2014-03-07

香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
香月泰男のシベリア・シリーズ
・香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 シベリヤ抑留者の数だけ多くのシベリヤがある。私は全シベリヤ抑留者の気持を代弁してやろうなどというような大それた望みは持ったことがない。これからも持とうとは思わない。私には、香月泰男のシベリヤしかない。ごく個人的な体験を語る気持で、それを画布に表現してきた。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】

「代弁」してしまうと政治の臭いが立ちこめる。私が内村剛介を嫌う理由もそこにある。国家を糾弾するならまだしも、批判の眼差しは同じシベリア抑留者にも向けられる。収容所では共産主義者が優遇されていた(Wikipedia)。内村もその一人であったのかもしれない。


 生まれてから58年間、私はついに絵描きでしかなかった。軍隊にあっても、シベリヤの収容所にあっても、私は兵隊になりきり捕虜になるきることができなかった。帝国陸軍も、ソ連も、私をそこまでねじふせることはできなかった。
 私はいつも生きのびてやろうと思っていた。兵隊のときは死ぬこともあろうかという覚悟はあった。しかし、よし死ぬことがあろうとも最後には銃を握っては死なず、絵筆を持って死ぬつもりだった。帝国軍人としては死にたくないと思った。出征するとき持ってでた絵具箱は、帰国するまでかたときも手放したことがない。
 一人の絵描きとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。生命そのものが危険にさらされている瞬間にすら、美しいものを発見し、絵になるものを発見せずにはいられなかった。頭の中に画面を想像してはモチーフをそこにおさめるための構図を考えつづけていた。人の死に直面しているときでも、頭の中でそんな作業をくりかえしている自分に、絵描き根性のあさましさを感じて思わずぞっとするときもあった。しかし、この絵描き根性があったがゆえに、ほかの兵隊たちが完全な餓鬼道に陥っているようなときにも、一歩ひいたところに身を持していることができたのだろう。絵描きであったことは、私の特権であり、私の幸せであったと感謝している。

 本書で明らかにされているが香月泰男の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)は立花隆の手による聞き書きであった。どおりで文章がこなれているわけだ。今風にいえばゴーストライターである。ただし言うまでもないことだが、香月なくして『私のシベリヤ』は成立しない。

 アウシュヴィッツ強制収容所を生き延びたV・E・フランクルは「心理学者としての視点」を失わなかった(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル)。フランクルは人間真理を観察し、香月は絵のモチーフを探し続けた。距離を置かねば観察することはできない。そして距離の長さこそが抽象度となるのだ(『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人)。何かを「見る」時、精神は対象へ傾注し、自分という存在は後方へ下がる。彼らは目の前に鏡があれば自分自身をも観察したことであろう。その哲学的態度が個人的な感情を斥(しりぞ)けるのだ。

 それにしても何という矜持(きょうじ)だろう。自分自身を知る者の強みがここにある。香月にとって絵を描く行為は職業ではなかった。生きることそのものであった。彼は金額に換算される芸術とは無縁であった。

 シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している。私にとってシベリヤとは一体何であったのか。私の襲いかかり、私を呑みこみ、私を押し流していったシベリヤを今度は私が画布の中にとりこみ、ねじふせることによってそれをとらえようとする。肉体がシベリヤを体験しているとき、精神がその意味を把握するには状況はあまりにも苛酷であり、あまたりにもめまぐるしく変りつつあった。私の軍隊生活と俘虜生活とはあわせてたかだか4年半のことでしかない。すでにその4倍の時間を、4年半の体験を反省することに費やしている。


 短い抜き書きでやめようと思ったのだが書かずにはいられない。私が敬愛してやまない鹿野武一〈かの・ぶいち〉が生きたシベリアを知っておく必要があるからだ。シベリアの大地から香月泰男〈かづき・やすお〉や石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が生まれた。だが鹿野武一は抑留以前から鹿野武一であった。香月が絵描きであることをやめなかったように、鹿野は終生にわたって鹿野自身であった。たぶん他の抑留者に比べて過去の記憶に苛まれることも少なかったことだろう。

 私が忠実でありたいと思うのはそこのところだ。私はシベリヤをむしってみる。ちぎってみる。色をはぎとってみる。枯させれてみせる。
 シベリヤをというよりは、シベリヤにあった私をというのが正しいかもしれない。感性の記憶を微細にたどっていく。例えば、見はるかすツンドラ地帯を夜となく昼となく走りつづけたあの護送列車の中で、宵闇が迫り、床に腰をおろし、膝を両手でかかえこんだまま、見るともなく目をやっていた自分の泥だらけの軍靴が、やがてそれと見分けもつかなくなり、■(くろ)い一つのかたまりと化していったとき、私がほんとうに見ていたものはんなんだったのだろうか。夜のガランとしたアトリエの中で一人画布に向いながら私はそれをもう一度見ようとする。

 それは巨大な穴であったのかもしれぬ(石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治)。「■(くろ)い一つのかたまり」とは石原が書いた「完全に『均らされた』状態」(『石原吉郎詩文集』)と同じだ。香月は人類にひそむ巨悪を見たのだろう。それはあまりにも大きすぎて確かな全体像を結ぶことがなかったに違いない。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
立花 隆
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2014-03-06

敗れざる者たちへ/『「ありがとう」のゴルフ 感謝の気持ちで強くなる、壁を破る』古市忠夫


 震災前の私は、ごく普通のゴルフ好きの写真屋のおっちゃんでした。震災から復興して、またゴルフができるようになったとき、私は自然にコースに向かって一礼するようになりました。生き残って大自然のコースに立ち、球が打てる。その幸せに自然と頭が下がるようになったのです。もともとの積極的な心に、感謝の心が加わった瞬間です。ラウンドしていると、ときどき自分の実力以上のエネルギーを感じることがあります。20代のエリートに勝ち、プロテストに合格したときもそうですし、シニアツアーのシード選手になれたときもそうです。これは「ありがとう」の気持ちの賜や、と思っています。

【『「ありがとう」のゴルフ 感謝の気持ちで強くなる、壁を破る』古市忠夫〈ふるいち・ただお〉(ゴルフダイジェスト新書、2006年)以下同】

 ソチ・オリンピックは見ていない。ただし男子フィギュアの100点超えと浅田真央のフリーだけは動画で視聴した。17歳の期待の星・高梨沙羅もメダルには手が届かなかった。マスメディアの調子はメダルを巡る悲喜こもごもが中心で戦争の戦果を報じる昔の新聞を思わせた。勝負は時の運である。敗北の味を知らぬ者がアスリートとして大成することはないし、人間の幅を広げることもできない。「 尺蠖(せっかく/シャクトリムシ)の屈するは伸びんがため」と故事にある通りだ。

 古市忠夫は60歳でプロゴルファーになった人物だ。

『還暦ルーキー 60歳でプロゴルファー』平山譲

 人は「失ったもの」が多ければ多いほど、「当たり前であること」や「ありのままであること」に感謝できるのだろう。古市が「コースに向かって一礼する」ようになったのはプレイスタイルなどといった表面的なことではない。生きる姿勢が変わった証拠だ。人間が本当に変わる時は「自(おの)ずから改まる」ものである。そこに他人の言葉や生きざまがあったとしても、それは触媒に過ぎない。

「ありがとう」の気持ちとは、「有り難い」現実への感謝である。復興に奔走した古市の偽らざる本音であろう。生それ自体に感謝できれば人は自由であり、人生は幸福といえる。

 しかし、私は思います。重要なのは、「どれだけ頑張ったか」ではないんとちゃうのかいなと。オリンピックに出場するような選手は、誰かて頑張っているでしょう。誰かて人知れず努力しとると思います。もちろん、頑張ることも大切ですが、それより肝心なのは、頑張れる環境そのものに対して「どれだけ感謝しとるか」ということではないでしょうか。
 同じ努力をして、同じ才能や技術を持っている選手が、僅差で勝ったり、負けたりするケースがたくさんあります。私には、金メダルと銀メダルの差は、そのまま心の差であるように思えてなりません。頑張らせてくれた社会、コミュニティ、家族があってこその自分と、心から思えたかどうか。勝利の女神は「頑張りました」という選手ではなく、「頑張らせてもろて、ありがとうございます」という選手に、微笑むような気がします。そやから、これからも私は、感謝の気持ちで闘わせてもらおうと思うとります。

 勝って奢(おご)る者がいる。敗れて腐る人も多い。勝ち負けで変わるのは商品価値であって人間ではない。五輪は終わった。過ぎてしまえばもう過去のことだ。もう次の戦いが始まっている。敗れても敗れても尚、起ち上がる精神にアスリートの魂がある。そして深き感謝の心が必ずや人生の勝利を決定づけることであろう。敗れざる者たちへ。今、万感の思いを込めて伝えよう。「ありがとう」と。

「ありがとう」のゴルフ―感謝の気持ちで強くなる、壁を破る (ゴルフダイジェスト新書)

「薯粥」(『一人ならじ』所収)山本周五郎

ロシアを罵倒したケリー米国務長官の背後には国有財産を私有化し、国民をIMFへ差し出す富豪たち


 ある国の反政府勢力を経済的に支援し、その国のファシスト集団を軍事訓練、さらに国外から傭兵を送り込んで争乱を演出、選挙で成立した政権を倒し、自分たちに都合の良い「暫定政権」を作ること、つまりクーデターを容認、しかもそのクーデターに対抗するために軍隊を使おうとする国に「軍事介入の中止」を求める人たちがいる。

櫻井ジャーナル

2014-03-05

文庫化『SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか』スティーヴン・ストロガッツ:蔵本由紀監修、長尾力訳(早川書房、2005年/ハヤカワ文庫、2014年)

SYNC: なぜ自然はシンクロしたがるのか (ハヤカワ文庫 NF 403 〈数理を愉しむ〉シリーズ)

 完璧にシンクロして光る無数のホタルは、どこかに指揮者がいるわけではない。心臓のペースメーカー細胞と同じで、無数の生物・無生物はひとりでにタイミングを合わせることができるのだ。この、同期という現象は、最新のネットワーク科学とも密接にかかわりをもち、そこでは思いもよらぬ別々の現象が、「非線形科学」という橋で結ばれている。数学のもつ驚くべき力を絶妙の比喩を駆使して紹介する、現代数理科学の最前線。

 スティーヴン・ストロガッツはスモール・ワールド現象の権威。

『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン

2014-03-04

目撃された人々 55