・國分康孝の談話室
・コミュニケーションの技法/『カウンセリングの技法』國分康孝
読書といえば、頭のみを使うと思っている人が多い。それは、誤解で、手を使うのである。本をもつのにも、手が必要である。頁をめくるにも、手の指がなければ、かなわない。読書とは、手の運動なのである。
ためしに他人の読書している姿をこっそり観察してみるがよい。たえず手が、せわしなく動いているのに気づくだろう。手のひらや、5本の指を器用に動かしながら本を読んでいる。読書は、麻雀と同じように、頭の運動なので、老化を防ぐというが、実際は、手の運動だ。
【『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一〈くさもり・しんいち〉(河出書房新社、2009年)以下同】
「本てなあ、それかね。そいつを読むてえのが解らねえ。お前さまの白眼(にら)んでなあ、其の白えところかね? それとも間(あひだ)の黒えところかね」(牧逸馬『紅茶と葉巻』、『現代ユウモア全集 12巻』より)
まず第一に、カウンセリングは「行動の変容」を目標にする。人間が人間を治すとか変えるとかするのは高慢である。われわれにできることは相手に共感し、あるいは理解的態度を示すことであるという人がいるかもしれぬ。しかし、反論したい。何のために共感したり理解的態度を示そうとするのか。それはそのことにより相手を助けることができるからである。助かることができるとは、相手の行動の変容に効果があるということである。「いや、そうではない。効果など計算してはいない。そうせずにおれないからそうするのだ」というならば、それはプロフェッショナルな面接とはいえない。一定時間、一定場所で料金をとって面接するからには何らかの目的がなければならぬ。目的なしに料金をとるわけにはいかない。「治すのではない、非審判的・許容的雰囲気をつくるだけだ。あとは来談者が勝手に自己を変えていくのだ」といったところで、やはり非審判的・許容的な雰囲気をつくる目的を問うならば、それは行動変容の条件として不可欠だからということになろう。それゆえ、カウンセリングは学派の如何を問わず行動の変容を目指すものといえる。では、行動の変容とは何か。反応の仕方に多様性がでてくることである。今まで父にビクビクしていた人が、父に適当に冗談が言えるようになり、上司にビクビクしていた人が、上司に「ハイわかりました」と言うだけでなく、「……ですね」と復唱して確認しておけばよいという具合に、今までとは異なる反応を学習することである。この場合、反応の仕方といっても、たとえば異人種に対する偏見のような心の中の反応と、飲酒・喫煙・麻薬常習・盗みというような外的に観察しうる反応がある。カウンセリングは、この両者の反応の変容を目指すものである。
では、行動の変容を目指すカウンセリングはいかなる手段をとるのか。それは言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションである。つまり、音声言語のやりとりや身体言語のやりとりを通して行動の変容を促進しようとするのである。
【『カウンセリングの技法』國分康孝〈こくぶ・やすたか〉(誠信書房、1979年)以下同】
私が20代の頃であった。私より年上のクライエントが私の言うとおりに動いてくれて、私も何かえらくなったような気持だという意味のことを言った。「國分君、それはね、君に頭を下げているのではないよ。君の学問に頭を下げているのだよ。それを忘れちゃだめだよ」と霜田静志は私を諭した。
私は、面接のほかに読書をすすめることがよくある。自分の正当性を主張してやまない母親には霜田静志の『叱らぬ教育の実践』(黎明書房)をすすめる。生徒に好かれない教師にはニイル『問題の教師』(黎明書房)をすすめる。自分の問題点に気づきカウンセリングへの意欲を高めるのがねらいである。簡便法の一つの試みである。効果は今のところ半々である。人生計画もなく留年や登校拒否をしている青年には井上富雄『ライフワークの見つけ方』(主婦と生活社)をすすめる。これは一念発起のきっかけになるようである。
気骨を感じさせる記事だ。/全員実名で告発! 袴田巌さんの罪をデッチあげた刑事・検事・裁判官 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社] http://t.co/KMVWsFUTTU
— 小野不一 (@fuitsuono) April 14, 2014
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— 小野不一 (@fuitsuono) April 14, 2014