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宗教の語源
・フランス人哲学者の悟り
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幸福を望むのは不幸な人
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『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
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『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
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キリスト教を知るための書籍
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悟りとは
夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。
【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】
もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。
悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。
ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。
クリシュナムルティは努力をも否定した(『
自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。
宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。
努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。
技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。
だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。
私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。