ヴェーサリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年)】
そして
tumblrも楽しい。枕詞(まくらことば)としては、チト不謹慎であったか。
tumblr三昧の日々を送り、目がチカチカと点滅するほどである。私は専ら画像保存として使っているのだが、写真の刺激にたじろいでいる。情報の圧縮度が桁外れで、静止した時間に想像力が釘づけとなる。
私は今17人ほどフォローしている。殆ど外国人なんだが、びっくりするほど趣味の合う人がいて親近感が高まる。一つだけ心掛けていることがある。それは私の画像がリブログされた場合、必ず相手のアーカイブを見にゆくこと。もちろん、リブログ返しをしないこともある。少なからず似たような感性があると思って、一応敬意を払っているつもりだ。
で、数日前のことだが、外国人男性のアーカイブを見たところ、マッチョな男の写真がズラリと並んでいた。「そのスジの方でしたか……」と思いながらも、一枚だけいいのがあったのでリブログを返した。
1分後、私は凍りついた。「あの画像に何らかの意味やメッセージが込められていたらどうしよう」と。場合によっては「オー、日本人の彼はマイ・ボーイとなることを了承したですね」とか思われる可能性もある。「ユーも今日から黒薔薇団の一員だ」とかね。
ここからが本題だ。tumblrのリブログ、twitterのリツイートという機能は、
投票民主主義(=
観客民主主義と言い換えてもよい)に酷似している。
リブログが恐ろしいのは、画像・動画は元より、テキストもそのまんまコピーできることだ。そこには情報の吟味や咀嚼(そしゃく)といった行為が欠如している。
例えば先ほど挙げた画像の問題を考えてみよう。サイン、シンボル、符牒(ふちょう)、暗号は敵味方を判別するものとして機能することが多い。一番簡単なのは言語である。日本語=日本人だし、方言があれば「おっ、同県人ですか」となる。流行の知識から年代もわかるし、趣味からは人となりが伝わってくるものだ。
このような情報の圧縮度を限りなく高めてゆくと、最終的に辿り着くのは宗教か数学世界となる。
E=mc²とか、
マンダラとか、
十字架とか、
マントラとか、
イコンに行き着くのだ。
生命機能とは自己複製能力を意味する。つまりコピーだ。遺伝子を始め、文化・教育・道徳に至るまでその全てはコピーを目的としている。
リブログやリツイートの問題は、情報のコピーだけがあって概念のコピーを欠いているところにある。しかも実際はコピーという作業があるだけであって、知識レベルですらコピーされていないことが多い。
リブログやリツイートをするに至った理由や感覚が透明化されつつあることを私は恐れる。
時代が閉塞情況に陥ると必ず人々は新しいリーダーを待望する。この心理は教祖に付き従う羊のような信徒と同じものだ。我々は
ハーメルンの笛吹き男についてゆく子供となりつつあるのかもしれない。
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