クリシュナムルティ本の翻訳はどれも評判が悪い。私の周囲でも「あんな悪文がよく読めますね」という声を聞く。その上、翻訳者が声高に自己主張を叫んでいる。これが大野純一、大野龍一、藤仲孝司の共通点だ。
不思議なことだが酷い翻訳であるにもかかわらず、私は読むのに支障をきたすことがない。クリシュナムルティの静謐な精神に包まれているような心地がするのだ。
翻訳は重要な事業である。
鳩摩羅什〈くまらじゅう〉がいなければ鎌倉仏教も生まれなかったであろうし、小ブッダともいうべき人々が存在しなければ、
部派仏教も
大乗仏教も誕生しなかったに違いない。
その意味で翻訳は単なる言葉の置き換えではない。人々の脳内情報を書き換え、上書き保存するほどのプレゼン能力が求められる。仏典では文・義・意という考え方があるが、これは翻訳の原理を示したものといってよい。
藤仲は文(もん)を重んじるタイプで、翻訳というよりは通訳に近い。それはそれで資料的価値がある。解釈というものは常に誤謬(ごびゅう)に満ちているものだから。
本書には1933年から1967年に渡る講演が収められている。ところが古さを全く感じさせない。どんなに立派な人物であっても1970年代前半くらいまでは差別的な言辞や用語があるものだ。社会全体もそれを受容していた。
今、中国の風潮を揶揄するネット言論が目立つが、高度経済成長が終わるまでの日本とさほど遜色があるとは思えない。
クリシュナムルティにはそれがないのだから驚くべきことである。
私たちは、目覚めさせてくれる人がほしいのです。啓発者がほしいのです。導き手がほしいのです。振るまい方を私たちに言ってくれる誰かが、ほしいのです。愛は何であるのか、何を愛するのかを私たちに言ってくれる誰かが、ほしいのです。私たちは自分自身では空っぽです。私たちは自分自身では混乱し、不確実で、悲惨です。ですから、私たちは、助けてもらい、啓発してもらい、導いてもらい、目覚めさせてもらえるよう、乞い求めて巡るのです。どうかこれに付いてきてください。それはあなたの問題です。私の〔問題〕ではありません。それはあなたの問題ですから、あなたはそれに向き合い、それを理解すべきです――来る年も来る年も、〔ついに〕混乱し全く迷って死ぬまで、それを反復すべきではないのです。あなたは、啓発者が不可欠である、または導師(グル)は必要である、と言います。何のためですか。導師(グル)は、あなたが真理と呼ぶもの――実在(the real)と呼ぶもの、神、自己実現――に導かれるために、必要でしょうか。理解できるでしょうか。あなたは導かれたいのです。これには幾つものことが含意されています。(マドラスでの講話4 1953年12月13日)
【『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉、横山信英、三木治子訳(UNIO、2007年)以下同】
1953年だから昭和28年の講話(トーク)である。第二次世界大戦が終わってから10年経っていない。
バブル景気が弾けた後なら、まだ理解のしようもある。クリシュナムルティの指摘は半世紀ほど先んじていた。
サラリーマンは「よき上司」を求めるものである。我々現代人は何らかの形で組織や集団に所属している。皆が皆、「素晴らしいリーダー」を待望している。我々はそれを当たり前のように自然な気持ちとして考えている。だがクリシュナムルティはその実相を暴く。
多くの人々は心理的な依存を求めており、よりよき方向へ自分を導いてくれる案内者を探している。つまり、「よきコントロール」を望んでいるのだ。
主従(経済的関係性)、親子(家族的関係性)、師弟(教育的関係性)のいずれにおいても、我々はコントロールされている。会社の指示を聞き、親に従い、先生の言いつけを守ることが「正しい」と信じている。社会のありとあらゆる場面で、積極的な隷属を強いられている。そこで重んじられるのは智慧よりもセオリーだ。幼い頃から「ルールを守る」ことは教わっても、「誤ったルールを見抜き、変える」ことはただの一度も教わっていない。
「お母さん、明日の朝起こしてね」――これが我々の生きる姿勢なのだ。
次に紹介するのはラージガートの講話で聴衆は学生である。
今朝私は〔できるなら〕、かなり難しそうな話題について話をしたいのです。ですが、可能なかぎり、それを単純で直接的にしようとするでしょう。知っているでしょうが、私たちのほとんどは何らかの恐れを持っていますね。君たちは、自分の特定の恐れを知っているでしょうか。君たちは、自分の先生を、保護者、親、大人たちを、または蛇や野牛、誰かの言うことや死などを恐れているかもしれません。一人一人が恐れを持っていますが、若者たちにとって恐れは相当に単純です。私たちが年を取るにつれて、恐れはもっと複雑で、もっと難しく、もっと微細になるのです。私は特定の方向で自己を充足したいのです。君たちは、「充足」とはどういう意味であるかを、知っていますね。私は偉大な作家になりたいのです。私は、もしもものを書けたなら、自分の生活が幸せになるだろうと感じます。それで、私はものを書きたいのです。しかし、私には何が(ママ)起きるかもしれません。私は余生の間、〔身体が〕麻痺してしまうかもしれません。それが私の恐れになるのです。それで、私たちが年を取るにつれて、様々な形の恐怖が生じます――ひとり取りのこされる〔恐れ〕、友だちがいない〔恐れ〕、資産を失う〔恐れ〕、どんな地位をも持たない恐れ、そして他の様々な種類の恐れ、です。しかし私たちは今、とても難しくて微細な種類の恐れには入らないでしょう。なぜなら、それらははるかに多くの思考を必要とするからです。
私たちが――君たち若者と私が、この恐れという疑問を考慮することが、とても重要です。なぜなら、社会と大人たちは、君たちを行儀よくさせておくには恐れが必要である、と考えるからです。君が自分の先生や親を恐れているなら、彼らは君をもっとうまく制御できるでしょう。彼らは、「これをしなさい、あれをしてはいけない」と言えるし、君はまったく彼らに服従しなくてはならないでしょう。ですから、恐れは道徳的な圧力として使われます。教師たちは、たとえば大きな学級において、学生たちを制御する手段として恐れを使います。そうではないでしょうか。社会は、恐れは必要である、さもなければ市民たち、民衆たちは弾けて、むちゃなことをするだろう、と言うのです。こうして、恐れは人の制御に必要なものになったのです。
知っているでしょうが、恐れはまた、人を〔文明化・〕教化するためにも使われます。世界中の〔諸々の〕宗教は、人を制御する手段として、恐れを使ってきたでしょう。彼らは、君はこの生で一定のことをしないなら、来世でそのつけを払うことになるだろう、と言うのです。すべての宗教は愛を説くけれども、同胞愛を説くし、人の和について話をするけれども、彼らはすべて、微妙にまたはひどく残忍に、粗雑にこの恐れの感覚を維持するのです。(ラージガートでの講話2 1954年1月5日、以下同)
あっと言う間に「恐怖」の本質を浮かび上がらせている。確かに社会や集団は恐怖で人々を支配している側面がある。法的な罰(ばつ)と神罰(しんばつ)仏罰(ぶつばち)は同根であろう。人間よりもコミュニティに重きを置いた眼差しだ。
社会で罰の価値観が共有されると、「あいつを罰するべきだ」という主張が必ず生まれる。法律で裁けないなら俺たちの手で裁こう、というのが私刑だ。イタリアマフィアの
オメルタの掟、やくざ者の指詰め、クー・クラックス・クラン(KKK)による黒人の処刑、
関東大震災における朝鮮人虐殺も全部同じだ。
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クー・クラックス・クラン(KKK)と反ユダヤ主義
一人ひとりの権利を守るべきルールが、今度は人々の行動を束縛し抑圧する方向へと作動する。次々と生まれる新たな犯罪によって法律は細分化し、次々と発生する新たな事故や病気によって保険の約款(やっかん)は長くなる。
組織が必ず統治されている以上、そこでは権力が機能する。権力は必ず服従を求める。組織内では服従の競争がまかり通る。これを「積極的奴隷性」と名づけよう。
誰もが社会での成功を望んでいる。否、我々にとっての幸福とは「社会での成功」に他ならない。皆が皆、ひとかどの者になろうと悪戦苦闘している。だが、よくよく考えてみると、それ自体が社会の奴隷になることを促している。ビジネス書が披露しているのは「賢い奴隷になる方法」であろう。
私たちのほとんどはとても保守的です。君たちは、その〔保守的という〕言葉がどういう意味であるのかを、知っていますね。「保守する」とはどういうことかを知っていますね――保つ、守るのです。私たちのほとんどは、〔尊敬されるよう〕体裁よくしていたいのです。それで、正しいことをやりたいし、正しい行ないに従いたいのです――それは、とても深く入るなら分るでしょうが、恐れの表示です。なぜまちがえていけないのでしょうか。なぜ見出さないのでしょうか。しかし。恐れている人はいつも、「私は正しいことをしなければならない。体裁よく見えなければならない。本当のありのままの私を公に知らせてはならない」と考えています。こういう人は基本的に、根源的に恐れています。野心を持っている人は本当は怯えた人物です。そして怯えている人は、どんな愛をも持ちません。どんな同情も持ちません。彼は壁の向こうに監禁された人物に似ています。私たちが若いうちに、このことを理解すること、恐れを理解することが、とても重要です。私を服従させるのは、恐れです。しかし、私たちはそれについて話し合い、ともに推理し、ともに議論し、考えることができるなら、そのとき私は、頼まれたことを理解して、できるかもしれません。しかし、私が君に怯えているからといって、私が理解しないことをやるよう私に強制すること、強いることは、まちがった教育でしょう。
凄い指摘だ。野心を持つ者は臆病者だと言い切っている。組織が巨大になればなるほど、そこでは野心と思惑が働く。権力闘争といえば聞こえはいいが、所詮パン食い競争みたいなものだ。
地位・名誉・称賛を求める人生に本当の幸福はあり得ない。なぜなら奴隷には自由がないからだ。知らず知らずのうちに「不自由な豊かさ」を幸福だと思い込まされている事実が恐ろしい。我々が望んでいるのは「豪華な牢獄」に他ならない。
権力者を恐れ、権威に従うことは、群れの本能に基づいているのだろう。権威に服従すればコミュニティ内では得をする。
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服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
相手を立場や所属で見つめる眼差しに人間の姿は映らない。我々は人間と向き合うことすら奪われてしまったのだろう。
クリシュナムルティは宗教者に鉄槌を下す。
恐れている人物は、けっして真理や神を見出せません。私たちの崇拝すべて、像すべて、儀式すべての裏には、恐れがあります。ゆえに、君の神は神ではなくて、それらは石なのです。
もうね、ぐうの音も出ないよ。宗教は死、あるいは死後の恐怖を利用して信者を脅す。ただ脅すだけではない。必ず金を巻き上げる。地獄や祟(たた)りが彼らの常套句だ。先祖をオールスターで勢揃いさせて、恨みつらみを勝手に代弁する。霊の腹話術みたいなもんだ。しゃべってんのは、てめえだろーが。
クリシュナムルティが示したのは「恐怖からの自由」であった。
ジドゥ クリシュナムルティ
UNIO
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クリシュナムルティ「智恵からの創造」
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恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ
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欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
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恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ
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自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
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宗教は恐怖と不安を利用する
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死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編