2012-08-13

賽は投げられた

New Game - New Luck

 ルビコン川を渡らんとするまさにその時カエサルは叫んだ。「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。進もう、神々の待つところへ! 我々を侮辱した敵の待つところへ! 賽(さい)は投げられた!」と。あとは決まった運命を確認しにゆくだけだ。

 我々の脳は「因果という物語」に支配されている。サイコロの目は幸運と不運とに書き換えられる。ま、キリスト教の運命も仏教の宿命も似たようなものだ。どちらも形を変えた決定論と考えてよかろう。

 サイコロは物理的法則によって動くわけだがそれだけではない。必ず何らかの不確実性が働く。因果が絶対的なものであると考えるのは信仰者だけだ。

 全知全能の神様はラプラスの悪魔となり、ハイゼンベルク不確定性原理がこれを打ち砕いた。

 賽は投げられた――しかし、どの目が出るかは神様にもわからない。

俵万智~子を連れて西へ逃げる母を歌う



子を連れて西へ西へと逃げて行く…俵万智さんの歌と母の愛に感動

2012-08-12

「哲学:切り開くために」茂木健一郎(第1回応用哲学会、京都大学)


 質疑応答で茂木が激昂する場面がある。茂木は質問に込められたプロ市民的な意図を撃った。また、それ以前の質問がとにかく冗長で、一様に「自分」を語っている。茂木の怒りは「コミュニケーションの欠落」に向けられたものだと思う。司会者に「会を司る」緊張感がなく、登壇者に甘えた姿勢が会全体を台無しにしている。

2012-08-11

ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均


ルサンチマンの本質

 定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして【実際にそうであった】、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体制の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。この点を見逃すか無視してしまうと、ニーチェから単なる個人的な人生訓のようなものしか引き出せなくなってしまいます。
 さて、ルサンチマンに基づく創造ということに関してまず注目すべき点は、初発に否定があるという点です。つまり、他なるものに対する【否定から出発する】ということが問題なのです。価値創造が否定から始まる、だからそれは本当は創造ではなく、本質的に価値転倒、価値転換でしかありえないのです。
 狐と葡萄の寓話でいうとこうなります。狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき、狐が葡萄をどんなに恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそが【よい】生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。(「星の銀貨」のもつ特別な価値も、この観点から理解すべきです。)

【『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均〈ながい・ひとし〉(河出書房新社、1997年/河出文庫、2009年)】

 ルサンチマンというキーワードの覚え書きとして保存しておく。

 この言葉自体はキェルケゴール(1813-1855年)が確立した後、ニーチェ(1844-1900年)が鼓吹(こすい)し、マックス・シェーラー(1874-1928)が宣揚したとのこと。とすればナポレオン(1769-1821年)が近代の扉を開けて、ちょっと廊下を進んだあたりに「自我の台頭」があったと見ていいだろう。生が死によって逆照射されるように、自我は抑圧を覚えることで芽生えるのだ。

E・H・カー「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです」

 永井はああでもないこうでもないと言葉をこねくり回しているが、ルサンチマンとは「劣情を正当化する物語の書き換え作業」といって構わないだろう。

 ナポレオン法典(フランス民法典)の影響も見逃せない。つまりそれまでは道徳が手を縛っていたわけだが、法律が足をも縛ったわけだ。人々は問題解決の最終手段である「暴力」を奪われた。

 簡単に結論を述べてしまおう。ルサンチマンを抱くのは「暴力を振るえない」人々である。正義と暴力には親和性がある。否、正義とは形を変えた暴力といってよい。

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

Nietzsche 1875

セヴァン・カリス=スズキ(12歳) 環境サミット1992


 こちらもカナダ人の少女だ。セヴァン・カリス=スズキは当時12歳だった。堂々たる演説である。大人たちは皆、頭から冷や水をぶっかけられたような顔つきをしている。



あなたが世界を変える日―12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチわたしと地球の約束―セヴァンのわくわくエコライフ (ぼくら地球市民)セヴァン・スズキの私にできること-森のつくりかた守りかた

「腐敗した銀行制度」カナダ12歳の少女による講演
マララさん 銃撃事件の波紋~国連スピーチ