2015-11-22

明治維新は正しかったのか?/『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織


『逝きし世の面影』渡辺京二

 ・明治維新は正しかったのか?

『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『國破れてマッカーサー』西鋭夫
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ところが、日本人自身に自国が外国軍に占領され、独立を失っていたという“自覚”がほとんどないのである。従って、敗戦に至る道を「総括」するということもやっていないのだ。ただ単純に、昨日までは軍国主義、今日からは民主主義などと囃し立て、大きく軸をぶらしただけに過ぎなかった。
 実は、俗にいう「明治維新」の時が全く同じであった。あの時も、それまでの時代を全否定し、ひたすら欧化主義に没頭した。没頭した挙句に、吉田松陰の主張した対外政策に忠実に従って大陸侵略に乗り出したのである。つまり、私たちは、日本に近代をもたらしたとされている「明治維新」という出来事を冷静に「総括」したことがないのである。極端に反対側(と信じている方向)へぶれるということを繰り返しただけなのだ。

【『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織(毎日ワンズ、2012年/歴史春秋出版、2015年1月/毎日ワンズ改訂増補版、2015年)】

 明治維新に一石を投じる内容。司馬史観に物申すといった体裁である。専門家ではないからこそ大胆な見方ができる。ただし「総括」とは左翼用語であることに留意する必要がある。

 岸田秀が吉田松陰の小児的な自己中心性を指摘している(『ものぐさ精神分析』1977年)。原田伊織は松下村塾は私塾ですらなく、吉田松陰と高杉晋作らは単なるテロリスト仲間とまで断じる。

 原田の基調は「会津史観」ともいうべきもので、会津戦争(1868年:慶応4年/明治元年)の悲劇に寄り添う感情に傾く。良し悪しは別にしてその情緒こそ本書の読みどころであろう。

 本書が会津の罪に触れていないことも注意を要する。また左巻きの連中は会津を持ち上げる傾向が強いようだ。

 明治維新という大風は不思議な現象であった。攘夷派は将棋倒しのように開国派へと鞍替えし、西洋から買い入れた武器で内戦を行っていたのである。

 尚、戊辰戦争(1868-69)については薩長土の低い身分の者どもを士族に引き上げる報奨を与える目的があったと落合莞爾が指摘している(『逆説の明治維新』2015年)。

明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト
原田 伊織
毎日ワンズ
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2015-11-21

村上兵衛、他


 4冊挫折、1冊読了。

虹の戦士』北山耕平翻案(太田出版、1999年)/吉本ばななの序文で読む気が失せる。ダイオキシンの件(くだり)でやめた。北山は心情左翼か。

赤い右手』ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ:夏来健次訳(国書刊行会、1997年/創元推理文庫、2014年)/1ページで挫ける。私は文章を読みたいのであって謎解きに興味はない。

ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件』杉山春(ちくま新書、2013年)/母親に寄り添いすぎて確かな視点を見失っている。ルポではなく、被害者救済のボランティアといったレベルだ。そのため文章が弱い。この分野も心情左翼の巣窟である。

偽札百科』村岡伸久(国書刊行会、2010年)/硬派なオタク本。紙も厚い。読み物としての工夫に欠ける。

筑摩現代文学大系 75 中村真一郎・福永武彦集』(筑摩書房、1984年)/活字が小さすぎる。

 155冊目『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)/昨日、徹夜で読み終える。そして風邪をひいた。村上は軍人上がりの作家。柴五郎は義和団の乱における北京籠城で世界に盛名を馳せる。軍事力を伴った大掛かりな『ホテル・ルワンダ』と考えてよい。事後、世界各国から勲章を授与される。この時の日本人の奮闘と柴の振る舞いが後の日英同盟につながる。柴は英・仏・シナ語に堪能で人生の多くを海外で過ごしている。最期には涙禁じ得ず。明治人といよりは会津藩士として生き抜いたと私は見る。

武田邦彦「テロではなく戦闘行為」「米英仏露の国連常任理事国こそテロ国家」


 国際法に基づく武田の主張。歴史的にも正当性があると思われる。佐藤優が絶対口にしない内容だ。武田邦彦の温厚な性質に保守の本領がある。












2015-11-20

円の戦争:「国際金融資本」に逆らった男=石原莞儞中佐



石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人 (双葉新書)戦争史大観 (中公文庫BIBLIO)最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)

会津藩の運命が日本の行く末を決めた/『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛


『逝きし世の面影』渡辺京二
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

 ・会津藩の運命が日本の行く末を決めた

・『日本人の底力 陸軍大将・柴五郎の生涯から』小山矩子
『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子
『國破れてマッカーサー』西鋭夫
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ

 新政府軍は、警固をキビしくし、「脱走者は発見しだい斬り捨て」の命令を下した。藩主松平容保(かたもり)の謹慎している滝沢村妙国寺でも、警戒はいっそう厳重になった。万一に備えて、大砲の砲口を容保の居室に向けている、という噂もあった。
 そこに夜陰の暴風雨に乗じて、また5人の少年が脱走した。その中には山川健次郎、赤羽四郎、そして柴四朗ら、かつてのフランス語仲間もまじっていた。
 ――これは、じつは会津藩の重役たちの「命令」によるものだった。
 重役の関心事は、藩に下される罪の程度であった。彼らは、さすがに藩士全員が斬罪などということは考えなかったが、家老の何人かが切腹、あるいは斬罪は免れまい――と、覚悟していた。問題は、藩主容保に対する処分である。
 その寛厳をうらなうために、重役たちは少年たちを脱走させた。少年たちは若松城にある政府本営に出頭して、主君の助命嘆願をおこなう。そして、それに対する「敵」の出方をうかがってみよう、という目論見だった。
 まかり間違えば、斬り捨てである。あるいは脱走の罪に問われ、みせしめに切腹におよぶかも知れない。
 しかし、十五、六歳の少年たちには、よもやそこまでの厳科は下さないだろう。そして、その処罰の程度によって藩の将来をうらない、考えよう。……それが藩の重役たちの腹づもりであった。

【『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)以下同】

 まだ読み終えていないのだが書き残しておく。文庫で774ページの大冊。読書日記としては155冊目の読了本ということにしておく。光人社は2012年に同系列の潮書房と合併し、現在は潮書房光人社となっている。潮書房は軍事雑誌『丸』で知られる。光人社NF文庫も殆どが戦争・軍事・戦記ものである。NFはノンフィクションの略だろう。

 柴四朗は五郎の兄で、白虎隊の一員であったが病で戦線から離れ生き永らえた。西南戦争では谷干城〈たに・たてき〉に目をかけられた。その後、岩崎弥太郎の援助を得てアメリカへ留学。帰国後、東海散士〈とうかい・さんし〉のペンネームで帝国主義と小国の民族解放を描いた小説『佳人之奇遇』(かじんのきぐう/4篇全16巻)を著しベストセラーとなる。1892年(明治25年)以降は長く政治家を務めた。

 山川健次郎は東京帝国大学・京都帝国大学総長、九州帝国大学の初代総長。赤羽四郎は外交官となる。いずれも日新館出身の逸材といってよい。そして柴五郎は、乃木希典東郷平八郎に先んじて世界に勇名を馳せた日本軍将校である。

 参謀の乾退助(のち板垣)の部下、伴中吉が少年たちを引見した。「自分らは藩主の身を思うあまり、あえて規則を破って推参したものでございます。どうか主君の処置を寛大にして頂きたい」との申し立ては「聞きおく」にとどめられたが、彼らの命がけの行為には好感が寄せられた。長く待たされた後、贅(ぜい)を尽くした膳が供された。

「遠慮なく、食べるがよい」
 係の侍はそういって退いたが、頃を計って部屋に戻ってみると、誰一人箸をつけている者がない。
「いかが致した……?」
 山川健次郎が5人を代表してこたえた。
「謹慎中の藩士たちは、十分な食事も摂(と)らずにおります。せっかくのご好意ながら、私どものみが、このようなご馳走をいただくわけには参りませぬ」

 敗者であり、かつ力弱き少年たちの嘆願を知った瞬間、頭の中で閃光がほとばしった。「これは大東亜戦争に敗れた日本の姿そのものではないか!」と。日本の首脳陣は国体すなわち天皇陛下の処遇を最優先事項とし、提出した憲法草案は明治憲法と変わるところがなかった(『國破れてマッカーサー』西鋭夫、1998年)。京都守護職を務め、孝明天皇からも信頼されていた会津藩がなにゆえ朝敵となったのか? ここに明治維新の矛盾がある。新生日本を牛耳ったのは薩長閥で、やがて大東亜戦争を招き(『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織、2012年)、現在にまで影響を及ぼす(『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人、2008年)。

 もともと朝敵であった長州藩がなにゆえ官軍となり得たのか? その疑問はまだ晴れていない。調べれば調べるほど南北朝の歴史、岩倉具視や徳川慶喜の役割がはっきりしなくなる(落合莞爾『南北朝こそ日本の機密 現皇室は南朝の末裔だ』2013年、『明治維新の極秘計画 「堀川政略」と「ウラ天皇」』2012年)。

 更にたった今、驚くべき事実を知った。戊辰戦争を前にした会津・庄内両藩がなんとプロイセン(ドイツ)のビスマルクに北海道の一部売却を打診していたというのだ。

維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認

 東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。

 ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。

 船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。

◆顧みなかったビスマルク

 ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。

 箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。

「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。

 ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。

 国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。

 カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。

 オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。

 一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。

朝日新聞DIGITAL 2011年2月7日

戊辰戦争の史料学』を読まねばなるまい。

 最後にもう一点だけ。村上兵衛は「あとがき」で「『ある明治人の記録』もすでに出版されているが、潤色がある。私はそれには拠(よ)らなかった」と記す。私が確認し得たのは、犬の肉に難儀する少年五郎を父が叱責する場面くらいだ。村上は「自著に潤色なし」と言いたいのであろう。表現者としてはいささか狭量の謗(そし)りを免れない。原文と違うから潤色では短絡が過ぎるだろう。老境の柴本人から聞いた可能性も考えられる。事実を重んるあまり想像力の翼を畳んでいる印象を全体から受ける。ただしそれで柴五郎という素材が曇るわけではない。

【付記】「お家存続」は日本の価値観のテーマたり得ると思う。山本七平が「日本において機能集団は共同体(擬制の血縁集団)と化す」と指摘している(『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平、1980年)。小室直樹も同じことを主張する。これは日本全体が天皇陛下を中心とする「家」を形成しているためと考えてよさそうだ。血脈信仰といってよいかどうかは今のところ判断しかねる。女系天皇を巡る問題の本質もこのあたりにあるのだろう。尚、藤田紘一郎〈ふじた・こういちろう〉によれば、血液型と性格には相関性があるという(『脳はバカ、腸はかしこい』2012年)。



マッカーサーが恐れた一書/『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ