・『管仲』宮城谷昌光
・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・言葉の正しさ
・正(まさ)しき道理
・「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
・不当に富むとそれが不幸のもとになる
・社稷を主とす
・『子産』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光
晏弱〈あんじゃく/弱は飾り弓の意〉(?-紀元前556年)・晏嬰〈あんえい〉(?-紀元前500年)父子の二代に渡る物語である。子の晏嬰〈あんえい〉は中国春秋時代における斉(せい)国の名宰相として管仲〈かんちゅう〉と並び称される人物。司馬遷をして『史記』で「このような人物が今の世にあるならば御者となって仕えたい」とまで言わしめた。晏子〈あんし〉とは通常、子の晏嬰〈あんえい〉を指すが、宮城谷は親子ともども晏子と呼んで描いている。
晏弱は武勇に秀でた大将軍であった。軍事的天才といってよい。莱(らい)という小国を攻める直前に配下の蔡朝〈さいちょう〉と南郭偃〈なんかくえん〉が晏弱邸を訪れる。二人は晏嬰〈あんえい〉があまりにも父親と似ていない姿に落胆を隠せない。10歳にはなっているようだが、5~6歳の幼子と見紛うほど小さかった。
蔡朝〈さいちょう〉は慎重な言葉づかいで「このたび、御尊父は将軍になられた。そこで、ご嫡男であるあなたは、留守中はどんなことに心がけなさるのか」と問うた。
「君公のご安寧を念じております」
晏嬰〈あんえい〉の声の大きさに、蔡朝〈さいちょう〉はおどろいた。蔡朝ばかりではない、南郭偃〈なんかくえん〉も目をみはった。
「君公の……、ふむ、それから」
父が戦場にいるときでも、まず君主のぶじを祈るという晏嬰〈あんえい〉の心の姿勢に感心した。蔡朝は、かれにしては優しい声を出した。
「父上のご安寧を念じております」
と、晏嬰〈あんえい〉はいった。
「嬰〈えい〉どの、それは、ご武運ということでは、ありませんか」
と、割り込むように南郭偃〈なんかくえん〉がいった。その声にするどさがある。童子に語りかける口調ではない。
晏嬰〈あんえい〉ははっきりと首をふった。
「いいえ、次に斉(せい)の民、すなわち兵の安寧を念じます。莱(らい)の民も安寧でいてもらいたいと思います」
「ほほう、すると、ご尊父の征伐は、なりたたない。なりたたなければ、なんのための将軍か、ということになりませんか」
蔡朝〈さいちょう〉はこの童子との問答に気を入れた。
晏嬰はつぶらな瞳(ひとみ)を蔡朝にむけたまま、小さな口から大きな声を放った。
「将軍はもともと君公にかわって蒙昧(もうまい)の民を正す者です。正すということは殺すこととおなじではありません。正さずして殺せば、遺恨が生じます。遺恨のある民を十たび伐(う)てば、遺恨は十倍します。そうではなく、将軍は君公の徳を奉じ、君公の徳をもって蒙(くら)さを照らせば、おのずとその地は平らぎ、民は心服いたしましょう。真に征すということは、その字の通り、行って正すということです。どうして武が要りましょうか」
蔡朝は目を細めた。
【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)以下同】
言葉の正しさが鞭となって私の背中を打ち、涙まで催させる。配下の二人は父親の心情を勝手に慮(おもんぱか)って子を試している。だが少年晏嬰〈あんえい〉にそうした技巧の陰は微塵もない。
晏嬰〈あんえい〉は大人になっても150cmに満たない身長であった。彼は生涯にわたって「小さな口から大きな声を放」ち、国家の行く末を案じては君主に諫言を行った。
このやり取りはまだ続く。
――とても小童の論とは思われぬ。まるで碩人(せきじん)のいいそうなことではないか。
と、蔡朝が考えているあいだに、南郭偃〈なんかくえん〉は晏嬰〈あんえい〉の利発さにかえって眉(まゆ)をひそめ、
「嬰どの。たしかに、そうにちがいない。が、それではあまりに清正(せいせい)ではないか。戦いは、そのようなものではない」
と、たしなめるようにいった。晏嬰〈あんえい〉は南郭偃〈なんかくえん〉をみつめ、
「将軍は、古代では、神気をさずかって征(ゆ)く者です。将軍が清正でなければ、神気はさずからず、無辜(むこ)の民を殺すことになります。父上はそのような人ではないと思います」
と、まっすぐにいった。
突然、蔡朝は高らかに笑った。
「やめておけ、南郭子。わしは晏子〈あんし〉の家のために大いに祝いたくなったぞ」
学問とはかくあるべきだ。原理や道理は人間の差異を乗り越える力を有する。
正しき言葉は立つ。樹木のように。そして気魄(きはく)が言葉を押す。風のように。
晏嬰〈あんえい〉は後に民の間で絶大な人気を博すようになる。敵が殺すことをためらうほどの名声であった。2500年後に私の胸を打つのだからそれも当然だ。
彼は孝を尽くし、質素倹約を心掛けた。「三十年一狐裘」「豚肩豆を掩わず」との故事成語となって今に伝わる。
年が明け、静かに問う。2500年後に名を残す現代人が果たして何人あるか、と。
・晏子:中国百科
・晏子について:塵核形成
・晏子列伝