2012-07-14
苫米地英人
1冊読了。
35冊目『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2011年)/『なぜ、脳は神を創ったのか?』と『苫米地英人、宇宙を語る』を読んでおくと、より一層理解が深まる。更に小室直樹著『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』を開けば完璧だ。魔女狩りという炎の燃料になったのが『魔女に与える鉄槌』(1487年刊)であった。小室本でも詳しく取り上げている。苫米地はフェイスブックやツイッターが新たな『魔女に与える鉄槌』になり得ると指摘する。混沌としたインターネット領域を衆愚が覆い尽くすことだろう。苫米地本としては良心的な部類になるが、それでも各ページの上部に不要な余白がある(笑)。脳機能科学者というよりは、脳機能知能犯というべきか。
2012-07-13
フェミニズムへのしなやかな眼差し/『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー
フランス人漫画家によるエッセイ集。柔らかなフェミニズムが全編を貫いている。かといって単なる礼賛ではない。その「揺れ具合い」が絶妙なバランス感覚となっている。
ジョルジュ・ヴォランスキーを知ったのはジェローム・デュアメル著『世界毒舌大辞典』による。ヴォランスキーの言葉には吐き捨てるような激しさと軽妙さが同居している。しなやかな感性で現実をデフォルメしてみせるのが漫画家の仕事であるとすれば、軽やかな精神性は鞭のような強靭さの現れといってよかろう。
またたくまに、セックスの翳(かげ)りを見るだけでは物足りないという時代になってしまった。フランスでは発売禁止だが、ぼくがいくさつか持ってる「ハスラー」のようなアメリカの雑誌では、セックスそのものが、大きく口を開いたまま、広がって、らんの花やアネモネの風情よろしく幻想的に写されている。この露骨さにはたえられないと訴えてきた多くの女性たちに対し、編集長は雑誌の中で答えて、その立場を次のように正当化した。「男性たちがみたいと望み、みせることをこばまない女性たちがいるのだから、それをのせることにしているまでだ。それをとやかくいうのは、凝(こ)り固った偽善というものだ」彼はさらにつけ加えた。「それでは、ほんとうのポルノグラフィーはどんなものかお見せしよう」そして、ばらばらの死体のかさなったおそろしい戦争の写真を出版した。「みにくく、顔をそむけさせる、おそろしいもの、それこそが戦争ではないか。ポルノグラフィーを排斥する偽善者どもは、戦争に賛成しているのだ」と彼はことばを結んだ。
この理屈が正しいことは認めねばならないだろう。最近のニュースによると、この勇気ある男はその後神秘主義のとりこになり深く沈潜したが、車の中にいるところをピストルで撃たれ半身不随になったそうだ。アメリカで道徳問題に口をはさむのはやめた方がいい。
【『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー:萩原葉〈はぎわら・よう〉訳(講談社、1981年)以下同】
表現者だけが真の表現者を知る。ポルノ雑誌『ハスラー』の編集長はラリー・フリントである。
1978年3月6日、ジョージア州グイネットにてラリー自身がわいせつ事件の裁判に出廷する際、郡裁判所の付近で待ち伏せされラリーの弁護士ジーン・リーブスとともに銃撃を受けた。弁護士のリーブスは治療の甲斐もあって回復したが、ラリーはこの銃撃により下半身麻痺の後遺症が残った。その後白人至上主義の連続殺人犯ジョゼフ・フランクリンが襲撃を認める供述を行った。フランクリンは襲撃の理由についてハスラーに黒人と白人が性交している写真を掲載した為であると供述している。ジョセフの供述には不明確なところもありその信憑性を疑う声もあるが、ラリーは彼の供述を信じているというコメントを発表した。襲撃事件の後ラリーはキリスト教の信仰を止め、妻とともにロサンゼルスに移った。現在サンタモニカに居住している。
【Wikipedia】
ヴォランスキーは定型化されたフェミニズムに異を唱え、別の視点を提示する。欧米では教会が性を管理している。基本的には避妊も堕胎も認めない。
・妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ
つまりポルノは単なるエロ本ではなくて、神や国家に対する挑戦状的な意味合いを持っているのだ。「セックス、ドラッグ、ロックンロール」も同様で、薄っぺらな享楽趣味と読み誤ることなかれ。
国家は経済的に行き詰まると必ず戦争を志向する。自分たちの生産性が不十分になれば、よそからぶん取って帳尻を合わせる必要がある。とすると我々の仕事や日常は意図するしないにかかわらず、戦争を支えている側面がある。戦後の日本経済はアメリカの戦争と共に発展してきた事実を忘れてはなるまい。
・アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー
・組織化された殺人が戦争である/『最後の日記』J・クリシュナムルティ
戦争の暴力性を水で薄めたものが政治であると私は考える。
フランスのフェミニズム運動(ウーマンリブの運動)はやっと芽ばえたというところで、それは1968年の(五月革命の)あのバリケードの中から生まれでたのだったが、その最も大きな論戦は中絶と避妊についてだった。
そう、フェミニズムと運動の中では、その要求や闘争以上に重要なものがあったが、それはきみたち女性がその中で女同士の友情というものをみいだしたことだ。
人類の歴史は女性を蹂躙(じゅうりん)し続けてきた。それは今もなお続行中だ。長らく家事・育児を強いられた女性たちは社会進出する機会を奪われてきた。ゆえに連帯を築くこともかなわなかった。「友情」という指摘が胸に染みる。性差をテーマとした政治的闘争は女性を男性化するように見えることがある。ま、この印象自体が私の差別観かもしれないが。個人的には男と同じ土俵に立って闘うよりも、もっと女性らしいアプローチ法を目指した方がいいと思う。
独断的かもしれないけれど、ぼくには、女性が世の中を支配したら男ほどばかなことはしないだろうとは、はっきり答えられない。女は一見して男ほど軽はずみでなく、見栄っぱりでもなく、男のように名誉を欲しがらないというのは、男がいままで女を目立つ場所においていなかったからにすぎない、と思う。女性が一寸距離をとって物事を見られる立場にいるせいでそうなのだ、とおも(ママ)う。
ヴォランスキーは嘘偽りなく、さらりと本音を披露する。そしてこう続ける――
ぼくはファロクラット(男性優越主義者)でいるのをどうしてもやめられない。でも、ぼくはきみといっしょに闘うつもりだ。
その好漢ぶりやよし。
最後に『世界毒舌大辞典』から引用しておく。
自分が正しいと確信しているなら、間違っている人々と議論する必要はない。(ヴォランスキー)
フランス版愛の公開状―妻に捧げる十九章 (1981年)
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