昨日、色々と調べたところ「ネイティブ・アメリカン」なる言葉が政治用語であることを知った。
全米最大のインディアン権利団体「AIM(アメリカインディアン運動)」は「ネイティブ・アメリカン」の呼称を、「アメリカ合衆国の囚人としての先住民を示す政治用語である」と批判表明している。
【Wikipedia】
言い換えに対する議論
近年、日本のマスコミ・メディアにも見られる、故意に「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」、「アメリカ先住民」と言いかえる行為は、下項にあるように「インディアンという民族」を故意に無視する行いであり、民族浄化に加担している恐れがある。
この呼び替え自体はそもそも1960年代の公民権運動の高まりを受けて、アメリカ内務省の出先機関である「BIA(インディアン管理局)」が使い始めた用語で、インディアン側から出てきた用語ではない。
この単語は、インディアンのみならず、アラスカ先住民やハワイ先住民など、アメリカ国内の先住民すべてを指す意味があり、固有の民族名ではない。
また、「ネイティブ・アメリカン」という呼称そのものには、アメリカで生まれ育った移民の子孫(コーカソイド・ネグロイド・アジア系民族など)をも意味するのではないかという議論もある。
【同】
というわけで本ブログも「アメリカ先住民」から「インディアン」へとカテゴリー名を変更した次第である。差別問題はかように難しい。わたしゃ、「インディアン」の方が差別用語だと思い込んでいたよ。
インディアンの思想はアニミズムである。精霊信仰だ。我々日本人にとっては馴染み深い考え方である。神社には必ずといっていいほど御神木(ごしんぼく)が存在する。
科学的検証は措(お)く。人間社会は物語性がなければ枠組みを保つことができない。そしてグローバルスタンダードの波は、キリスト教世界――より具体的にはアングロサクソン人――から起こってアジアの岸辺を洗う。問題はキリスト教だ。
キリスト教は人間を「神の僕(しもべ)」として扱い奴隷化する。そして神の代理人を自認するアングロサクソン人が有色人種を奴隷化することは自然の流れだ。例えばスポーツにおける審判に始まり、裁判、社外取締役などは明らかに神の影響が窺える。
ヨーロッパはまだ穏やかだが、アメリカのキリスト教原理主義は目を覆いたくなるほど酷い。元々、ファンダメンタルズ(原理主義、原典主義/神学用語では根本主義)という言葉はプロテスタントに由来している。それがいつしかイスラム過激派を詰(なじ)る言葉として流通するようになったのだ。
キリスト教世界は十字軍~魔女狩りと、神の命令の下(もと)で大虐殺を遂行してきた。魔女狩りを終焉させたのが大覚醒であったとする私の持論が確かであれば、虐殺の衝動はヨーロッパからアメリカへ移動したと見ることができる。
・何が魔女狩りを終わらせたのか?
つまり近代史の功罪はアメリカ建国の歴史を調べることによって可能となる、というのが私のスタンスである。
アングロサクソン人はアメリカ大陸に渡り、虐殺の限りを尽くした。インディアンは間もなく壊滅状態となった。なぜか? それはあまりにもインディアンが平和主義者であったためだ。人を疑うことを知らない彼らはアルコールを与えられ、酔っ払った状態で土地売買の契約書にサインをさせられた。文字を持たないインディアンはひとたまりもなかった。
アングロサクソン人が葬ったインディアン。彼らの思想に再び息を吹き込み、その物語性を復興させることが、キリスト教価値観に対抗する唯一の方途であると私は考える。
・安田喜憲
われらは教会をもたなかった。
宗教組織をもたなかった。
安息日も、祭日もない。
われらには信仰があった。
ときに部族のみなで集(つど)い、うたい、祈った。
数人のこともあった。
わずか2~3名のこともあった。
われらの歌に言葉は少ない。
それは日ごろの言葉ではない。
ときとして歌い手は、音調を変えて、
思うままに祈りの言葉をうたった。
みなで沈黙のまま祈ることもある。
声高に祈ることもある。
年老いたものが、ほかのみなのために祈ることもある。
ときにはひとりが立ち上がり、
みなが互いのために行なうべきことを
ウセン(※アパッチ族における創造主。大いなる霊)のために行なうべきことを、語ることもあった。
われらの礼拝は短かった。
チリカワ・アパッチ族 酋長
ジェロニモ(ゴヤスレイ)〈1829-1909〉
【『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス:井上篤夫訳(ランダムハウス講談社文庫、2007年)以下同】
・ジェロニモ
・『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム
原始のよりよき宗教性が脈動している。宗教コミュニティはタブーを共有するところに目的がある。タブーを様式化したものが戒律だ。ところがインディアンの信仰には断罪的要素が少ない。このあたりも研究に値すると思われる。
そして私が注目するのは「祈り」が願望を意味していない事実である。既成宗教なかんずく新興宗教は人々の欲望をくすぐり、財布の紐を緩くさせようとあの手この手で勧誘をする。あの世をもって脅し、この世の春を謳歌するのは教団のみだ。
インディアンの信仰はコミュニケーションを闊達なものにしていることがわかる。真の祈りは、願いとも誓いとも無縁なものであろう。聖なるものに頭(こうべ)を垂れ沈黙に浸(ひた)るところに祈りの本義があると私は考える。
インディアンが羽根飾りを身につけているのは、
大空の翼の親族だからだ。
オグララ・スー族 聖者
ブラック・エルク〈1863-1950〉
インディアンは誇り高い。彼らは「神と共に在る者」だ。彼らの言葉は具体性に満ちながらも高い抽象度を維持する。形而下と形而上を自在に往来する響きが溢れる。
わたしは貧しく、そのうえ裸だ。
だが、わたしは一族の酋長だ。
富を欲しいとは思わないが
子どもたちを正しく育てたいと思っている。
富はわれらによいものをもたらさない。
向こうの世界にもっていくことはできない。
われらは富を欲しない。
平和と愛を欲している。
オグララ・スー族 酋長
レッド・クラウド(マクピヤ=ルータ)〈19世紀後半〉
「富よりも平和を」――我々が完全に見失った価値観である。富は社会をズタズタにする。富は人間をして暗い道へと引きずり込む。富は光り輝き、社会に影を落とす。
古きインディアンの教えにおいて
大地に生えているものはなんであれ
引きぬくことはよくないとされている。
切りとるのはよい、だが、根こそぎにしてはならない。
木にも、草にも、魂がある。
よきインディアンは、大地に生えているものを
なんであれ引きぬくとき、悲しみをもって行なう。
ぜひにも必要なのだと、許しを請(こ)う祈りを捧げながら。
シャイアン族
ウッデン・レッグ〈19世紀後半〉
持続可能性のモデルがここにある。
・世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト
変化の激しい社会は変化によって滅ぶ。
それにしても彼らの相貌は力強い線で描かれたデッサンのような趣がある。眼光から穏やかな凛々しさを発している。
インディアンの言葉を編んだ本はいずれも散慢なものが多い。それでも開く価値はある。人間が放つ光は神にもひけを取らない。彼らの英知と悟性が21世紀を照らしてくれることだろう。