2020-11-02

黄金バットと油切りバット




「男子厨房に入るべからず」は孟子の「君子は庖廚(ほうちゅう)を遠ざく」に由来する。元は「屠畜(とちく)を憐(あわ)れむ」意味であったが、いつしか「男子たるもの些事に手を染めるべきではない」と変質してしまった。今時は居間と台所がつながっており、厨房が存在するのは田舎の古い家くらいだろう。私が厨房なる言葉を知ったのはファミリーレストランでアルバイトをした高校生の時である。厨房は居間(リビングルーム)と溶け合って台所(キッチン)に変貌した。

 20年ほど肉食を控えてきたのだが、近頃自分で唐揚げを作るようになった。一応、我が手で絞めたつもりになって調理する際は「南無妙法蓮華経」を三遍唱えている。もちろん絶対に食べ残すことはない。ま、実際は活きたシジミやアサリですら鍋で煮ることができないので、「なんちゃって供養」と言われればそれまでだ。

 キッチンペーパーで油に対処していたのだが無性に油きりバットが欲しくなった。いざ使ってみるとこれは確かにいい。なぜかカラリと乾く。キッチンペーパーのようなべとつきがない。何となく料理の腕が上がった気分になる。

 私は調味料に漬け込んでから冷凍していたのだが、揚げたものを冷凍させる方がいいらしい。

【唐揚げの冷凍】揚げてから冷凍が正解!ジューシーさを保つテク | ほほえみごはん-冷凍で食を豊かに-|ニチレイフーズ

 私が買ったのは左上の品である。一応買った際の候補を挙げておく。1000円前後なので「あわせ買い」予備軍に入れておけばいいと思う。関連商品も紹介する。

2020-10-28

ストア派の思想は個の中で完結/『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳


『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵訳
『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳

 ・ストア派の思想は個の中で完結

必読書リスト その五

 「なぜ多くの逆境が善き人に生じるのですか」。善き者には悪は何一つ生じえない。正反対のもの同士は混ざらないからである。それはちょうど、かくも多数の河川が、上空から落下した、かくも多量の雨水が、鉱泉のかくも多大な成分が、海の味を変えないどころか、薄めすらしないのと同じである。同様に、逆境の攻撃は勇者の精神を背(そむ)かせはしない。同じ姿勢を保ち、生じ来(きた)るいっさいを己の色に変える。いかなる外部の事象よりも協力だからである。それらを感じないというのではない。打ち克つのだ。そして、いつまでも、平穏に穏やかに、襲いかかるもの抗して屹立(きつりつ)し、あらゆる逆境を鍛錬とみなす。しかし、いかなる男子が、高潔な行為へと一度その意を定めた者ならば、正義の労苦を熱望しつつ、危険のともなう任務を志願せずにいられようか。

【『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年/『怒りについて 他一篇』茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳、岩波文庫、1980年)】

 旧訳と併せて読むのが正しい。茂手木訳には「神慮について」が、兼利訳には「摂理について」と「賢者の恒心について」が収められている。甲乙つけがたい翻訳だ。

 ストア派の思想は個の中で完結している。時代や社会がどうあれ、問われるのは己の生き方だ。否、「あり方」というべきか。人の悩みや葛藤は往々にして比較と競争から生まれる。そこに社会的動物の所以(ゆえん)もあるのだろう。

 他人にどう見られるかよりも、自分がどうあるかを問う。集団の中で生きれば様々な問題を他人のせいにしたくなるのは人情だが、「あいつが悪い、こいつが悪い」と言ったところで、そこにあるのは「変わらぬ自分の姿」だ。他人をコントロールすることは難しい。自分で自分を動かす方が賢明だ。

 セネカの言葉はあたかも鹿野武一〈かの・ぶいち〉を語っているかのようである(『石原吉郎詩文集』石原吉郎)。酷寒の地シベリアに抑留されながらも自分の人生を決して手放すことのなかった稀有な人物だ。私はどんな功成り名を遂げた有名人よりも鹿野の生き様に憧れる。

 西洋哲学はおしなべて思弁に傾く嫌いがあるが、セネカの言葉には決意の奔流ともいうべき勢いが溢れ、2500年を経ても留(とど)まるところを知らない。

2020-10-27

銀行合併の内情/『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤


『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤

 ・銀行合併の内情

『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤
・『半沢直樹4 銀翼のイカロス』池井戸潤
『隠蔽捜査』今野敏
・『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文

 旧Sだの旧Tだのという出身に、半沢自身、過剰反応しているつもりはまったくない。産業中央銀行出身だろうと東京第一銀行出身だろうと、肝心なのは銀行員としての姿勢であり資質である。出身銀行で色分けすることに何ら意味のあるはずもない。  ところが、行内世論がそうならないのは、イザ相手と膝を交えて仕事をしたとき、往々にして互いの企業文化がすれ違いを生むからである。結果的に、一枚看板にまとめられたはずの銀行員の間に、出身行別の一線が引かれることになる。  お互いの違いというのは、大きなことではなく、むしろ日常業務の小さなことに起因して、意識付けされる。たとえば、業務上の用語の違い――信用保証協会の保証付き融資のことを産業中央銀行は「協保」(きょうほ)と呼んでいたが、東京第一銀行では「マル保」。「代金取立手形」(だいきんとりたててがた)は、旧Sが「代手」(だいて)で、旧Tが「取手」(とりて)。  ちなみに旧Sの呼称である「代手」は、新入行員として銀行に入ったときに耳にすると最初、目が点になる。先輩のお姉さん行員から、「ねえ、だいてちょうだい」といわれるからである。「こんな昼間からですか」という失言もあったりする。

【『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤〈いけいど・じゅん〉(講談社文庫、2019年/文藝春秋、2004年『オレたち花のバブル組』改題/文春文庫、2007年)】

 日本人の村意識は根深い。内と外を巡る独特の意識がある。少し前まで外人という言葉が普通に使われていた。「外野は黙ってろ」なんてのは現在でも耳にする。家には「うち」の読みもある。

 バブル景気が絶頂に向かったその時、「24時間戦えますか。」と謳ったCMがテレビを席巻した。


 余裕のある時代にネタとして扱われたキャッチコピーは巧まずしてその後登場するワーキングプアを予見していた。かつてのモーレツ社員は企業戦士に変貌した。

 社内文化については次の書籍が参考になる。

社内主義から社外主義への転換/『スーパーサラリーマンは社外をめざす』西山昭彦
社内文化に染まっている人は「抵抗勢力」となる/『制度と文化 組織を動かす見えない力』佐藤郁哉、山田真茂留

 前向きだった20代、後ろ向きの30代、俯(うつむ)くだけの40代。

 それがエリートサラリーマンの人生ならあまりにも侘(わび)しい。社内の出世競争に勝って得られるのは地位とカネであり、負けて味わわされるのは屈辱感と自己否定なのだろう。その姿は小学生の運動会と変わりがない。

 ストーリーは勧善懲悪と下剋上が基調となっていてありきたりなものだ。それでも面白く読めてしまうのは私の生きる世界が些末で戦いとは縁遠いゆえか。