2014-05-04

合理性と再現可能性/『科学の方法』中谷宇吉郎


 ここで、信用するということは、どういうことか、はっきりさせておく必要がある。ある人が、ある問題について得た知識が、今までわれわれの知っていたほかの知識に当てはめてみた時に、従来の認識との間に、矛盾がないとする。矛盾がなければ、いかにもそれはそうであろうと信用することができる。科学の世界にも、信用という言葉があるが、これは道徳の方でいう信用とはちがう。互いの知識の間に矛盾がないという意味である。一番分りやすい例は、科学の方でよく調べられている希土元素である。めったにない元素、プロメチウムとかホルミウムとか、聞いたこともない名前の元素が、元素の周期表の中には、たくさん出ている。これらはみな実際にあるものと、誰でも思っているが、おそらくああいうものを専門にやっている人は、世界中にごく少数しかいない。特殊の例外を除いては、世界中を捜しても、あんなものを見た人は誰もいないであろう。たいていの希土元素は、めったに見られないものである。このごろの超ウラン元素などになると、原子の数にして何十とか何百とかいうものが、分離されただけというものもある。そんなものは、誰も見た人がいない。しかしその存在は信じられている。見たこともないものを、なぜ皆が信ずるかというと、そういうものから得た知識が、今までにわれわれがもっていたほかの知識に、矛盾なくうまく当てはまるからである。

【『科学の方法』中谷宇吉郎〈なかや・うきちろう〉(岩波新書、1958年)以下同】

 中谷宇吉郎の名前は知らなくても「雪は天から送られた手紙である」(『』)という言葉に聞き覚えのある人は多いことだろう。雪の結晶を研究したことでも知られる。


 合理性と再現可能性が科学の命である。では合理性とは何ぞや? それは「矛盾がない」ことだ。ただし中谷は「正しい」とは一言もいっていない。これが重要だ。つまり合理性とは整合性であって正当性を意味しない。

 この点をもっとはっきりさせるために、幽霊の問題を取り上げてみよう。幽霊は科学の対象になるか、といえば、誰でも一言の下に、否というであろう。そして現在の科学では、幽霊は対象として取り上げられていない。しかし昔は大勢の人たちが、幽霊を見たといっているし、またそういう記録もたくさんある。もっとも心霊論者は、今日でも幽霊の存在を信じていて、いろいろとその証拠を出している。昔の人はおそらくほとんどの人が、幽霊は存在するものと信じていたであろう。それでは多くの人が幽霊を見たからという理由で、これは再現可能であるといえるか。少なくも(ママ)その時代としては、科学の対象となり得たものであったかというと、それはなり得なかったものである。ということは、今までいってきたように、再現可能というのは、必要な場合に、必要な手段をとったならば、再びそれを出現させることができるという確信が得られることなのである。幽霊はそれを再現させる方法について、確信が得られない。希土元素のようなものは、めったに見られないし、またほとんどの人が一生見ることがないものであるが、今日の科学の示す学理に従って、こういう順序を経たならば見ることができる、という確信がもてる。

もったいない/『落語的学問のすゝめ』桂文珍
平将門の亡霊を恐れる三井物産の役員/『スピリチュアリズム』苫米地英人
霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
怨霊の祟り/『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎
霊は情報空間にしか存在しない/『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人
宇宙人に誘拐されたアメリカ人は400万人もいる/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
神は神経経路から現れる/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


 幽霊は神や宇宙人に置き換え可能である。厳しく言ってしまえば死者も含まれる。存在は再現不可能であるにもかかわらず、それらを信ずる人々は強い反応を示す。情報空間における錯誤といってよい。映画や小説に対する反応と同じだ。

 もっと科学的に見つめてみよう。我々は人生において人間関係に悩むことがしばしばある。四苦八苦のひとつに怨憎会苦(おんぞうえく)がある。恨んだり憎んだりする人との出会いを避けることができない苦しみを示したものだ。ま、本当は「受け入れらない自分」の問題なのだが、怨憎会苦を感じる現実が存在する。例えば学校や職場でいじめられた過去があったとしよう。卒業しても転職しても憎悪が簡単に消えることはないだろう。やがて10年が経った。そして、いじめた相手が5年前に交通事故で死亡していたことが判明する。

 もっと期間を短くしても一緒である。今日、顧客から常軌を逸したクレームを受けたとする。帰宅し、一杯引っ掛けながら「あの野郎……」と思っている瞬間は相手が再現可能であるかどうか(生きているか死んでいるか)わからないのだ。つまり人間関係の悩みは妄想であることが理解できよう。

 そう考えると事実の上で瞬間瞬間更新されているのがわかるのは自分のことだけだ。デカルトは17世紀に「我思う故に我あり」と主張して、根本原理を神から人間の世界へと引き下ろした(『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』末木文美士)。しかしデカルトは想念を覆う煩悩まで掘り下げることはなかったし、まして唯識に辿り着くこともなかった。

 合理性だけでは必ず行き詰まる。企業の合理化を見れば明らかだろう。科学的合理性は多種多様な兵器を製造してきた。経済的な合理性は貧富の差を拡大した。ここに欠けているのは道理である。「己の欲せざる所は人に施す勿れ」(『論語』孔子)の精神を世界に行き渡らせる必要がある。欧米のエゴイズムは神との直線的な関係から生まれて他人を蔑ろにする。

 科学とは因果関係を事実に基いて見つめる行為である。宗教は事実のない因果関係を物語化する。

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

2014-05-03

保守はゴジラを夢見るか


 佐藤健志〈さとう・けんじ〉の演説口調(コミュニケーション障害か? 中野に話を振っておきながら自分のマイクを口元から離すことがない)が耳障りだがこれは勉強になる。中野剛志〈なかの・たけし〉はいつもより控えめ(笑)。結果的には佐藤が自分の主張のために中野を利用している格好となっている。中野がおとなしいのはそれを割り切っているためだろう。









国家のツジツマ 新たな日本への筋立て(DVD付きデラックス版) (VNC新書)震災ゴジラ!  戦後は破局へと回帰する保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)

2014-05-02

アメリカを代表する作家トマス・ウルフ/『20世紀英米文学案内 6 トマス・ウルフ』大澤衛編、『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ


 トマス・ウルフ(1900-38)という男は、一言でいうなら、20世紀の開幕と同時にアメリカ南部の山国で生まれ、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を数回遍歴し、アメリカ生活の万華鏡と若者の飢渇を、噴きあふれる河のように書き、『天使よ故郷を見よ』、『時間と河』、『蜘蛛の巣と岩』、『帰れぬ故郷』の四大作その他をのこし、1930年代の、彼の同時代作家らがアメリカの喪失に陥っている時に、いち早くアメリカ発見に到達し、ナチス・ドイツ抬頭のころ、いわば、第二次世界大戦の前夜に、37歳の若盛りで死んだ、並外れたスケールの、不敵な、人生派作家である。
 この噴き井のような暴れん坊は、並外(はず)れたスケールに反比例して、いかにも短命だったと言わねばならない。静かな成熟とかおもむろな大成といったような作風の生まれる年輩まで、彼は生きのびなかった。このことをまず初めに忘れないでおこう。

【『20世紀英米文学案内 6 トマス・ウルフ』大澤衛〈おおさわ・まもる〉編(研究社出版、1966年)】


 書き手は他に福田尚造〈ふくだ・しょうぞう〉、酒本雅之〈さかもと・まさゆき〉、井出弘之〈いで・ひろゆき〉、田辺宗一〈たなべ・そういち〉、輪島士郎〈わじま・しろう〉、古平隆〈こだいら・たかし〉など。Wikipediaは「トーマス・ウルフ」という表記になっている。翻訳がいずれも古いため発音に寄り添って「トマス」となったものか。

「活字になった彼の書きもののうち、目ぼしい本11冊の合計数は、5009ページであり、もしこの全部を邦訳するとすれば、少なくともその2倍以上の印刷ページ面を占める分量となろう」とある通りどれも大冊だ。しかも発行が古いため活字が小さい。本書も同様である。

 何となく名前に聞き覚えがあったのだがそれはトム・ウルフであった。ブラッドベリの短篇で彼の名前を知り、興味が湧いたというわけ。

「この本を見なさい」と、ややあってから、フィールドはそれを持ちあげて見せた。
「これは一人の巨人が書いた本だ。その男は1900年にノース・カロライナ州アッシュビルに生れた。生前に、四つの長い小説を発表している。この男は、いうなれば、つむじ風だった。山を持ち上(ママ)げ、風を集めた。そして1938年9月15日ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ病院で、ベッドのかたわらに鉛筆書きの原稿をトランクに一ぱい残して、結核で死んだ。結核というのは、昔の恐ろしい病気だ」
 一同はその本を見つめた。
『天使よ故郷を見よ』。
 フィールドは更に3冊の本を見せた。『時と河の流れと』『蜘蛛の巣と岩』『汝ふたたび故郷を見ず』。

【「永遠と地球の中を」/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ:小笠原豊樹〈おがさわら・とよき〉訳(河出文庫、2011年/集英社、1978年/集英社文庫、1982年)】


 とある未来の大富豪がタイムマシンでトマス・ウルフを連れてこさせ、宇宙の様相を書かせようと目論むという内容のSF作品だ。一緒に収録されている「親爺さんの知り合いの鸚鵡」では名だたる作家がけちょんけちょんに書かれているので、このテキストは否応(いやおう)なく目を惹く。

 トマス・ウルフの翻訳は少なく、長篇だと『天使よ故郷を見よ』以外では、『汝故郷に帰れず』が刈田元司訳(1959年)と鈴木幸夫訳(1968年)があるのみ。飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉のデビュー作『汝ふたたび故郷へ帰れず』はひょっとしてトマス・ウルフからの影響があるのだろうか?


人類の戦争本能/『とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ

2014-05-01

「浦島記」/『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子


 ・「浦島記」
 ・美しい言葉

「浦島記」と題した随筆から紹介しよう。

 私が島の療養所に入園したのは、昭和18年の6月、だから今日まで、およそ15年の島暮らしを続けている訳である。私達入園者の仲間がよく使う言葉の一つに、社会という言葉がある。それはもちろん私達の生活している島も社会の中の一角であることには間違いないのであるが、私達がその言葉を使うとき、私達はいつも活き活きと活動している島の向こうの世界と、消費面だけの生活を続けている療養所という異形の島を、厳然と、或いは、自嘲的に区別しているものである。この島に(ママ)療養を続けている誰でもがそうであるように、私は社会に憧憬と郷愁をもっている。その私が、一度だけその現実の対象である、社会の対岸の街の土を踏むことに望みをかけた美しくもかなしい願いが実現したことがある。
 それは5年程前の或る晴れた日、園内作業をしていたとき、同じ作業をしていた友達が作用の縫物をしながら、「いっぺん社会へ出てみたいな!」と言った。独言のようでもあったが、傍にいた私は大いに賛同した。それで日頃の悲願をその友に話したのである。ところが話はそれからとんとん拍子にその希望に対(むか)って進行し、遂に実現のはこびとなった。もちろんそれまでには、ややこしい手続や多少の嘘をまじえた理由を作らなければならなかったのであるが。

【『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子〈とう・かずこ〉(角川学芸出版、2007年)以下同】

「島の療養所」でピンときた人もいるだろう。塔和子はハンセン病患者であった。「13歳でハンセン病を発病、14歳で小さな島の療養所に隔離された苛酷な現実も、塔和子の豊かな命の泉を涸らすことはできなかった」と表紙見返しにある。言葉がやわらかい。だが、生を見据える眼差しには厳格さが光っている。

「いっぺん社会へ出てみたいな!」――印刷された文字が涙で歪んだ。彼女たちを島に隔離したのは「らい予防法」であった。

ハンセン病の歴史
日本のハンセン病問題

 ハンセン病は姿形を損なうことから人々に忌み嫌われ、永きにわたり強い伝染力があると誤解されてきた。

てっちゃん: ハンセン病に感謝した詩人

 彼らは「同じ人間」として扱われることがなかった。無知に基づく差別は今なお根強い。

「いっぺん社会へ出てみたいな!」という言葉に恨みは感じられない。むしろその明るさが彼女たちを島へ追いやった社会の残酷さを炙(あぶ)り出すのだ。

 一軒の呉服店の前に立ち止まった友達は「あんた此処で何か買うて行けへんかな」と言った。私はそのとき初めて自分が自由に品物を選んで買い物の出来ることに気付き、優越感に似た感動を覚えた。

 彼女の心の動き一つひとつを通して、我々がハンセン病の人々から何を奪ったかを知ることができる。

痛み

 世界の中の一人だったことと
 世界の中で一人だったこととのちがいは
 地球の重さほどのちがいだった

 投げ出したことと
 投げ出されたこととは
 生と死ほどのちがいだった

 捨てたことと
 捨てられたことは
 出会いと別れほどのちがいだった

 創ったことと
 創られたことは
 人間と人形ほどのちがいだった

 燃えることと
 燃えないことは
 夏と冬ほどのちがいだった

 見つめている
 誰にも見つめられていない太陽
 がらんどうを背景に

 私は一本の燃えることのない木を
 燃やそうとしている

 ハンセン病の人々は親の葬式も知らされなかった。それでも塔和子は、凍てついた生命の木を言葉の焔(ほのお)で燃やし続ける。

塔和子 いのちと愛の詩集

森見登美彦、大村大次郎、今枝由郎


 1冊挫折、2冊読了。

新釈 走れメロス 他四篇』森見登美彦〈もりみ・とみひこ〉(祥伝社、2007年/祥伝社文庫、2009年)/文学パロディなのだが実に香り高い文章である。古めかしい常套句がきちんと使われており、科白(せりふ)も戯曲のようにピシっと決まっている。ただし個人的には京都のバンカラ大学生が放つ雰囲気についてゆけず。冒頭の「山月記」のみ。

 27冊目『税務署員だけのヒミツの節税術 あらゆる領収書は経費で落とせる【確定申告編】』大村大次郎〈おおむら・おおじろう〉(中公新書ラクレ、2012年)/これはオススメ。大村は元国税調査官だけあって実に目が行き届いている。しかも読みやすい。前著の『あらゆる領収書は経費で落とせる』も読む予定だ。確定申告をしている人は必読のこと。税金の世界は一般的に考えられているよりもはるかに曖昧で、国税庁のデタラメがまかり通っている模様。

 28冊目『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2014年)/今枝は『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワールの翻訳者。予想以上に出来がよい。ブッダの言葉が脳の奥深くまで突き刺さる。敢えてブッダが説いたであろう「やさしい言葉」にした上で、大幅に割愛したのも功を奏している。中村元訳の前に読んでおくのが望ましい。