2021-01-06

奴隷制とリンカーン大統領/『奴隷船の世界史』布留川正博


 ・イギリスにおけるカトリック差別
 ・奴隷制とリンカーン大統領

『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

 ただし、奴隷解放は当初南北戦争の争点では必ずしもなかった。重要だったのは合衆国の連邦体制を維持することである。リンカン大統領は戦争中の1862年8月、「私の最大の目的は、連邦を救うことである。奴隷制を保持するか廃止するかは喫緊の課題ではない」と述べている。ただし彼は、奴隷制は道徳的に誤りであるという信念は大統領就任以前から抱いていた。
 1863年、リンカンが奴隷解放を宣言したのは、南部連合を孤立させるための戦略の一環であった。北軍の連邦諸州の目的に、連邦の維持だけでなく、奴隷解放も付け加わったのである。これによって南部連合は動揺し、国際的にも孤立してゆく。戦争は南北あわせて60万人以上の戦死者をだす未曽有の事態となったが、ゲティスバーグの戦い(1863年7月)での北軍勝利が転回点となり、経済力にまさる北部連邦諸州が勝利した。北軍には解放奴隷を含む多数の黒人兵も従軍した。戦争終結後の1865年4月15日、リンカンは暗殺されるが、同年12月、憲法修正第13条によって合衆国における奴隷制度廃止が実現されたのである。

【『奴隷船の世界史』布留川正博〈ふるかわ・まさひろ〉(岩波新書、2019年)】

「リンカーン大統領が奴隷解放を唱えたのは黒人を兵士に起用するための方便だった」と物の本で読んだ覚えがある。布留川正博の視点は中庸に貫かれていて妙な偏りがない。学問とはかくあるべきだろう。

 3分の1ほど読んで「奴隷ではなく奴隷船の歴史」であることに気づいた。本を閉じそうになったが最後まで読ませられたのは著者の筆力が優れている証拠だろう。

 ジム・クロウ法(1876~1964年)という人種差別法があったことを踏まえると、リンカーンが掲げたのは単なる理想だったのだろう。つまり餅の画(え)を描(か)いてみせたのだ。

 リンカーンが奴隷制反対を聴衆の前で公言したのは1854年だが、

 1858年には、「これまで私は黒人が投票権をもったり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度もない。彼らが代議士になったり白人と結婚できるようにすることも反対だ。皆さんと同じように白人の優位性を疑ったことはない」と語っている。

Wikipedia

 公民権運動のきっかけとなったモンゴメリー・バス・ボイコット事件が起こったのが1955年だ。黒人専用座席に坐っていたローザ・パークスが運転手から立つよう促された。パークス女史は静かに「ノー」と言った。そして彼女は逮捕された。ここからマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが立ち上がるのである。

公民権運動の母ローザ・パークスが乗ったバス

 アメリカ建国の200年は人種差別の時代と言ってよい。根深い差別感情は現在もまだ途絶えることなく連綿と続く。しかしながら間もなくアメリカは有色人種の国となる。白人人口が減少した時、現在の大統領選挙以上の混乱が待ち受けているような気がしてならない。

2021-01-05

「自己」という幻想/『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ

 ・「自己」という幻想

「自己とは、内側にある安定した核だ」と昔から固く信じられてきたが、それは科学的事実からかけ離れた幻想である。「ここが人格や自己意識を生み出す源だ」と言える特定の脳内領域やニューロンは存在しない。実のところ、やつれ顔のシュールマンは、「自己とは、我が研究チームが自由に造り替えられるものです」と言うこともできたのだ。実験結果を見れば、どの患者にも普遍の核など存在しないことは明らかだ。自己とは、そのときどきの脳の状態のことなのだ。脳の特定の箇所に電気を少々流すだけで、人は別の誰かになってしまう。

【『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク:赤根洋子〈あかね・ようこ〉訳(文藝春秋、2020年)】

 著者が言う「脳の状態」を石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉風に表現すれば「スタイル」となる(『書く 言葉・文字・書』石川九楊)。つまり我々は自分が好む反応を定式化することで「自己」という産物を創造しているのだろう。それは文字通り「型」(スタイル)といってよい。

 人は身口意(しんくい)の三業(さんごう)を繰り返すことで自我を形成する。すなわち自我とはパターンに過ぎない。私は「小野さんらしい」と言われることが多い。特に目上の人物と喧嘩をする際に私の個性は最大限発揮される。そうした行為は私が自ら選んで行われるものだ。時折失敗することもあるが気にしない。じっと黙っているわけにはいかないからだ。

 悪しき性格は劣等感によって作られる。負の感情が正常な判断を失わさせる。その意味で恨みや妬みが一番厄介な感情だと思う。

「自己」が幻想であれば誰かから馬鹿にされても怒る必要はない。たまたまその時の「脳の状態」が馬鹿にされたのだから。

翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった/『翻訳語成立事情』柳父章


『歩く文化 座る文化 比較文学論』野中涼

 ・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
 ・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
 ・「存在」という訳語
 ・翻訳語「恋愛」以前に恋愛はなかった

・『「ゴッド」は神か上帝か』柳父章
・『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』柳父章

「恋愛」とは何か。「恋愛」とは、男と女がたがいに愛しあうことである、とか、その他いろいろの定義、説明があるであろうが、私はここで、「恋愛」とは舶来の概念である、ということを語りたい。そういう側面から「恋愛」について考えてみる必要があると思うのである。  なぜか。「恋愛」もまた、「美」や「近代」などと同じように翻訳語だからである。この翻訳語「恋愛」によって、私たちはかつて、1世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。  しかし、男と女というものはあり、たがいに恋しあうということはあったではないか。万葉の歌にも、それは多く語られている。そういう反論が当然予想されよう。その通りであって、それはかつて私たちの国では、「恋」とか「愛」とか、あるいは「情」とか「色」とかいったことばで語られたのである。が、「恋愛」ではなかった。

【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】

「エ!?」となった。人を好きになるのは自然なことだ。私が初めて好きになった女の子は同じ幼稚園に通うヨーコちゃんだった。同じ想いを抱いていたカタギリで二人でヨーコちゃんの頬にチューをしたことがある。淡い感情は思春期に入ると性的色彩を帯びてどす黒くなってゆく。それでもまだ中学生くらいまでは話していて面白いレベルでうろうろしている。

 恋愛以前にあったものは何だろうか? それは「情」である。「恋」の語源は「乞(こ)う」で、「愛」は「かなしい」とも読む。ここまで解説すると、「じょう」(情)や「なさけ」(情け)と通底していることがおわかりいただけよう。

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。要はこうだ。誰かが誰かを好きになる。言葉や恋文で赤裸々な真情を伝える。相手はそれを持ち帰ってあれこれ迷う。自分も想いを寄せていた人物であればハッピーエンドとなるわけだが、犬が涎(よだれ)をこぼしながら餌にありつくような真似はしたくない。少し時間を置いて焦(じ)らしてみようか。それとも……。

 実はこうした駆け引き、あるいはセオリー(理論)、はたまた概念は近代ヨーロッパで生まれた。恋愛という新しい概念で人類を束縛したのが実は『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ著、原著は1774年刊、和訳は1891年高山樗牛訳)であった。つまりゲーテこそが恋愛の父なのだ。

 それ以前にも『ロミオとジュリエット』(1595年前後)など恋愛作品は存在したがゲーテほどの衝撃を与えていない。『若きウェルテルの悩み』はヨーロッパでベストセラーとなり自殺者が続出した。

 人間とは「概念を生きる動物」なのだ。夢や理想と言えば聞こえはいいが所詮妄想である。

砥石の種類と和包丁の研ぎ方


 今年は瞑想の代わりに包丁研ぎをしようかと考えている。

2021-01-04

百年の後に知己を待つ/『海舟語録』勝海舟


『勝海舟』子母澤寛
『青い空』海老沢泰久
『氷川清話』勝海舟

 ・百年の後に知己を待つ

・『新訂 海舟座談』巌本善治編、勝部真長校注

 世に具眼(ぐがん)の士があるから、それから笑はれるからネ。あンな事に同じやうに騒いでいると言はれるのが、いやだ。
 玄徳だってさうだ。たツた、孔明一人を見抜いて、「あれに」といふので、ヤイヤイ引張り出した。孔明でも、一人で出て行つて、どうか、かうか、やったぢやアないか。昔から、みンな、同じ事で、チヤンときまつているよ。百年の後に、知己を待つのだ。なにが、わかるものか。昔から、大功の有つた人は、人が知らないよ。久しうして後にわかるのだ。それが、大変好きで、昔から、それを守つたよ。ナニ、忠義の士といふものがあつて、国をつぶすのだ。己のやうな、大不忠、大不義のものがなければならぬ。
 ナアニ、維新の事は、己と西郷でやつたのサ。西郷の尻馬にのつて、明治の功臣もなにもあるものか。自分が元勲だと思ふから、コウなつたのだ。
 江戸の明け渡しの時は、スツカリ準備がしてあつたのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あつちが無辜(むこ)の民を殺す前に、コチラから焼打(やきうち)のつもりサ。爆裂弾でも大層なものだつたよ。あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。治(おさま)つてから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあはせてやらうかと思つてた」と言つたら、西郷め、「アハハ、その手は食はんつもりでした」と言つたよ。
 ナアニ、己の方よりか西郷はひどい目にあつたよ。勝に欺(だま)されたのだと謂(い)つて、ソレワソレワ、ひどい目にあつたよ。

【『海舟語録』勝海舟〈かつ・かいしゅう〉:江藤淳〈えとう・じゅん〉・松浦玲〈まつうら・れい〉編(講談社学術文庫、2004年)】

「己」は「おれ」と読む。因みに乃公(だいこう、ないこう)も「おれ」と読む。促音・拗音(ようおん)の表記については1月2日14:00以降のツイートを参照せよ。

底本:本書は講談社文庫『海舟語録・付 海舟歌集抄』(1975年刊)を底本とし、「海舟詩歌集抄」については割愛した。

『海舟語録』(勝海舟,江藤淳,松浦玲):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部

『氷川清話』と比べると発言が生々しすぎて読みにくい。文字通り聞き書きの体裁である。その息遣いを感じることができれば面白いのだろうが、私の感覚は追いつけなかった。

 勝海舟は好き嫌いの大きく分かれる人物で、その饒舌が災いしたと見る向きも多い。例えば上記の談話においても、江戸開城の最大の功労者である山岡鉄舟について触れていない。

・その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
・致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った。

Wikipedia > 山岡鉄舟

 東京は山の手と下町では風土が大きく異なる。もともと道産子の私が下町の亀戸(かめいど)で過ごして山の手に嫌悪感を抱くほどである。古今亭志ん生の落語を聴いてもわかる通り、江戸っ子はしみったれが多い。小さなことに、やいのやいのと言うのが下町の気風だ。人情とお節介と悪口がごたまぜになっている世界だ。ただ、嘘がないことは確かだ。口が悪いのはもっと確かだが。

 勝海舟の話は大勢の聴衆に向かってなされたものではない。ゆえにそれを以て大法螺(おおぼら)とするのは行き過ぎだろう。床屋で語られた歴史証言と受け止めるのが正しいと思う。

 勝海舟は明治32年(1899年)に75歳で没した。果たして百年を経てどのくらいの知己がいるだろうか?