2011-09-09

哀れな中古品(セコハン)人間/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムルティ


 われわれが生活と呼ぶ不断の戦いにおいて、われわれは自分たちが育った社会、それが共産主義社会であれ、いわゆる自由社会であれ、それにしたがって行動の基準を確立しようとする。そして、ヒンズー教や回教もしくはキリスト教、あるいはわれわれがたまたま関係する他の宗教といった伝統的存在の一部としてその行動基準を受けいれるのである。また、何が正しい行為で何が間違った行為であるか、そして何が正しい思想で何が間違った思想であるかを誰かに教わり、それを一つの絶対的基準として遵奉するが、その場合、すでにわれわれの行動と思考は型にはまったものになり、あらゆるものに対して機械的な反応しかできなくなる。このことは、われわれ自身の中にきわめて容易に見出すことができるのである。
 何世紀もの間、われわれは学校の教師や権威者、書物や聖者の教えによって育て導かれてきている。われわれはいう、「あの丘や山や陸地の向うには何があるのでしょうか、本当のことを全部教えて下さい」と、そして彼らから与えられた説明に満足し、教えられたとおりに生きてゆく。だが、その人生は浅薄で、しかも空虚なものにすぎない。われわれはそこで、哀れな中古品(セコハン)人間になりはてる。自分の性向と傾向にしたがうか、あるいは境遇や環境に強制されて、その教えられた言葉を固守して生きてゆくだけである。われわれ人間はあらゆる種類の存在の影響によって生みだされた産物であって、何一つとして新しいものはわれわれの中には存在しないし、われわれ自身で発見したもの、独創的で清新で明確なものは何一つ存在しない。

【『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ著、メリー・ルーチェンス編:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳(霞ケ関書房、1970年)】

 人間が生まれる時は白紙状態なのかどうかについては議論が分かれている。私はタブラ・ラサ論を支持する。

 E・O・ウィルソンが社会生物学の立場から批判しているようだ。詳細はわからない。

 E・O・ウィルソンがいうところの「遺伝」とは何か? よもや遺伝子のことではあるまい。遺伝子にはタンパク質をコピーする情報はあるが、性格や個性を反映するものではない。

 また、同じ遺伝情報を持つ兄弟であっても性格が異なるのが普通である。離れ離れで育った一卵性双生児がびっくりするほどよく似た人生を歩んでいたという話もあるが、これは類似した情報だけピックアップしているので合理性はないものとされている。

 生まれた時はもちろん白紙状態ではない。妊娠5ヶ月くらいから赤ちゃんは耳が聞こえている。怒鳴ったり、泣いたり、笑ったりする声は全部伝わっているのだ。

 喧嘩の絶えない夫婦のもとであれば、赤ちゃんは「戦争をしている世界」と認識することだろう。笑い声や歌声に触れていれば「楽しい世界」と判断することだろう。その意味でドアをバタンと閉めたり、けたたましい電話の音を妊婦は避けるべきだ。

 更にこんな話もある。妊娠(着床)直後に母親がジャンクフード中心の食事をすると、生まれてくる赤ちゃんは肥満児になりやすいという。母胎を通して「食糧事情が悪い」という情報を受け取るためだ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。

 とすれば妊娠直後から胎児は情報を受け取っているものと考えていいだろう。

 一方、クリシュナムルティが説くのは「心理的なパターン」のことである。人は教育の名のもとに社会のルールを叩き込まれる。大体、我々が「正しい」と思い込んでいるものは、「正しい」と教えられただけであり、自分で検証した人はまずいない。

 親孝行なんて言葉が最たるもので、実際は経済的見返りを与えることを意味する。親といっても色んな親がいるわけで、それを一把一絡げにして「孝行せよ」という論理は明らかにおかしい。

 恩返しなんてのもそうだ。鶴や亀の恩返しを見れば一目瞭然だが完全なギブ&テイクとなっている。「鶴の恩返し」に至っては強制労働をそそのかす匂いを発しており、我が身を犠牲にするところは売春を連想させるほどだ。

 我々は親や友人、はたまた尊敬する人物の影響下で価値観を形成している。で、偉人と称される人々はたいてい社会にとって都合のいい人物である。つまり「反社会的である」ことは価値としては認められていないのだ。

 腐敗した社会で生きる人々はおのずと腐敗してゆく。米軍基地は沖縄に押し付け、原子力発電所は福島につくるのが我々の流儀である。病人や要介護者を社会の厄介者として扱う。これは事実として政治がそのように対応している。

 幸福とは何か? それは成功することである。そう我々は教えられ、教えられた価値観を疑うことがない。

 仕事は目的ではなく成功するための手段と化している。ミュージシャンは歌うことが目的ではなく、ヒット曲を出すことが目的である。目の前の聴衆も「売れるため」の手段に他ならない。

 政治家、学者、文化人、芸術家、みな同じだ。我々は金銭に額づく奴隷なのだ。これが資本主義ルールである。

 確かにクリシュナムルティが教えるように、生そのものがパターン化し、機械的な反応を繰り返すだけになっている。私の人生はどこにもない。ただ社会から与えられた役割をこなしているだけだ。

 苦情があれば平身低頭し、見込み客の前では愛想を振りまき、アルコールの力を借りて「まったくやってられねえよな」と気炎を上げるのが私の人生になってしまった。

 すなわち「時給なんぼ」の人生だ。

 私は明らかに「生きていない」。きっと幼い頃から牙を抜かれ、少しずつ殺されてきたのだろう。もはや完全に屍体のレベルで腐臭を放っている。

 私の生はどこへ行ってしまったのだろう?



Jiddu Krishnamurti

画像はflickrにアップするのが正しい


「正しい」と書いたのはもちろんブラフだ。今日気がついたのだが、flickrでコードが発行されている画像は、はてなダイアリーにも貼り付け可能だ。

 ってことはだよ、はてなフォトライフにアップするより、flickrにアップしたくなる。

 なぜなら、flickrであればtumblrで紹介してもらえる可能性があるからだ(プライベート指定は除く)。あなたの撮影した写真が世界中で紹介されるかもしれない。

 で、ひょっとしたら、「年俸5万ドルで専属契約をしませんか?」というオファーがくることも十分考えられる。

 だから腕に自信のある人はどんどんflickrに画像をアップするのが正しい、と私は主張する。

まだ中毒になっていない人のためのtumblr入門

パレスチナの国連加盟問題、米国が拒否権発動を初めて明言


 米国務省のヌランド報道官は8日、パレスチナが国連加盟を申請した場合、米国が安全保障理事会での採決で拒否権を行使する方針であることを明らかにした。
 米政府はパレスチナの国連加盟問題をめぐり、イスラエルとともに反対する姿勢を繰り返し示してきたが、拒否権発動を明言したのは初めて。
 ヌランド報道官は記者会見で、「米国は(国連本部がある)ニューヨークでパレスチナが国家樹立を目指して行っている動きに反対を表明する。国家樹立は交渉を通じてのみ達成可能だ」と強調した。
 ただ、外交関係者からは、今月の国連総会でパレスチナがどのような動きに出るかはっきりしていないとの声も聞かれ、パレスチナが安保理の勧告が必要のない「非加盟国」としての参加を要請する可能性もあるという。

ロイター 2011-09-09

 パレスチナの国連加盟が認められるとどうなるか?

 最近では、中国やスペインがパレスチナの国連加盟を認める表明をしている。パレスチナが国家承認されて国連加盟すると、パレスチナがイスラエルの悪事を国際司法裁判所や人権理事会、安保理などに訴えることができるようになる。パレスチナ問題は、イスラエルの「国内問題」から、イスラエルが「隣国」パレスチナを侵略する「国際法違反」の行為に変質する。イスラエルは国際的に「悪」のレッテルを貼られ、かつてのイラクや最近のシリアのように経済制裁される可能性が高まる。

「イスラエルを悪者に仕立てるトルコ」田中宇

 このような背景から「国連総会(9月20日)の直前にテロが起こるのではないか」という指摘もある。9.11テロからちょうど10年ということもあって、「アラブ勢力による犯行」とでっち上げることも容易だ。

 チョムスキーは9.11テロもイスラエルとアメリカが共謀して行った可能性が高いとしている。両国は宗教的独善国家という共通性がある。何をしでかすかわかったものではない。自ら混乱状態をプロデュースし、国民感情をファナティックな方向へ誘導してきたのがアメリカの歴史だ。

9.11から10年狙った「信頼できる」テロ情報、米 警戒強化を指示
タルキ・アル=ファイサル王子がNYtimes紙に寄稿
『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー

伝統と調和


 アフガニスタンは長老、部族長、封建地主、ムラー(イスラム僧)などの年長者に支配された社会であった。だが、戦争が新陳代謝を促し、いま確実に世代交代が行われ、各地にマスードのような若い司令官が続々と生れている。彼も老人たちを無視しようと思えばできるのだが、長老たちに敬意を払い、彼らの面目を保てるようにしている。彼はいう。
「彼らとの関係は大変よいし、若いから力があるからと鼻を高くすべきでない。いつも年寄りを大切にする。革命とは年寄りに成果を見せるものでもある。いまは革命中です。そして彼らの経験やヒントを聞いて、それを時代に合わせて取り入れていく」

【『マスードの戦い』長倉洋海〈ながくら・ひろみ〉(河出文庫、1992年/『峡谷の獅子 司令官マスードとアフガンの戦士たち』朝日新聞社、1984年に一部加筆)】

マスードの戦い (河出文庫)

AAEC001308

AAEC001272

AAEC001231

アフマド・シャー・マスードの思い出

2011-09-08

ジョーゼフ・ヘラー


 1冊挫折。

キャッチ=22(上)』ジョーゼフ・ヘラー:飛田茂雄訳(ハヤカワ文庫、1977年)/翻訳が肌に合わず。フォントもかなり小さい。新訳で3分冊にすべきだろう。