2014-02-02

ベトナム戦争とサンドクリークの虐殺/『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂


ソンミ村虐殺事件
・ベトナム戦争とサンドクリークの虐殺

 長いテキストであるがどうか慎重に読んでいただきたい。区切ろうと思ったが、やはりそのまま紹介した方がいいと判断した。

 ボディ・カウントという言葉がある。殺したベトナム人の数である。米軍の戦果を示す統計的数字である。ある者は、ヘリコプターの胴体に、ベトナム人の帽子をあらわす三角の長い列を、ていねいに書込んで行く。ある者は、ジープのラジオ・アンテナに、切取った耳を、多数串ざしにする。ある人間集団を、虫けらのように殺戮し得るためには、まずその人間達が、虫けらでしかないことを自らに説得する必要があろう。米兵達は、嫌悪と侮蔑をこめて「よいグーク(ベトナム人)は死んだ奴だけ」(Only good gook is a dead one)という。アメリカのインディアン達は、この言葉が Only good Indian is a dead one という、シェリダン将軍の言葉に、遠く呼応することを、苦渋の中で確認する。彼等もかつて「虫けら」であった。そして、現在、彼等が、もはや虫けらとは見なされていないという確証はない。
 1864年11月、ブラック・ケトルと、ホワイト・アンテロープに率いられた約700人のシャイエン・インディアンの集団は講和の意図をもって、コロラドのフォート・リオンにおもむいたが、フォートの白人達は、シャイエンの接近を嫌い、その北40マイルのサンド・クリークの河床で沙汰を待つことを示唆した。ブラック・ケトルは、そのキャンプが、白人に対して、敵意を持たぬことを示すために、自分のテントのまえに大きなアメリカ国旗をかかげ、人々には、白人側からの攻撃のおそれのないことを説いた。これが、二人の指導者の状況判断であった。
 そのインディアンのキャンプに対して、11月29日払暁、シビングトン大佐の指揮する約750の米兵が突如としておそいかかり、老若男女を問わず、殺りくした。攻撃を前に、シビングトンは、「大きな奴も小さいのも全部殺して、スカルプせよ。シラミの卵はシラミになるからな(Nits make lices)」と将兵に告げた。ここで、スカルプとは、動詞としては、頭髪のついた頭皮の一部をはぎ取ることを意味し、名詞としてはボディ・カウント用の軽便確実な証拠としてのその頭皮、あるいはスラング的には、戦勝記念品一般を意味する。インディアン討伐に初参加の若い兵士達も多く、彼等にとって、後日の武勇談のトロフィーが必要でもあったろう。兵士達は、その指揮官の期待をはるかに上まわる、異常な熱狂をもってインディアンにおそいかかったのであった。
 しかし、インディアンの抵抗もまた熾烈をきわめた。全く絶望的な状況のもとで、彼等は鬼神のごとく反撃した。ホワイト・アンテロープは、直ちに自己の状況判断が甘すぎたことを覚ったが、武器をとることを否み、撤退のすすめに応ぜず、傲然と腕を組んで、松の木のように立ちつくし、朗々と「死の歌」を歌いつづけた。「悠久の大地山岳にあらざれば、ものなべてやがて死す」一発の銃弾が、老酋長の魂を大空の極みへ送った。抵抗は、払暁から夕刻にまでおよんだ。その終焉をたしかめてから、兵士達は、トロフィーを求めて、累々たるインディアンの死体に殺到した。ホワイト・アンテロープのなきがらを、彼等はあらそって切りきざんだ。スカルプはもちろん、耳、鼻、指も切りとられた。睾丸部を切りとった兵士は、煙草入れにするのだと叫んだ。それらの行為は女、子供にもおよんだ。女陰を切りとって帽子につける者もいた。乳房をボールのように投げ合う兵士もいた。大人達の死体の山からはい出た3歳くらいの童子は、たちまち射撃の腕前をきそう、好個の標的とは(ママ)なった。シビングトンは、その赫々たる戦果を誇らかに報告した。「今早朝、わが部隊は、戦闘員900ないし1000を含むシャイエン族の一群を攻撃し、その400ないし500をせんめつした」実際の死者総数は遂に確立されることがなかった。もっとも確かと思われる推定によれば、キャンプにあったインディアンの総数は約700、そのうち200人が戦闘員たり得る男子であり、他は老人、婦女子、幼児であった。その6~7割が惨殺されたのである。デンバー市民は、兵士達を英雄として歓呼のうちにむかえ、兵士達はそれぞれに持ちかえったトロフィーを誇示した。
 サンド・クリークの惨劇の再現を、我我(ママ)は、1969年製作の映画『ソルジャー・ブルー』に見ることが出来る。もし、記述の信ぴょう性をたしかめたければ、700ページにのぼる、米国議会の同事件調査報告書をひもとくこともできる。

【『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂(朝日選書、1974年)】

 鍵括弧の後に句点がないのもそのままとした。ボディ・カウントとのキーワードで鮮やかにベトナム戦争とインディアン虐殺をつなげている。どうやらこの文章の構成そのものが『ソルジャー・ブルー』に準じているようだ。

映画『ソルジャー・ブルー』を歴史する : 『私の歴史夜話』


『ソルジャー・ブルー』(Soldier Blue)は、『野のユリ』で知られるラルフ・ネルソン監督の1970年公開の映画。同年12月に公開された『小さな巨人』とともに、西部劇の転換点に位置する作品である。米国史の暗部を提示することで、1960年代のベトナム戦争でのソンミ村事件へのアンチテーゼを掲げた映画だとも云われている。また、これ以降ネイティブ・アメリカンを単純な悪役として表現することがなくなった。

Wikipedia

 以下のページも参照せよ。

ソルジャー・ブルー①サンドクリークの大虐殺の史実 - 西部劇が好き!!ジョン・ウェイン 私のヒーローインディアン書庫
モルモン教/教義への疑問点/その3/迫害の一部

 ベトナム戦争で定着した「ボディカウント」(死者数)という言葉も、こうした数値への盲信を如実に反映するものである。

文化は変えられるのか? - Civic Experience

 私は本書を再び手に取った。どうしても読まざるを得なくなった。藤永茂は量子化学を専攻する物理化学者だ。彼はなぜインディアンについて書いたのか。書かずにいられなかった理由を私は知りたい。


(ブラック・ケトル)

「2014年はサンドクリーク虐殺の150周年」(ノースウェスタン大学、創設者のサンドクリーク虐殺への関わりを調査/アイヌ遺骨調査 - AINU POLICY WATCH)であった。私は死後の存在を否定する立場であるが、シャイアン族の怨念が吹き荒れることを切に願うものである。


(サンドクリーク/画像クリックで拡大)

 メイフラワー号でアメリカへと渡ったピルグリム・ファーザーズたちが示したのは、信教の自由を求める情熱がいとも簡単に暴力へと相転移する事実であった。元々宗教という宗教は常識や社会通念を破壊する力を秘めている。

 アメリカインディアンの社会は、完全合議制民主主義であり、「首長」や「族長」のような権力者は存在しない。白人が「指導者」だと思っている「酋長」(チーフ)は、実際には「調停者」であって、「部族を率いる」ような権限は持っていない。インディアンは「大いなる神秘」のもと、すべてを「聖なるパイプ」とともに合議で決定するのであって、個人の意思で部族が方針を決定するというような社会システムではない。

 しかし白人たちは、インディアンとの条約交渉の際に、「酋長」を「代表」、「指導者」だと勘違いして、彼らと盟約することによって全部族員を従わせようとした。

Wikipedia

『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム

 インディアンは平和でかつ民主的であった。だから殺されたのだ。ここに救い難い人間の矛盾が存在する。自然の摂理は適者生存である。獰猛(どうもう)で狡猾な種ほど生存率が高まる。アメリカを封じ込めるほどの知恵者が現れない限り、我々の世界が救われることはないだろう。

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2014-02-01

ソンミ村虐殺事件/『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂


・ソンミ村虐殺事件
ベトナム戦争とサンドクリークの虐殺

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

 美しい朝であった。1968年3月16日午前8時、南ベトナム、ソンミの小村落に近い稲田に着陸した、一群のヘリコプターからおり立った約80人の米軍兵士は、何らの抵抗も受けることなく村落に入り、その総人口700人ほどのうち、450人を虐殺した。すべては老人、婦女子、幼児であり、若い男はほとんど見当(ママ)なかった。捕獲した火器は小銃3挺であった。
 カリー中尉ひきいる最初の2小隊が村落の南部の小さい広場に入って行ったとき、村落の間にまだパニックの気配はなかった。朝餉の時であり、家の前に火をしつらえてその用意をしている家庭がいくらも見えた。数十人の村民たちは、何の抵抗も示さず、米兵の強いるままに広場に集ったが、やがて米兵が無造作にM16ライフル銃弾を打ちこみはじめると、女たちはむなしくも、子供たちを身でかばいつつ「ノー・ベトコン、ノー・ベトコン」と叫びながら、くずおれて死んで行った。他の一群は、灌漑用の溝の中に追い集められ、銃撃を浴びた。あるいは、村はずれのたんぼ道で折り重なって死んで行った。米兵のある者は、家の中の人々に、外からたっぷり銃撃を浴びせ、そのあと家屋に火を放った。牛を殺し、つみ上った死体の下にうずもれて、たまたま死をまぬがれる者もいた。一人の女が、死体の山の中から、まだ生きている赤ん坊を掘り出しているのを見つけた米兵の一人は、まず女を銃殺し、次に赤ん坊を殺した。至近距離からの銃弾は、その女の背が空中に飛び散るほどに強力であった。また、他の米兵は、弟と思われる子供をかばいつつ逃げようとする少年を、あぜ道にとらえ、腕前もたしかに射殺した。少年をたおれつつも、なお弟をかばう風にして死んだ。これらの事実を、我我は参加者の直接の証言によって知る。従軍カメラマンによる多数のカラー写真の中に少年の高貴な死を見ることもできる。

【『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂(朝日選書、1974年)以下同】

 入力しながら胸が悪くなった。ソンミ村虐殺事件である。「少年の高貴な死」は英語版のWikipediaに掲載されている(3枚目)。

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 インディアンを虐殺したアメリカ人のDNAは確かに受け継がれているのだろう。狩猟というよりは金魚すくいも同然だ。ひょっとすると面白半分にやったのかもしれない。彼らはこれを「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」と偽って報告した。死人に口なしというわけだ。しかしアメリカにはまだジャーナリズムが生き残っていた。

 こんなことは米兵からすれば朝飯前だ。彼らの残虐さには限度がない。

米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

 かような国が世界の保安官として君臨しているのだから平和になるわけがない。もしも私が米兵であったなら、迷うことなく祖国に対して自爆テロを行う。アメリカはいつの日か必ず滅びゆくことだろう。インディアンを虐殺した時点で国家の命運は決している。

 しかし、ソンミは、アメリカの歴史における、孤立した特異点では決してない。動かし難い伝統の延長線上にそれはある。



ソ連によるアフガニスタン侵攻の現実/『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学
残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル

2014-01-31

橋下市長発言要旨「朝日や毎日のような主張を言えば政治的中立害さない、というのはおかしい」


橋下市長発言要旨「朝日や毎日のような主張を言えば政治的中立害さない、というのはおかしい」(1/6ページ) - MSN産経west


【NHK問題については9分38秒から】


プリシラ・アーン / Priscilla Ahn


 先ほど見つけたアメリカ人シンガーソングライター。声が美しい人は多いが、これほど柔らかな声質は珍しい。











ナチュラル・カラーズGood Dayホーム~マイ・ソング・ダイアリー

2014-01-30

ラス・カサスとフランシスコ・デ・ビトリア(サラマンカ大学の神学部教授)/『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤


 インディアスに滞在した経験のない学級の徒ビトリアは、征服者フランシスコ・ピサロがアンデス山中の高原都市カハマルカで策を弄してインカ王アタワルパを捕らえ、大勢のインディオを殺戮したことや、約束どおり身代金として莫大な量の金・銀財宝を差し出したアタワルパを絞首刑に処したことを知って、ペルー征服の正当性に疑義を表明し、1539年1月にサラマンカ大学で『インディオについて』と題する特別講義を行った。ビトリアはその講義で、征服戦争の実態に関する情報を頼りに、トマス・アキナス(ママ)の理論に依拠して、ローマ教皇アレキサンデ6世の「贈与大教書」をスペイン国王によるインディアス支配を正当化する権原とみなす公式見解に異議を唱えたばかりか、当時主張されていたそれ以外の正当な権原(皇帝による譲与、先占権、自然法に背馳するインディオの罪など)をことごとく否定した。しかし、彼はそれにとどまらず、独自の「万民法理論」をもとに、新しくスペイン人による征服戦争を正当化する七つないし八つの権原を導いた。さらに、ビトリアは征服戦争の行き過ぎを防ぐために、同年6月、場所も同じサラマンカ大学で『戦争の法について』という特別講義を行った。

【『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤〈そめだ・ひでふじ〉(渓水社、1995年)以下同】

 本書によればフランシスコ・デ・ビトリアは後に「国際法の父」と謳われる人物だ。戦争とは人間の残虐さを解放する舞台装置である。殺し合いが目的なのだから、非道な残虐行為が必ず行われる。何をしようが相手を殺せばわからない。味方の国であっても信用ならない。

「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」

 ノルマンディー上陸作戦は1944年のこと。インディアン虐殺はその400年前である。人類史の大半は残酷というペンキで塗られている。

 ラス・カサスは「1502年に植民者としてエスパニョーラ島に渡航(中略)1514年にエンコメンデロの地位を放棄してインディオ養護の運動に身を捧げてから修道請願をたててドミニコ会士になるまで(1522年)、二度にわたってスペインへ帰国し、当局にインディアスの実情を訴え、その改善策を献じた。

 そのラス・カサスが1540年に帰国した(8度目の航海)。この時の報告内容が1522年に発表された『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の母胎となった。

ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス

 不思議な時の符合である。閉ざされたキリスト世界から開かれた人間が登場したのだ。二人の存在はどのような環境に置かれようとも人間は自由になれることを教えてくれる。そして彼らが殺されなかった事実が歴史の潮目が変わったことを伝える。

 モトリニーアはスペイン人植民者の虐待からインディオを保護することに尽くしたが、征服戦争の犠牲となったインディオの死を「邪教を信じたことに対する神罰」と解釈し、むしろインディオが日々改宗していく様子に感激して、常に改宗者の数を誇らしげに記し、新しいキリスト教世界の建設に大きな期待を表明した。しかし、常にキリスト教化の名のもとにインディオが死に追いやられた事実の意味を問いつづけるラス・カサスはそのような歴史認識を抱くことができなかった。

 これが「普通の宗教的態度」であろう。信仰とは教団ヒエラルキーに額(ぬか)づいてひたすら万歳を叫ぶ行為だ。教団はサブカルチャー装置である。社会通念とは別の価値観を提供し、下位構造の中で競争原理を打ち立てる。更に教団内部でサブカルチャーを形成することで、信者に存在価値・役割・使命・生き甲斐を与えるのだ。資本無用のギブ・アンド・テイク。しかも黙っていてもお布施が入ってくるシステムだ。ああ、教祖になっておけばよかった。

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 罰(ばつ)や罰(ばち)を持ちだして人間の罪悪感に訴える宗教には要注意。「自分こそ正しい」と思い込んでいる彼らにこそ天罰が下されるべきだ。

 ラス・カサスとビトリアの言葉が世界を変えたかどうかはわからない。ただ私を変えたことは確かだ。