2015-04-24

イラク日本人人質事件の「自己責任」論/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行


『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行
『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行

 ・瀬島龍三はソ連のスパイ
 ・イラク日本人人質事件の「自己責任」論

『私を通りすぎた政治家たち』佐々淳行
『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行
『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行
『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行

 私が意見具申したのは、この事件は周囲の人が止めるのも振り切ってバクダッド陥落1周年というもっとも危険なときに、無謀にも現地入りをした本人たちの「自己責任」の問題であるということを前提に、
(1)善意のNGOを人質にするのは許しがたいとの日本政府の怒りの表明
(2)すぐ解放せよという要求
(3)自衛隊はイラク復興のためにサマワに派遣されたのであって、1発も撃っていない。老幼婦女子を殺しているという犯行グループによる非難は、まったく当たらないという、強い否定。
(4)したがって、撤退はしない
(5)だが日本政府は、人名尊重の見地からアメリカ特殊部隊の力を借りてでも人質は必ず救出する

 という5点だった。
 この意見具申の電話は、家内が後ろで聞いていた。また、私はすぐさま佐々事務所の石井事務局長にも内容を伝え、「官房長官はハト派だから、たぶんこのノー・バットの強硬な意見はボツだろうね」と話し合っていたところ、驚いたことに、この意見具申の12分後、福田官房長官が緊急記者会見を行い、順番まで私の言った通りに政府声明をテレビで発表したのである。

【『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(海竜社、2013年)以下同】


(1分30秒から福田官房長官)

 佐々が伝えた相手は自民党国対委員長をしていた中川秀直だった。国家の危機管理という視点から見事なアドバイスが為されていると思う。だが佐々が提案した「自己責任」論は直ぐさま暴走を始め、人質となった3人に対して昂然とバッシングが行われた。まざまざと記憶が甦る。私も自己責任との言葉に乗せられた一人だ。テレビカメラ越しに見た彼らの印象がよくなかった。人質の一人(共産主義者であると自ら表明)が日本の空港で出迎えた両親と口論する様子まで報じられた(下の動画2分53秒から)。


 イラク日本人人質事件(2004年)はまず4月に高遠菜穂子〈たかとお・なほこ〉ら3人が解放され、同月さらに2人が解放された。しかし10月に1人が殺害された。インターネット上には斬首動画が出回った。遺族は「息子は自己責任でイラクに入国しました。危険は覚悟の上での行動です」との声明を発表した。

 後に高遠菜穂子がこう語っている。

 ちょうど新潟県中越地震が起きたばかりのときだったんですけど、「新潟の被災者とか、日本にも困ってる人はいっぱいいるのに、それを放っておいて外国で何をやってる」ということだったみたいです。でも、最初は意味がわからなくて。「うーん、でも私の身体は一個しかないし、今はイラクのことで忙しいので、じゃあすいませんけどあなたが新潟に行ってもらえますか」とか、真面目だけどかなりとんちんかんな返事をしてました(笑)。
 事件前から同じようなことは言われてたんだけど、私は「日本の中も外も同じ」みたいに思っていたから。事件後にものすごい剣幕でそう言われたときは、本当に意味がわからなかったです。

高遠菜穂子さんに聞いた その2

 当初から「これがアメリカであれば彼らは英雄として迎えられたことだろう」と言われた。日本のマスコミは彼らを袋叩きにした。「解放された人質3人の帰国を待っていたのは温かな抱擁ではなく、国家や市民からの冷たい視線だった」(ニューヨーク・タイムズ)。

 日本の共同体を維持してきた村意識にはリスクを嫌う性質がある。「出過ぎた真似をするな」というわけだ。善悪の問題ではなくして、こういうやり方で日本の秩序は保たれてきたのだろう。また「遠くの親戚より近くの他人」という俚諺(りげん)が人質となった彼らには不利に働く。日本人に深く根づく「内と外」意識は単純な理屈で引っくり返せるような代物ではない。

 もちろん自己責任は自業自得と同義ではない。自国民の救出・保護に全力を尽くすのは国家の責務である。日本政府としては、何としても人質を救出するぞという確固たる決意があった。

 国家の危機管理を行う立場からすれば、佐々が示した対応はほぼ完璧に近い。ただし自己責任論が予想以上の広がりを見せたことに苦い思いがあったのだろう。

 今年の1月、イスラム国で二人の日本人が殺害された。そして、またぞろ自己責任論がまかり通った。日本の民族的遺伝子には元々モンロー主義的要素があるような気がする。「君子危うきに近寄らず」「触らぬ神に祟りなし」と。

 佐々淳行や菅沼光弘の目の黒いうちに中央情報機関の設置を強く望む。特に最近、中国や韓国による歴史捏造は目に余るものがあり、日本にとって最大の危機といっても過言ではない。正確な情報できちんと反撃しておく必要がある。


2015-04-23

止観/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ


 ・努力と理想の否定
 ・自由は個人から始まらなければならない
 ・止観

 そこで問題は、私たちの思考がそこいら中をうろついており、そして当然ながら秩序をもたらすことを望んでいるということです。が、どのようにして秩序をもたらしたらいいのでしょう? さて、高速で回転している機械を理解するためには、それを減速させなければなりません。もし発電機を理解したければ、それを減速させてから調べなければなりません。もしそれを停止させてしまえば、それは死物であり、そして死物はけっして理解できません。そのように、思考を排除、孤立によって殺してしまった精神はけっして理解を持つことはできないのですが、しかしもし思考過程を減速させれば、精神は思考を理解できるのです。もし皆さんがスローモーション映画を見れば、皆さんは馬が跳躍するときの筋肉の見事な動きを理解できるでしょう。筋肉のそのゆるやかな動きには美がありますが、しかし馬が急に跳躍すれば、運動がすぐに終わってしまうので、その美は失われるのです。同様にして、精神が、各々の思考が起こるつどそれを理解したいので、ゆっくり動くときには、思考過程からの自由、制御され、訓練された思考からの自由があるのです。思考は記憶の応答であり、それゆえ思考はけっして創造的ではありえません。新たなものに新たなものとして、新鮮なものに新鮮なものとして出会うことのうちにのみ、創造的な存在があるのです。

【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)】

止観」(しかん)の意味がわかったような気がする。想念や思考を止めるのではなく、自分が止まって注意力を全開にしながら、ゆっくりと動き出す想念や思考を見つめればよいのだろう。


 鍵は「スローモーション」という言葉に隠されている。つまり、「全てに気づいた状態」は脳が超並列でフル回転した状態を意味する。馬の筋肉を馬自身は理解していない。理解するためには減速する必要があるのだ。たぶんスポーツ選手よりも、バレリーナや舞踊家の方が身体機能を理解していることだろう。

 現在の行為をひたすら実況中継するヴィパッサナー瞑想の原理もきっと一緒だろう。ただしクリシュナムルティは特定の方法を否定する。「ただありのままに見よ」としか教えていない。

 日本仏教(鎌倉仏教)は後期仏教(大衆部≒いわゆる大乗)のロジックにまみれているため、生の全体性を論理の中へ組み込んでしまうところに致命的な問題がある。初期仏教やクリシュナムルティの言葉は平易でありながらも深遠な哲理をはらんでいる。宗教という宗教が用語の中に埋没している事実をありのままに見つめる必要があろう。


八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良

2015-04-20

ニューヨークを「人種の坩堝」と表現したイズレイル・ザングウィル/『プラグマティズムの思想』魚津郁夫


 こうした考えをドラマにしたのが、イギリス系ユダヤ人作家I・ザングウイル(Israel Zangwill, 1864-1926)の「ルツボ(The Melting Pot)」(1908年)である。
 物語のクライマックスで登場人物のデビッドとヴェラがアパートの屋上からニューヨークの街を見おろしながらいう。

「デビッド:ここに偉大なルツボが横たわっている。きいてごらん。君には、どよめき、ぶつぶつとたぎるルツボの音がきこえないかい。……あそこには港があり、無数の人間たちが世界のすみずみからやってきて、みんなルツボに投げこまれるのだ。ああ、なんと活発に煮えたぎっていることか。ケルト系もラテン系も、スラヴ系もチュートン系も、ギリシア系も、シリア系も。――黒人も黄色人も――。
ヴェラ:ユダヤ教徒もキリスト教徒も――。
デビッド:そうだよ。東も西も、北も南も、……偉大な錬金術師が聖なる炎でこれらを溶かし、融合させている。ここで彼らは一体となり、人間の共和国と神の王国を形成するのだ。……」

【『プラグマティズムの思想』魚津郁夫〈うおづ・いくお〉(ちくま学芸文庫、2006年/財団法人放送大学教育振興会、2001年『現代アメリカ思想』加筆、改題)】

 イズレイル・ザングウィルとの表記はWikipediaに倣(なら)った。イスラエルが人名になるとイズレイルと発音するのだろうか? 不明である。

 ケルト系はアイルランド・スコットランド系で、ラストネームに「マック」(Mac、Mc)の付く人が多い。McDonald(マクドナルド)やMcGREGOR(マクレガー)など。ラテン系は中南米(ヒスパニック、ラティーノとも称する)。スラヴ系はロシア、ウクライナ、チェコ、クロアチア、ブルガリアなど。チュートン系はゲルマン民族の一部。


 最近では「溶け合う」意味を嫌って「人種のサラダボウル」ともいう。私としては「坩堝」(るつぼ)に軍配を上げたい。ピルグリム・ファーザーズが求めた(信仰の)「自由」と、アメリカという国家を共同体たらしめる「正義」には、やはり坩堝の熱が相応(ふさわ)しいと思うからだ。

 生き生きとした言葉から時代の熱気が伝わってくる。アメリカは夢が実現できる国でもあった。多様な人々が共存するところにアメリカの強味がある。

 そのアメリカが新自由主義によって滅びつつある。物づくりをやめ、国民皆保険制度を失い、大統領は石油メジャーやウォール街に操られるようになってしまった。ソ連はアフガニスタン侵攻(1979-89)が原因で滅んだ。アメリカもまたアフガニスタン(2001-)を攻めて滅ぶ可能性があると思う。アフガニスタンは3000年以上も戦争や紛争に耐えてきた国だ。そう簡単には敗れない。

プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)

2015-04-16

女子高生の清冽な言葉/『適切な世界の適切ならざる私』文月悠光


(にらみつけた先は、けして暮れることのない夕空。“夜闇が口を開く間際”、そんな張り詰めた一瞬を焼きつけたまま、時間を止めているこの“世界”。
今こそ疾駆せよ!
夕日を踏みつけ、
夜をむかえに走ろう。
オレンジ色に染まりながら、爪を立てて生きてみたい。〈後略〉

【『適切な世界の適切ならざる私』文月悠光〈ふづき・ゆみ〉(思潮社、2009年)】

 行頭もママ。文月は17歳で現代詩手帖賞を、本書で18歳の時に中原中也賞を受賞した。いずれも最年少記録である。女子高生の小気味いい言葉が水鉄砲のように私を撃つ。そして意外な温度の低さに冷やりとさせられる。

 ただし中年オヤジからすれば、やはり「けして」などという言葉づかいに眉をひそめてしまうし、ペンネームも仰々しさが目立つ。

生きる意味は
どこに落ちているんだろう。
きれいに死ねる自信を
誰が持っているんだろう。
自分は風にのって流れていく木の葉か、
でなければ、あんたが今
くつの裏でかわいがった吸い殻ではないのか。
存在なんてものにこだわっていたら、
落ちていくよ。
『どこへ?』
橋の下さ。

 社会に染まってしまえば言葉は死ぬ。反骨精神を欠いた若者は生ける屍(しかばね)も同然だ。文月は札幌出身である。同郷の誼(よしみ)で応援せざるを得ない(笑)。

 尚、本書についてはブログ「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」に秀逸なレビューがあるのでそちらを参照せよ。

文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』

適切な世界の適切ならざる私

極太の文体/『内なる辺境』安部公房


 べつに、すべての軍服が、ファシズムに結びつくなどと思っているわけではない。
 しかし、あらゆる軍服の歴史を通じて、やはりナチス・ドイツの制服くらい、軍服というものの神髄にせまった傑作も珍しいようだ。あの不気味に硬質なシルエット。韻を踏んでいるような、死と威嚇の詩句のリフレイン。実戦用の機能を、いささかも損なうことなく、しかも完全に美学的要求を満足させている。

【『内なる辺境』安部公房〈あべ・こうぼう〉(中央公論社、1971年/中公文庫、1975年)以下同】

 実は安部公房の小説を読み終えたことがない。丸山健二が評価していることを知ってから何冊か開いたがダメだった。本書もエッセイだからといって全部に目を通すつもりはなかった。ただ、熊田一雄〈くまた・かずお〉氏のブログで見つけた文章を探すためだけに読んだ。私は胸倉をつかまえられた。そのままの状態で結局読み終えてしまった。

 極太の文体である。太い油性ペンで書かれた角張った文字のような印象を受けた。目的の言葉は冒頭の「ミリタリィ・ルック」(1971年)にあった。


 と言うことは、同時に、ナチスの制服が、いかに完璧に彼等の素顔を消し去り、日常を拭い去っていたかの、証拠にもなるだろう。敗北が彼等から奪ったのは、単なる闘志や戦意だけではなかったのだ。彼等が奪われたのは、まさに制服の意味であり、制服の思想であり、制服を制服たらしめていた、国家そのものだったのである。
 この2枚の写真は、ある軍服の死についての、貴重な記録というべきだろう。それはまた、一つの国家の死の記録でもある。動物の死の兆候が、まず心臓にあらわれるように、国家の死の兆候は、こんなふうにして軍服の上にあらわれるのかもしれない。

 2枚の写真から制服のシンボル性を著者は探る。1枚はドイツ兵が戦闘に向かう場面で、もう1枚は白旗を掲げる写真であった。

 制服は秩序を象徴する。我々は無意識のうちに行動や思考を制服に【合わせる】。というよりはむしろ、TPOに応じた服装そのものによって自分の型(スタイル)を表現していると考えられる。軍服が示すのは他人を殺す意志と、他人に殺される覚悟であろう。意識が尖鋭化するという点では勝負服やコスチュームプレイも軍服に近いと思われる。それを着用する時、人は衣服に同化する。

 ともかく、どうやら、悲痛な異端の時代はすでに過ぎ去ったらしい。本物の異端は、たぶん、道化の衣裳でやってくる。

 学生運動が翳(かげ)りを帯びた頃、ミリタリィ・ルックが流行った。そして2~3年前から迷彩柄が流行している。ファッションとしてのアーミーは異端ではなく迎合である。「道化の衣裳」と聞いて私の貧しい想像力で思い浮かぶのは、花森安治のオカッパ頭とスカート、楳図かずおの紅白ボーダーライン、志茂田景樹のタイツなど。

「道化」という言葉に託されたのは具体性よりも、時代を嘲笑する精神性なのだろう。

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新しい動きは古い衣裳をつけてあらわれる/『昭和の精神史』竹山道雄