・『生きる技法』安冨歩
・言葉の空転
・『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘
・『原子力ムラの陰謀 機密ファイルが暴く闇』今西憲之+週刊朝日取材班
現代日本人と原発との関係は、戦前の日本人と戦争との関係に非常によく似ているのです。そしてまた、この行動パターンは、江戸時代に形成された日本社会の有様とも深い相同性を持っています。特に私は、日本社会が暴走する際に、独特の言葉の空転が起きるように感じています。
【『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉(明石書店、2012年)】
「言葉の空転」を生ましめるのは情緒か。最近だと郵政民営化、改革、国際貢献など。小泉政権はシングルイシューポリティクスと批判された。一つの争点で政権選択を迫る手法だ。我々日本人はイシュー(争点)の内容を吟味することなく感覚で付く側を選ぶ。当時、私も郵政民営化に賛同した一人だ。今振り返るとまったくもって恥ずかしい限りである。不明はいつだって後で判明するものだ。馬鹿の知恵。
情緒といえば聞こえはいいが、実態は感情に基づく気分・雰囲気であり、もっと言ってしまえば空気であろう。日本人は伝統的に思考や論理を回避する傾向が強いのかもしれない。善し悪しは別にして同調性が高い民族といってよい。
日本はもともと教育立国であった。18世紀半ばから19世紀半ばにかけて寺子屋の数は5万以上に及んだ(寺子屋の教育-師弟愛による全人格的教育)。「江戸の識字率は、世界でもまれに見るくらいの高さ」(『お江戸でござる』杉浦日向子監修、2003年)であった。しかし寺子屋で教えたのは読み書き算盤(そろばん)であってリベラルアーツではなかった。
戦前までは庶民も句歌を嗜(たしな)んだ。日本といえば真っ先に思い浮かぶのはやはり世界最古の長篇小説『源氏物語』だろう。日本文化の特徴は文学性と諧謔(かいぎゃく)か。俳句や俳優の「俳」はおかしみとの意。
日本の一般的な学問レベルは生活から離れることがなかった。そう。真理よりも実用を重んじるのだ。西洋には「神」という客観的な視点があった。
大東亜戦争の際には八紘一宇(はっこういちう)という言葉があった。この言葉や精神性そのものに私は異議を挟もうとは思わない。だがそれを現実化する知的格闘がなかった。リアリズムの欠如。言葉は踊り、空転した。
実は明治維新も同様であった。開国派も攘夷派も「尊王」であった。そして「言葉の空転」は拍車をかける。「明治維新」というキーワードそのものが欺瞞に満ちているのだ。下級武士や農民・町人が活躍できたのは外国人企業の支援があったればこそ。坂本龍馬のパトロンであったトーマス・ブレーク・グラバーはジャーディン・マセソン商会の一員であり、同社の前身はイギリス東インド会社だ。つまりアヘン戦争の主役連中が明治開国のプロデューサーを務めたわけだ。
そして明治維新の志士たちを英雄と仰ぐ風潮も「言葉の空転」と無縁ではない。ともすると停止しやすい思考をどこまで推し進めることができるか。ここに日本変革の鍵がある。
【追記】マッカーサー憲法以降、「言葉の空転」の最たるものは「平和」に尽きる。誰だって平和には反対しない。で、反対しないことをいいことに現状維持としての平和に甘んじ、アメリカの戦争で繁栄を謳歌しながら無責任なぬるま湯に我々はぬくぬくと浸(つ)かってきた。反原発にも同様の響きがある。