このマントラはよい。思わず一緒に口ずさんでしまった。アルボムッレ・スマナサーラはスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)シャム派の日本大サンガ主任長老を務める人物(Wikipedia)。著作も数多く刊行されている。
・仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
サンニャーシ、同胞愛の士そしてユートピア主義者のいずれも、明日のため、未来のために生きている。かれらは世間的な意味では野心的ではなく、栄光も富も人に認められることも望んでいない。しかしかれらは、もっと微妙な形で野心的なのである。ユートピア主義者は、世界を再生させる力があると彼の信じているある集団と自分を一体化させていた。同志愛の士は、精神的高揚を渇望しており、サンニャーシは自分の目標に到達することを願っていた。いずれも彼ら自身の成就、目標達成、自己拡張に汲々としていた。かれらは、そうした願望こそが、同胞愛を、そして至福を否定するものであることが分かっていないのだ。
いかなる種類の野心も――それが集団のため、自己救済、あるいは霊的(スピリチュアル)な成就のためであれ――行為を先へ先へと引き延ばすことである。願望は常に未来に関わるものであり、何かになりたいという願いは、現在において何もしないことである。現在(いま)は明日よりもはるかに重要な意義を持っている。【いま】の中に一切の時間があり、そして【いま】を理解することがすなわち、時間から自由になることなのである。何かに【なろうとすること】は、時間を、悲嘆を持続させることである。【なること】は、【あること】を含まない。【あること】は、常に現在におけることであり、【あること】は、変容の至高形態である。【なること】は、限定された持続にすぎず、根源的変容は、ただ現在のうちに【あること】のうちにのみある。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】
生命という言葉は魂と同義であるといってよい。その意味での生命は存在しない。我々が確認し得るのは生命活動、生命反応、生命現象のみである。諸法無我とはこれなり。生命は関係性(縁起)の中でのみ発揮される。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 9月 14, 2012
発見は老若男女を問わない。つまり本覚論である。発見を気づきに置き換えるとわかりやすい。発見する自由。/ロシア北部の11歳少年、「世紀のマンモス」を発見 写真2枚 国際ニュース : AFPBB News afpbb.com/article/enviro…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 7, 2012
無我、非我にならえば、本覚論は無理、非理なのだろう。覚り(悟り)とは「生の感受性」といってよい。生を味わい尽くす人をブッダと名づける。/超越論的認識とは何か systemicsarchive.com/ja/a/transcend…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 7, 2012
衣裏繋珠の喩えは本覚論である。/法華七喩 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95…
— 小野不一さん (@fuitsuono) 10月 7, 2012