颯爽と飛び立つオウムの後ろ姿。 pic.twitter.com/zeUx3ivCHg
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 8
2014-09-20
2014-09-19
ピューリッツァー賞に輝いたベトナム戦争の写真~キム・フックとニック・ウトのその後
承前。南ベトナム軍が同胞をナパーム弾で誤爆した直後の写真である(1972年)。21歳のベトナム人カメラマン、ニック・ウトが撮影。翌日のニューヨーク・タイムズ一面に掲載され、73年のピューリッツァー賞に輝いた。少女は一命を取り留める。 pic.twitter.com/EuZEaooInh
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
【閲覧注意】その場の映像である。少女の名はキム・フック。当時9歳だった。 https://t.co/b9EmqIpszz
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
キム・フックは17回の手術を受け、奇蹟的に助かった。結婚後、カナダに亡命。1997年からユネスコの親善大使を務めている。 pic.twitter.com/dEEAAb6XLj
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
キム・フックを巡る感動的なエピソード。全4ページ。/ベトナム戦争の“Napalm Girl” http://t.co/tZo5TSsnVt http://t.co/N5Pezi4RXN http://t.co/zKo51kaCuM http://t.co/42r4255cdL
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2014-09-18
クルト・ゲーデルが考えたこと/『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
・『死生観を問いなおす』広井良典
・ゲーデルの生と死
・すべての数学的な真理を証明するシステムは永遠に存在しない
・すべての犯罪を立証する司法システムは永遠に存在しない
・アインシュタイン「私は、エレガントに逝く」
・クルト・ゲーデルが考えたこと
・『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』高橋昌一郎
ゲーデル自身の哲学的見解については、「ドウソン目録6」の中から興味深い哲学メモが発見された。このメモは、ゲーデルが、自分の哲学的信念を14条に箇条書きにしたもので、『私の哲学的見解』という題が付けられている。ワンの調査によると、このメモは、1960年頃に書かれたものである。
1.世界は合理的である。
2.人間の理性は、原則的に、(あるテクニックを介して)より高度に進歩する。
3.すべての(芸術も含めた)問題に答を見出すために、形式的な方法がある。
4.〔人間と〕異なり、より高度な理性的存在と、他の世界がある。
5.人間世界は、人間が過去に生き、未来にも生きるであろう唯一の世界ではない。
6.現在知られているよりも、比較にならない多くの知識が、ア・プリオリに存在する。
7.ルネサンス以降の人類の知的発見は、完全に理性的なものである。
8.人類の理性は、あらゆる方向へ発展する。
9.正義は、真の科学によって構成されている。
10.唯物論は、偽である。
11.より高度な存在は、他者と、言語ではなく、アナロジーによって結びつく。
12.概念は、客観的実在である。
13.科学的(厳密な学としての)哲学と神学がある。これらの学問は、最も高度な抽象化概念を扱う。これらが、科学において、最も有益な研究である。
14.既成宗教の大部分は、悪である。しかし、宗教そのものは、悪ではない。
【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】
数学の限界を突き止めた頭脳は何を考えたのか? その答えの一端がここにある。不思議なことだが「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを明らかにした男は死ぬまで神を信じていた。無神論者であったアインシュタインと神についての議論をしたのだろうか? 気になるところだ。
クルト・ゲーデル(1906-1978年) pic.twitter.com/fndjELckn4
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 9月 18
メモからは理性への大いなる信頼が読み取れる。私が特に注目したのは11と12だ。11はコミュニケーションの真相に触れていそうだし、12は情報理論によって証明されつつある。
類推(アナロジー)能力が「脳の余剰から生まれた」(『カミとヒトの解剖学』養老孟司)とすれば、動物と人間を分かつ英知の本質は類推にあるのだろう。言葉はシンボルである。「川」という言葉は川そのものではない。どこの川かわからないし、水量や幅もわからない。もしかすると三途の川かもしれないし、ひょっとすると「川」ではなく「革」か「皮」の可能性だってあり得る(言い間違いや誤変換)。
にもかかわらず我々がコミュニケーションできるのは言葉というシンボルを手掛かりにして類推し合っているからだ。すなわち言葉そのものが類推の産物なのだ。であればこそ言葉は通じるのに意思の疎通が困難な場合があるのだろう。反対に言葉を介さぬコミュニケーションが成り立つこともある。団体で行う球技やシンクロナイズドスイミングなど。
で、たぶん類推は視覚に負うところが大きい。「これ」と言われたら見る必要がある。通説だと言葉は名詞から始まったとされているが、多くの名詞は物の名前だ。とすると肝心なのは「何をどう見るか」というあたりに落ち着く。つまりコミュニケーションは「ものの見方」に左右されるのだろう。世界を、そして生と死をどう見つめているかが問われる。
キリスト教と仏教の時間論/『死生観を問いなおす』広井良典
・『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世
・キリスト教と仏教の「永遠」は異なる
・時間の複層性
・人間とは「ケアする動物」である
・死生観の構築
・存在するとは知覚されること
・キリスト教と仏教の時間論
・『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
キリスト教の場合には、「始めと終わり」のあるこの世の時間の先に、つまり終末の先に、この世とは異なる「永遠の時間」が存在する、と考える。さらに言えば、そこに至ることこそが救済への道なのである(死→復活→永遠という構図)。他方、仏教の場合には、先に車輪のたとえをしたけれども、回転する現象としての時間の中にとどまり続けること、つまり輪廻転生の中に投げ出されていることは「一切皆苦」であり、そこから抜け出して(車輪の中心部である)「永遠の時間」に至ることが、やはり救済となる(輪廻→解脱→永遠という構図)。
念のために補足すると、ここでいう「永遠」とは、「時間がずっと続くこと」という意味というよりは、むしろ「時間を超えていること(超・時間性)、時間が存在しないこと(無・時間性)」といった意味である。(中略)こうした「永遠」というテーマは、そのまま「死」というものをどう理解するかということと直結する主題である。だからこそ、あらゆる宗教にとって、というよりも人間にとって、この「永遠」というものを自分のなかでどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなすと言ってもよいのである。
【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】
死を、もっと具体的にいえば「死の向こう側」をどう設定するかで人の生き方は変わる。「今さえよければいい」という態度を刹那的(せつなてき)と切り捨てるのは、国家や社会が揺らぐのを防ぐためだ。「将来のために現在を犠牲にすることが正しい」との価値観を刷り込まれると、知らず知らずのうちに奴隷的な生き方を強いられる。
宗教と科学を根本で支えているのは時間であり、時間論という軸で宗教と科学は完全に結びつく。時間こそがこの世を解き明かす一大テーマである。
宗教は「あの世の論理」(苫米地英人)であり、科学は「この世の論理」である。今気づいたのだが日蓮が政治(この世の論理)にコミットしたのは、一世を風靡した浄土思想からこの世に引き戻す企てであったのかもしれない。アインシュタインが宗教を滅ぼしたと私は考える。観測者の運動状態によって時間の進み方が異なる(相対性理論)ことがわかった時点で、もろもろの宗教は単なる一観測者となったのだ。時間が絶対的なものではないという事実が宗教に鉄槌を加えた。ところがそれに気づいた宗教者はいない。
時間という概念を有する我々は一生という限定された時間を超越することを望み、死後にまで延長しようと目論む。だが永遠って何だ? 永遠に続く映画を見たい人はいるのか? ドラマ『24 -TWENTY FOUR-』が『永遠 -FOEVER-』とタイトル変更をして120歳になっても戦うジャック・バウアーが想像できるか?
永遠とは「終わりがない」ことを意味する。永遠のドラマが見たいならgif画像を見ればいい。その終わりがない、繰り返しの続く回し車を走るハムスターのような人生をブッダは六道輪廻と説いた。そう。六道回し車だ。
永遠と無限は異なる。0と1の間に無限は確かに存在する。だが永遠は存在しない。なぜなら観測できる人がいないからだ。永遠の欺瞞を見抜け。特に「永遠の愛」。
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