18禁。閲覧注意のこと。
・『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
・『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
・『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治
鮮乙〈せんいつ〉のおどろきは深く、
「主(しゅ)の強運は比類がない」
と、しきりにいった。が、呂不韋〈りょふい〉はゆるやかに首をふり、
「運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにしかず、だ」
と、誨(おし)えた。
【『奇貨居くべし 天命篇』宮城谷昌光(中央公論新社、2001年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】
【不確実性】はリスクの源だ。われわれがもし、未来のありようを的確に見定めるすべを知っていたら、差し出されたリスクを引き受けるかどうかを、つねに潜在的な利得の見積もりだけで決めることができる。事の成否が予測可能であったり、確実であったりしたら、リスクなど存在しない。
しかし、“妥当”な決断を下すのにじゅうぶんな情報が手もとにない場合もある。また、どんなに周到に調べても、あるいはどれだけの数の代案をどんなにくわしく検討しても、込み入った要素が多すぎて、未来の出来事を予測しかねる場合もある。1週間以上先の天気は、予測できない。一国の経済の変動は、予測できない。原油価格は、予測できない。ドルのレートは、予測できない。住宅市場の勢いは、予測できない。2カ月後のS&P500種株価指数の値は、予測できない。
以上の例を整理すると、ふたつのタイプの不確実性が浮かび上がってくる。
【1 情報の不確実性……情報が不足していることによる不確実性】
【2 無秩序の不確実性……複雑すぎることによる不確実性】
【『伝説のトレーダー集団 タートル流 投資の黄金律』カーティス・フェイス:飯尾博信+常盤洋二監修、楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(徳間書店、2009年)】
不確実な世界においては、生起事象は既定のものとして扱われる。未来に何が起こるかを正確に予測することなどできない。精いっぱいの推測をするしかないが、それでさえはずれることが多い。【現われた結果に対処する最善の方法は、それを悪いこととしてではなく、“避けられない現実”として見ることだ】。つまるところ、それが結果というものなのだから。
小林●ぼくら考えていると、だんだんわからなくなって来るようなことがありますね。現代人には考えることは、かならずわかることだと思っている傾向があるな。つまり考えることと計算することが同じになって来る傾向だな。計算というものはかならず答えがでる。だから考えれば答えは出(ママ)るのだ。答えが出なければ承知しない。
【『人間の建設』小林秀雄(新潮社、1965年、『小林秀雄全作品 25』2004年/新潮文庫、2010年)】
ある人に「この世の中を支配している主人は誰ですか?」と聞かれたとき、お釈迦さまは「神様です」とは言わず、いとも簡単にこう答えました。
(※以下原文略)チッテーナ・ニーヤティ・ローコー
チッテーナとは「心に」「心によって」という意味です。「心が行っているのだ」ということです。
ニーヤティとは「導かれる」という意味です。
ローコーというのは「衆生」、つまり「世界や世の中」「生けるもの」ということで、人々や生命を意味します。
全体では「心が衆生を導く」「衆生は心に導かれる」という意味になります。
つまりお釈迦さまは、「生命は心に導かれ、心に管理されている。心に言われるままに生命は生きていて、心という唯一のものに、すべてを握られている」と答えたのです。
私たちは結局、「心の奴隷」なのです。私にはなんの独立性もないし、自由に生きてもいません。
ですから、「仏教の神はなんですか?」と聞かれたら、私なら「心です」と答えます。「逆らえない」という点では、心は一神教的な神と同じだからです。
【『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】
心の特徴を、もうひとつ紹介しましょう。
心は、思い通りにならないと、反対の行動をします。好きなもの、欲しいものに向かって走ることを邪魔されたら、ものすごく破壊的になって、恐ろしいことをするのです。
人間はいつも何かしら希望や目的があって、それを目指して生きています。
でも、突然その目的が達成できなくなることもよくありますね。そうすると心はものすごいショックを受けて、破壊の道に走ってしまうのです。「得られないんだったら、いっそぜんぶ壊してやろう」という気持ちです。
「人間が生きる」ということは、「好きなものを得るために行動する」「得られないものや邪魔するものはぜんぶ壊す」のいずれかです。我々の日常生活は、この二つのエネルギーに支配されているのです。
世にある犯罪のほとんどは、希望がかなわないときに起こる破壊的なエネルギーが原因です。
心理学の世界では、破壊的なエネルギーで動くことを「病気」とはいいません。「あの人はいろいろなところで負けたけれど、よく闘って頑張っている。行動的で偉い」と、むしろほめるのです。
ですが仏教的に見れば、それも結局は危ない病気です。「闘う心」は、「ある意味では勝利への希望に満ちた状態」ともいえるのですが、もし闘えないときはどうなるでしょうか?
他人を害する破壊的な行為には、力が必要です。力が足りない場合は、力が内向きになって、ひきこもりになったり、自殺願望を引き起こしたりすることになります。「嫌な状況をぶち壊したい。他人を破壊したい。でも、できない」というとき、人間は自分自身を破壊してしまうのです。手榴弾を相手に投げようと安全ピンを外したものの、そのまま持っているようなものです。10秒後くらいには自分が死んでしまいます。
うつ病とか統合失調症とか、いろいろな言葉で表される精神的な病気も、もとをたどればぜんぶ「怒りのエネルギー」です。自分の心でつくった毒で、自分を殺しているのです。
二十歳くらいの頃から「きれい」と「美しい」の違いについてボンヤリと考え続けてきた。綺麗と漢字で書いてしまうと「綺羅綺羅して麗々しい」ニュアンスが出てしまうので、ここはやはり「きれい」と平仮名にしておきたい。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
「美しい風景」と言うことはあっても「美しい女性」と口にすることはまずない。「きれいな女性」と言う人が殆どだろう。きれいはビューティフルともちょっと違う。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
日本人が使う「きれい」は、汚れがなく清潔なさまを意味する。日本人はきれい好きで知られる。江戸時代の日本を訪れたヨーロッパ人は町や道にゴミが一つも落ちていない事実に驚愕した。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
昔の名前に清や清子が多かったのも故なきことではあるまい。日本人の美的感覚を支えているのは多分「川の水」だ。「水に流す」という表現は悪い例として引用されることが多いが、元々は「きれい、さっぱり」マイナス感情を捨てることを意味したはずだ。きれいは「切れ」にも通じている可能性がある。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
きれいの反対語は「汚い」である。日本人にとっての悪とは「汚い」真似のことだ。決して「醜い」ではない。そして「汚い」は「狡(ずる)い」を含意している。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
韓国人女性の大半が整形手術をしているらしいが、日本人が躊躇するのはその行為が「きれい」なものではないためだろう。嘘や誤魔化しは「汚い」ことだ。業務上の不正行為を悪職といわずに汚職というのも同じ理由だろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
もちろん「汚い」が穢(けが)れ思想につながり、差別の土壌となる危険性を秘めている。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28
若い女性にはカラフルな美よりも、きれいな月や星を目指してほしい。流れが止まった川は濁る。清らかさを保つためには流れ続けるしかない。流れるとは生きることだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 11月 28