2014-01-14

クリシュナムルティ『静けさの発見』



静けさの発見―二元性の葛藤を越えて (クリシュナムルティ著述集)

あらゆる事象が記号化される事態/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール


知の強迫神経症
・あらゆる事象が記号化される事態

『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール

 西欧社会がおこなった大事業は、世界中を金儲けの場にして、すべてを商品の運命に引き渡したことだ、と言われる。国際的な美的演出、世界のイメージ化と記号化による世界中の美化もまた、西欧社会の大事業であったと言えるだろう。現在われわれが、商品レヴェルの唯物論を越えて立ち会っているのは、宣伝とメディアとイメージをつうじてあらゆる事象が記号化される事態だ。もっとも周辺的(マージナル)で、凡庸で、猥褻なものさえもが美化され、文化となり、美術館に入ることができる。あらゆるものが言葉をもち、みずからを表現し、記号としての力あるいは記号の様態を帯びる。システムは、商品の剰余価値によってよりはむしろ、記号の美的剰余価値によって機能する。

【『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール:塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)】

「メディアはメッセージである」とマーシャル・マクルーハンは書いた(『メディア論 人間の拡張の諸相』原書は1967年)。これに対して小田嶋隆が「メディアは“下水管”に過ぎない」と反論している(『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』1995年)。きっとどちらも正しいのだろう。マクルーハンはメディアを祭壇に仕立てようと試みた。無神論者の小田嶋からすればそれは欲望が排泄(はいせつ)される下水管にすぎないということだ。

 メディアは広告メッセージである。元々は信仰メッセージであった。印刷革命はグーテンベルク聖書に始まる。プロテスタントが広まったのも「安価で大量の宣伝パンフレット」(『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一)を紙つぶてのように放ったからだ。

 メッセージは信仰から広告へと変わった。神は死んだが紙はまだ生き残っている。

「西欧社会がおこなった大事業」の筆頭は奴隷貿易であろう。

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔

 彼らは人間を商品に変えた。それ以前から労働力が商品であったことを踏まえると「人間の家畜化」(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)に真っ直ぐ進むのは当然だ。

 メディアはメッセージである。権力者からの。そう。ビッグ・ブラザーだ。マス(大衆)に向かって開くメディアは視聴する人々に何らかの基準となって行動や判断を促す。子供の時分から「昨日のあれ、見た?」「オー、見た見た。面白かったよなー」というやり取りが普通になっている。

 私が幼い頃は一家に一台が標準であった。ブラウン管の前にカーテンや扉がついたテレビも存在した。今思うとあれは確かに祭壇の雰囲気を漂わせていた。そして一家が揃って同じ番組を観ていたのだ。

 バブル前夜、価値観は多様化した。今から30年ほど前のことだ。若者は老舗メーカーよりも新興ファッションブランドを選んだ。そして“大衆消費社会は「モノの消費」から「情報の消費」へ”(『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』広井良典)と向かう。

 記号や情報というと小難しく思えるが何てことはない。孔雀の羽みたいなもんだ。結局、高度情報化によって人間の情動がセンシティブになるのだろう。

 21世紀は人間が記号化される。私は単なるIDと化す。その時、世界はこんなふうになっているだろう。

Cildo Meireles作「Fontes」は日蓮へのオマージュか?

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その詐欺電話、中国発 拠点に日本人十数人/報酬、詐取額の5% 元組員が証言


すべての犯罪を立証する司法システムは永遠に存在しない

2014-01-13

まざまざと蘇る記憶/「メロディー」玉置浩二


 昔は何とも思わなかった歌が、突然心を揺さぶることがある。

 例えばJ-WALKの「何も言えなくて…夏」。ヒットした当時は鼻にもかけなかった。ところが数年前に聴いた時、「時がいつか 二人をまた/初めて会った あの日のように導くのなら」というワンフレーズに私の心は激しい反応を示した。

 わかっている。ただ単に自分の経験と歌詞が偶然マッチしただけであることは。だがメロディーが感情を増幅してやまない。




 この歌もそうだ。

 あの頃は なにもなくて
 それだって 楽しくやったよ
 メロディー 泣きながら
 ぼくたちは 幸せを 見つめてたよ

 確かにそうだった。あの頃は……。胸を刺す痛み。取り返しのつかない悔い。今流れる別々の時間。

 数々の場面がフラッシュバックしては消え去る。思い出されるのは楽しいことばかりだ。

 ありがとう。ごめん。またな。

田園 KOJI TAMAKI

日本に真のジャーナリズムは存在しない/『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝、藤原肇


『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 ・強靭なロジック
 ・日本に真のジャーナリズムは存在しない

『藤原肇対談集 賢く生きる』藤原肇

正慶●メディアが社会を支配するメディアクラシーも進んでいます。したがって、コマーシャリズムとセンセーショナリズムに支配されるマスメディアが改まらない限り、日本に福音はもたらされないような気がします。

藤原●しかも、日本の場合、新聞社がテレビを支配する構造になっています。本来、新聞とテレビはまったく異質の媒体だから、それぞれ独立した形であるべきですが、日本はテレビ局が新聞社の天下り先になっている。こんな構造がまかり通っている間は、日本に真のジャーナリズムは存在しないと言えます。

【『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝〈しょうけい・たかし〉、藤原肇(清流出版、2003年)】

 ジャーナリストやアナウンサーがもてはやされる時代は嘆かわしい。メディアへの露出度が権威と化した時代なのだろう。テレビに「ものを作っている」ような顔つきをされると片腹が痛くなる。お前さんたちは単なる加工業者にすぎない。

 報道とは世の中の出来事を知らしめることであるが、「道」の字に込められた願いはかなえられているだろうか? 報道は偏向することを避けられない。なぜなら観測者は複数の位置に立つことができないからだ。ところが昨今のジャーナリストは少々の取材で「すべてを知った」つもりになっている。まるで神だ。

 権力を監視する役割を担うマスコミが既に第四の権力と化している。テレビは許認可事業で広告収入によって支えられている。当然のように政治家・官僚&業界とは持ちつ持たれつの関係となる。そしてテレビはあらゆる人々をタレント化する。最も成功したのは小泉元首相であろう。繰り出されるワン・フレーズはあたかも優れた一発芸のようであった。多くの視聴者が求めているのは事実でもなければ真実でもない。単なる刺激だ。我々は強い反応を求める。そう。涎(よだれ)を催すベルが欲しいのだ(パブロフの犬)。

 マスメディアは改まることがない。もちろん我々もだ。幸福とは十分な量のパンとサーカスを意味するのだから。

「真のジャーナリズム」を求めるところに依存が生じる。むしろ「ものを見る確かな眼」を身につけながら、情報リテラシーを磨くべきだろう。

 存在しないのはそれだけではない。真の政治家もいなければ、真の教育者もいなければ、真の宗教家もいない。真の奴隷は存在するようだが。



立花隆氏の基調講演(1)テーマ「ジャーナリズムの危機」
時代に適した変化が求められるジャーナリズム