き破り、デレクの顔を直撃した。衝撃で彼の左目が眼窩から飛び出し、首の骨が折れ、顔の骨と神経が大きな損傷を受けた。機上の二人にとって、死は確実かつ差しせまったものに思えた。
 シャープが覚えているのは「ドン!」という感じの衝撃だけである。「頭部全体を誰かに濡れた毛布で引っぱたかれた感じでした。ぼくは本能的に操縦桿を引き戻したんです。低空で緊急事態に陥ったときにはそうしろと訓練されていたからですよ。そうすれば、高度が上がって考える時間ができますからね」
「次の瞬間、意識を失いました。ぼくが意識を失っている間に飛行機がどこまで行ったか、誰にもわかりません。でも、最低2~3分は意識を失っていたはずです。気がついたときには、高度が1500メートルにまで堕ちていましたからね」
 しかも、恐ろしいことに目が見えない。「最初は、目に風防の破片が入ったのだと思いました……顔を拭ってそれを取り除こうとしたんですが、指にべたべたしたものが付着するじゃありませんか。じつのところ、私が拭い取ろうとしていたのは、自分の顔の〈破片〉だったんですよ。痛みはまったく感じませんでしたが、左目が眼窩から飛び出していたんです」

 飛行機はその後、管制官の指示で無事着陸できたという。まったく身の毛もよだつ話である。さすがに著者も脱帽している。

 9.11テロ以降この手の研究も進んでおり、危機的状況で英雄的行為をする人や生き延びる人(サバイバー)に共通性があることがわかりつつある。(英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

 必然という観点からみれば運命と宿命は同じものだ。過去が現在と未来を支配する構造になっている。必然は何となく自己実現と同じ匂いがする。自分という存在の正当化を図る目的がありそうだ。

 偶然主義になればニヒリズムとシニシズムの罠にはまり、必然主義になれば強い思い込みが他の可能性を見失わせる。とすれば、偶然からも必然からも離れて中道をゆくしかない。人生の出来事は「ただある」のだ。そして私も「ただある」というのが本質なのだろう。

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ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答

2011-07-28

自分で精神を働かせ、自分で考える


 元来、わたくしたちは身体的栄養を摂る場合には、食物を自分で口に入れ、自分で咀嚼し、自分で消化する。これと同じように、あるいはそれ以上に、精神が知識を獲得するためには、自分で精神を働かせ、自分で考えなければなりません。そこには、当然、強い精神、強靱な思索が要求されてまいります。それは決して容易なことではありません。考えるということはなかなかむずかしいことであり、また苦しいことでもあります。しかし、そのようにして精神を働かせ、どこまでも考え抜くところにこそ、考える葦としての人間の尊さがあるのであります。
 なお、この考えるという行為は、それをたえず行うことによってその力を強めるものであります。からだが訓練によって強化されるのと同じように、精神というのも、それを鍛錬することによって、次第に強力となるものであることを申し上げたいと思います。それに反して怠惰な、怠けた精神は、怠惰なからだにもまして、ますます貧弱なものとなることは申すまでもありません。ともかく考えるためには、〈自分で考える〉ことが絶対に必要であります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】

自分で考えるということ

ウォルター・アイザックソン著『アインシュタイン その生涯と宇宙』の翻訳が酷いらしい


 武田ランダムハウスジャパン、2011年刊。

アインシュタイン その生涯と宇宙 上アインシュタイン その生涯と宇宙 下

迷羊(amazon カスタマーレビューより)

 私は本書の上巻の5-11章の翻訳を担当した松田です。この下巻の12,13,16章、特に13章を巡る、滑稽かつ悲惨な内部事情を知っている範囲でのべ、読者にお詫びをすると同時に、監修者と訳者の恥を濯ぎたいと思います。

 本書の翻訳は数年前に監修者の二間瀬さんから依頼されました。私は自分の分担を2010年7月に終えました。翻訳権が9月に終了するので急ぐようにとのことでした。ところがいっこうに本書は出版されず、今年6月になり、いきなりランダムハウスジャパンから、本書が送られてきました。そして13章を読んだ私は驚愕しました。

 私は監修者の二間瀬さんに「いったい誰がこれを訳して、誰が監修して、誰が出版を許可したのか」と聞きました。二間瀬さんは運悪くドイツ滞在中で、本書を手にしていませんでしたので、私は驚愕の誤訳、珍訳を彼に送りました。とくに「ボルンの妻ヘートヴィヒに最大限にしてください」は、あきれてものもいえませんでした。Max BornのMaxを動詞と誤解しているのです。「プランクはいすにいた。」なんですかこれは。原文を読むと、プランクは議長を務めたということだと思います。これらは明らかに、人間の訳したものではなく、機械翻訳です。

 先のメールを送ってから、監修後書きを読んで事情が少し分かりました。要するに12,13,16章は訳者が訳をしていないのです。私は編集長にも抗議のメールを送りました。編集長の回答によれば12,13,16章は、M氏に依頼したが、時間の関係で断られたので、別途科学系某翻訳グループに依頼したとのことです。ところが訳のあまりのひどさに、編集部は監修者に相談せずに自分で修正をしたようです。12,16章の訳はひどいなりにも、一応日本語になっているのはそういうことだと思います。ところが13章は予定日までに完成しなかったらしく、出版期限の再延期を社長に申し入れたが、断られた編集長は、13章の訳稿を監修者に送ることもせずに、独断で出版したらしいです。重版で何とかしようとしたようです。出版を上巻だけにして、下巻はもっと完全なものになってからにすればよかったのに、商業的見地からは、上下同時出版でないとダメだそうです。

 二間瀬さんは社長に、強硬な抗議文を送り、下巻初版の回収を申し入れました。社長も13章を読んでみて驚愕したようです。そして回収を決断しました。

 自動車のリコールがときどき問題になります。そして社会的指弾を浴びます。しかしあれは発売時点では欠陥に気がついていなかったはずです。ところが本書の下巻は、発売時点で、とても商品として売れるものでないことは明らかでした。本書下巻を2000円も出して買った読者は、怒るに違いないと、二間瀬さんに指摘しました。またアマゾンで書評が出たら星一つは確実だとも述べました。

 本書の原書は名著です。私は自分の担当の部分を訳して、とても勉強になりました。ですから本書は日本の図書館に常備されるべき本だと思います。ところがこの13章の存在のため、もし初版が図書館に買い入れられたら、監修者と訳者の恥を末代にまで残すことになります。より完全な下巻の完成を期待しています。

機械翻訳をそのまま出版?トンデモ本の裏にあるもの

2011-07-27

人間なんていやしなかった


定年

 ある日
 会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」

 人間は黙っていた。
 人間には人間のことばしかなかったから。

 会社の耳には
 会社のことばしか通じなかったから。

 人間はつぶやいた。
「そんなこといって!
 もう四十年も働いて来たんですよ」

 人間の耳は
 会社のことばをよく聞き分けてきたから。
 会社が次にいうことばを知っていたから。

「あきらめるしかないな」
 人間はボソボソつぶやいた。

 たしかに
 はいった時から
 相手は会社、だった。
 人間なんていやしなかった。

【『石垣りん詩集』石垣りん(ハルキ文庫、1998年)】

石垣りん詩集 (ハルキ文庫)

2011-07-26

比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ


 生存のために情動が機能しているとすれば、それは恐怖や不安に基づいている。生き延びる確率を上げる具体的な行動は「逃げる」ことだ。

 グッピーを、コクチバスと出会わせたときの反応によって、すぐ隠れる個体を「臆病」、泳いで去る個体を「普通」、やってきた相手を見つめる個体を「大胆」と、三つのグループに分ける。それぞれのグループのグッピーたちをバスと一緒に水槽に入れて放置しておく。60時間ののち、「臆病」なグッピーたちの40パーセントと「普通」なグッピーたちの15パーセントは生存していたが、「大胆」なグッピーは1匹も残っていなかった。

【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

 リスクが高い環境では勇気が裏目に出る。臆病な方が優位なのだ。

 グッピーですらタイプが分かれるわけだから、恐怖が本能に由来するのか学習で獲得されるのかは意見が真っ二つになっている。いずれにせよ、脳の深部(大脳辺縁系)に刻印されるのは間違いないだろう。

 ヘビを見た瞬間、我々の身体は凍りつく。そして全ての感覚の注意がヘビに向けられる。思考が入り込む余地はない。これは健全な恐怖といえよう。

 一方、コミュニティの政治化や高度情報化に伴って生まれる心理的な恐怖がある。クリシュナムルティが問題にしているのはこれだ。孤独は山林の静けさの中にあるのではない。むしろ都会の喧騒の中にある。

 比較をされる中に落伍の恐怖がある。所有をすることで失う恐怖が生じる。政治の舵取りを誤ると雇用や医療の不安が生まれる。本来であれば喜ぶべき出産においても、現代社会は何らかの不安がつきまとう。

 メディアとは他人の眼をカメラに据えたものだ。我々の振る舞いは周囲から「どう見られるか」に重きを置く。人格よりもどこに所属しているかで人を判断する。人間性よりも収入に注目する。

 ヒエラルキーの競争力学を支えているのも恐怖だ。親は我が子が学校からドロップアウトすることを極度に恐れる。一度押された烙印は消えないからだ。村のルールに従わない者は村八分にされるのが我が国の伝統である。

 では恐怖とはなんでしょう。恐怖をもたらす要因とはなんなのでしょう。やがて大河となるたくさんの細流や小川――恐怖をもたらす細流とは何か。そこには恐怖の凄まじい活力の源があるのです。
 恐怖のひとつの原因は比較でしょうか。つまり自分をだれかと比べるということですか。
 そのとおりです。ではあなたは、自分をだれとも比較しないで生きることはできるでしょうか。私の言っていることがおわかりですか。
 イデオロギーのうえでも、心理的にも、また肉体的にさえも、自分をだれかと比べるとき、そこには相手のようになろうとする懸命な努力があり、そしてそうはなれないかもしれないという恐怖があるのです。実現したいという願望があるのに、実現できないかもしれない。――比較があるところにはかならず恐怖があるのです。
 ではたずねます。人はなんらかの理想や価値観に近づこうとして、美醜、公正・不正などといった比較に囚われるわけですが、そうした比較をいっさいせずに生きていくことはできるでしょうか。現実には絶えることのない比較がつづいています。それで私たちはたずねているのです。比較が恐怖の原因なのか、と。
 明らかにそうなのです。そして比較があるところには決まって追随があり、模倣があります。ですから比較や追随や模倣が恐怖の有力な原因だといえるわけです。いったい人は心理的に、比較や模倣や追随などせずに生きることができるのでしょうか。
 もちろんできます。もしこれらが恐怖の有力な原因であるなら、そしてあなたが恐怖の終焉にとりくむなら、内的には比較はなくなります。何かになろうとしなくなるのです。比較とは、より良く、より高く、より高貴に思える何かになろうとすることにほかなりません。したがって比較とは、何かに「なろうとする」ことなのです。これは恐怖の要因のひとつでしょうか。ご自分で見いだしてください。

【『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ:有為エンジェル〈うい・えんじぇる〉訳(平河出版社、1997年)以下同】

「比較があるところにはかならず恐怖がある」という指摘が重い。何かになろうとすること自体が、自分を鋳型にはめ込む営みである。

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 私たちはたいてい社会的地位を確保することで満足を得ようとしています。自分が無名の人間のままで終わることを恐れるからです。立派な地位にある人はきわめて丁重にあつかわれ、一方、地位をもたない人は粗末にあつかわれるように社会は作られています。それでだれもが、社会的地位や家庭内の地位を欲し、あるいは神の右手に座する地位を求めるわけです。でもこの地位は周囲によって認められるべきもの、そうでないと、それは決して地位とはいえないからです。私たちはいつも高いところに坐っていたい。内面では惨めさや苦悩が渦巻いているだけに、外では偉い人物として尊重されることがなんとも快いからです。このように、なんらかの形で傑出していると社会に認められようとして地位や威信や権力を渇望することは、言い換えれば他人を支配したいという願望にほかならず、この支配欲が攻撃性の一形態なのです。聖者はその気高さにふさわしい地位を求めますが、それはまるで鶏が農園で終始餌をつっつくのと同じくらい攻撃的だといえます。では何がこのような攻撃性を生みだすのか。それは恐怖心ではないでしょうか。
 恐怖は人生の最大の課題のひとつです。恐怖に捕らえられた心は混乱と葛藤に陥るために、暴力的になったり、歪められたり、攻撃的になったりするのです。そうした心には自身の思考形態から離れる勇気がありません。これが偽善を生みだす原因なのです。恐怖から解放されるまでは、たとえ最高峰に登り、あらゆる種類の神を考えだそうとも、私たちは無知の闇をさまようだけでしょう。
 たとえば私たちの受けている競争を土台とした教育、これもまた恐怖を引き起こします。堕落した愚かな社会の中ではだれもがみな、なんらかの恐怖にさいなまれながら日々を送っています。恐怖は、私たちの暮らしをねじ曲げ歪め退屈なものにしてしまう、恐るべき存在なのです。

 ひとかどの者に「なろう」とする努力、ここに恐怖の本質があったのだ。よく考えてみよう。成功した企業の周りには失敗した企業が存在する。マーケットシェアを奪い合っているのだから当然だ。資本主義経済における利益は、消費者が支払う対価以外にも損失が発生するということだ。獲得競争は奪い合いを意味する。

 国家は国民から奪い、企業は社員から奪い、学校は生徒から奪い、親は子から奪っている。金を、時間を、人生を。

 失敗してみたらどうですか。発見してみたらどうでしょう。ところが恐れている人はいつも「正しいことをしなくては。人から立派に見れらなくては。あいつは何者だとか、とるにたりないやつだなんて世間からばかにされてはならない」などと考えるのです。そういう人は実際、根底から怯えきっているのです。野心的な人間とは、ほんとうは怯えている人のことです。そして怯えるているものには、愛や思いやりもありません。それはまるでびくびくと家の中に閉じこもっているようなものです。

 我々は失敗を恐れる。だからこそ失敗することには意味があるのだろう。

 以前こう書いたことがある。「今直ぐにできる世の中を変える方法:1.新聞の購読をやめる、2.テレビを消す、3.預金を全額下ろす――これだけで革命に等しい状況に陥る」(2010-12-23)。

 この国に欠如しているのは流動性だ。

日本は流動性なきタコツボ社会/『生物と無生物のあいだ』福岡伸一

 そこで一つ妙案を思いついた。日本を一瞬で変えることが可能だ。それは「全国民が転職をすること」である。「この景気が悪い時にそんな与太話に耳を貸すものか」という声が聞こえてきそうだ。ごもっとも。しかし不況であるからこそ求人は買い手側(企業側)が強気になる。こうした構造をひっくり返すためには、労働者を大切にしない会社から去るのが手っ取り早い。利権にしがみつく連中もあっという間に一掃できるだろう。

 みんなで思い切って、1年働いて3ヶ月休むことにしようぜ(笑)。そうすれば政治情況だって劇的に変わるはずだ。

 安全への願望が我々を不自由にしている根本原因だ。大なり小なりリスクを引き受けた方が人生は面白い。自分に賭けろ。

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「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編
恐怖心をコントロールする/『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
競争と搾取/『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳