それに、「私」が経験していることとは、それが何かの意味を持つ以上、実は「誰か」の経験であることのたどり返しであるという部分も大きい。
そもそもが、本当に、「私」に独自のものとして見ていることなどあるのだろうか。「私」が何かを感じていても、その感じ方自身、「他人」にょってどうしようもなく刷り込まれたものでしかないのではないか。また「私」の経験とは、ある意味で「他人」の経験である「過去」の「私」によって感じられた事柄が、いかんともしがたく介在している、そうしたものではないか。その意味で見ることや感じることは、「私」のコントロールを、はじめから外れているのではないか。
こうした事態を、哲学はさまざまな仕方で論じている。西田と同時代のいくつもの思考が、「私」以前に作動しているような、こうした場面を解き放っている。
【『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉〈ひがき・たつや〉(講談社現代新書、2005年)】
このくどい文章も西田の影響を受けているのだろう。「その感じ方自身」は自体とすべきだ。苫米地英人がもっと明快に書いている。
つまり、あなたが見ているのは【過去の自分にとって価値のあるもの】だけであり、それは【他人によってつくられた世界】なのです。
あなたの生きている世界は、すべて【他人によってつくられた世界】なのです。あなたの見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によってつくられている可能性が高いのです。
これは、たいへん怖ろしいことです。もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは【他人によってつくられた人生】を生きるしかないのです。「自由」は完全に奪われてしまいます。
【『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト出版、2011年)】
檜垣の文章が同じ場所をグルグル回っているのに対して、苫米地はどんどん前へ進んでいる。哲学が考えることであるなら、考えすぎた挙げ句に足がもつれて転んでしまう。更に決定的なことは哲学によって救われた人を私は見たことがない。ま、私の知能レベルだと澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉のエッセイくらいしか理解できない(『「自分で考える」ということ』)。
私が半世紀前に誕生した時、私は何ひとつ「つくっていない」。確かに「他人によってつくられた世界」だ。そして価値観は親を始めとする大人たちの態度(教育や言動ではない)によって形成された。子は親の顔色を窺う。褒められたり叱られたり貶(けな)されたり無視されたりする中で我々は社会のルールを学んだ。ま、くそ下らないルールではあるが。
私とは私の過去である。過去と同じ一貫性のある反応を我々は個性と呼ぶ。各人が「私」という物語を編んでいるわけだ。諸法無我とは「私」という幻想に鉄槌(てっつい)を下した言葉である。「私」とは私の欲望の異名でもあった。「私」に固執するから喧嘩となり、戦争に至る。私のもの、私の考え、私の神こそが争いの原因だ。
よく考えてみよう。ただ、「私」という受信機があるだけだ。それゆえ反応の仕方を少しずらしたり変えたりすることで世界は別の顔を現す。世界が退屈なのは君が退屈なせいだ。世界がつまらないのはお前がつまらない人間だからだ。厳密にいえば世界とは「私の世界」に他ならない。だから、あんたの世界と俺の世界は別物だ。俺の世界は満更でもないよ。
ただ、愚かな政治によって私の世界が侵食されているのは確かだ。
・欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
・我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎
・「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継