2021-11-22

中国の核実験を礼賛した大江健三郎/『脱原発は中共の罠 現代版「トロイの木馬」』高田純


『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一

 ・中国の核実験を礼賛した大江健三郎

「トロイの木馬」はギリシャ神話のひとつであるが、現代では、敵国の工作員たちに籠絡(ろうらく)された著名人や政府内部政治家や役人、そして報道機関、芸能人たちが、巧妙に自国を破壊する罠(わな)を指して、「トロイの木馬」と呼ぶ。
 特に共産党独裁国家が放った工作員や、その国家や工作員と親密になった人物が創り出すトロイの木馬の破壊力は絶大である。狙われた国家の中で権力中枢や企業経営者、報道中枢、テレビ番組や映画制作中枢が、トロイの木馬になりうるから被害は甚大である。国家を内側から破壊させる威力がある。

【『脱原発は中共の罠 現代版「トロイの木馬」』高田純〈たかだ・じゅん〉(ハート出版、2021年)以下同】

 高田のことはツイッターで知った。フォローしていたのだが、しばらくして解除した。今となっては理由を覚えていない。が、理由があったから解除したのは確かである。

 とにかく「トロイの木馬」というキーワードがこれでもかというほど出てくる。やや合理性を欠いており、レッテル貼りに近い印象を受けた。文章もよくない。上記テキストだと、「罠を指して」とあるが、内通者を指す場合もある。また最後の文章は「破壊する」か「崩壊させる」が適当だろう。

 東日本大震災が発生した2011年以来、「反原発」や「脱原発」感情を煽(あお)る集団がいる。その先導者の一人はノーベル文学賞の大江健三郎氏で、象徴的な「木馬」だ。
 震災のあった平成23年6月に始まった「さようなら原発1000万人アクション」は9人の呼びかけ人=内橋克人氏、大江健三郎氏、落合恵子氏、鎌田慧氏、坂本龍一氏、澤地久枝氏、瀬戸内寂聴氏、辻井喬氏、鶴見俊輔氏を担いだ、脱原発運動である。(中略)
 彼(※大江)は昭和時代、1964年10月に始まった中共の核実験・核武装に対して、
「核実験成功のキノコ雲を見守る中国の若い研究者や労働者の喜びの表情が、いかにも美しく感動的であった」(『世界』67年9月号)
 と言った。その地は、中共に侵略された新疆(しんきょう)ウイグル地区である。
 中共の核武装はYESで、日本の核エネルギーの平和利用はNOとする大江氏の矛盾。(中略)
 彼らの目標は、「日本文明の発展と国防強化を阻止することにある」。すなわち、反国益、反日行動である。こうした「市民」運動を大々的、好意的に取り上げるマスコミは、異常だ。「市民の声」は「国民の声」なのか。

 大江健三郎にノーベル賞を授与したこと自体が一種の国内分断工作なのだろう。分割統治の進化形と考えてよい。

 左翼を教師にしたのはGHQの占領政策であったが、既に75年以上が経っている。今更米国の責任にはできないだろう。憲法改正もそうだが、いつまでもGHQの罪を主張したところで現実は何ひとつ変わらない。あるいは日本がアメリカの属国だとしても、それを許さない国民意識があれば国家の独立はあり得ると思う。

 規制緩和についても同じことが言える。規制に阻(はば)まれている人々が、その理不尽を世間に知らしめ、関係省庁および役人の氏名を挙げ、国民の不利益を広く説いてゆけば、一定の世論は形成される。ただし何らかのプラットフォームが必要ではあるが。

「脱原発は中共の罠」かも知れないが、原発事業に多くの嘘があったのもまた確かである。その責任を誰も取っていない。きちんと責任を明らかにした上で切腹させるのが当然だろう。私は東京裁判は裁判に名を借りたリンチであったと認識しているが、戦後に敗戦責任を問うことのなかった日本国民のあり方こそ大きな問題だと考える。

拷問され、麻酔なしで切り刻まれるウイグル人/『命がけの証言』清水ともみ、楊海英


『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ

 ・拷問され、麻酔なしで切り刻まれるウイグル人

『AI監獄ウイグル』ジェフリー・ケイジ

必読書リスト その一

【『命がけの証言』清水ともみ、楊海英〈よう・かいえい〉(ワック、2021年)以下同】










2021-11-20

隣国で行われている現在進行系の大虐殺/『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ


『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ・隣国で行われている現在進行系の大虐殺

『命がけの証言』清水ともみ
『AI監獄ウイグル』ジェフリー・ケイジ

必読書リスト その一

【『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ(季節社、2020年)】

 清水ともみが『その國の名を誰も言わない』に続いて2019年8月にツイッターで発表・公開した作品である。作家の百田尚樹が虎ノ門ニュースで全編を紹介し、広く知られるようになった。ネット上で公開されているが、本書と『命がけの証言』は是非とも購入していただきたい。2640円の喜捨と考えて欲しい。既に新聞やテレビでは世界を知ることはできない。犠牲者の声は圧力によって封殺される。経済的な見返りのためなら臓器狩りや虐殺も見て見ぬ振りをするのが親中派政治家や経団連の流儀である。

 岡真理はパレスチナの若者を見てこう思った。「むしろ不思議なのは、このような救いのない情況のなかで、それでもなおジハードが、そしてほかにも無数にいるであろう彼のような青年たちが、自爆を思いとどまっていることのほうだった」(『アラブ、祈りとしての文学』岡真理)。国際社会は国益を巡るゲームである。ルワンダ大虐殺の時も国連は動かなかった。目立った報道すらなかった。それどころか同じ信仰を持つイスラム世界も沈黙を保っている。インドネシアではムスリムによる反中デモが行われたが、インドネシア政府はウイグル人服役囚を中国に強制送還している。

 米軍が撤退した途端、アフガニスタンをタリバンが完全に支配した。権力の真空が生まれることはなかった。中国共産党はアメリカが退いたところに進出するという単純な攻撃法で国際的な影響力を高めている。WHOなどが典型だ。

 アメリカはトランプ大統領が対中制裁に舵を切ったが、政策を引き継いだバイデン政権の動きは鈍いように感じる。言葉だけが虚しく響いているような気がする。

 ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

マルティン・ニーメラー

 ニーメラーの悔恨は最初の迫害を他人事と捉えたところにあった。虐殺されているのはウイグル人ではない。我々なのだ。

 




清水ともみ|note
香港でも拡散!8.6万RTウイグル漫画『私の身に起きたこと』が描かれるまで(FRaU編集部) | FRaU
ウイグルの人権問題を描いた漫画に反響 作者「怖かったけど、天命」:朝日新聞GLOBE+

人間の心は心像しか扱えない/『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬
『壊れた脳 生存する知』山田規畝子

 ・「わかった」というのは感情
 ・人間の心は心像しか扱えない

・『「気づく」とはどういうことか』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 心像もメンタル・イメージの訳語ですが、そこは大目に見てください。現在使われているイメージという言葉は視覚映像のニュアンスが強いので、わざと心像にしました。心像は視覚映像だけではありません。触覚、聴覚、嗅覚、味覚など視覚化出来ない心理現象を含みます。これらをすべて含む用語としては、正確には心理表象という言葉を選ぶべきなのですが、長いし、なじみも薄いのでやめにしました。
 太陽が東から昇り、西へ沈むのは、地球が自転しているせいで、太陽が動いているせいではありません。しかし、われわれには太陽が昇り、太陽が沈むとしか見えません。動いているのは太陽であって、じっとしているのはわれわれです。
 地球の自転は事実で、太陽が動くのは心像です。
 事実は自分という心がなくても生起し、存在し続ける客観的現象です。心像は心がとらえる主観的現象です。
 われわれの心の動きに重要なのは心像であって、客観的事実ではありません。心像を扱うのが普通の心の働きで、客観的事実はこころにとってはあってなきがごときものです。もっと正確にいえば、われわれの心は心像しか扱えないのです。客観的事実を扱うには、普通の心の働きとは別の心の働きが必要です。われわれは地球が自転しているなどということは知らずに何万年も生きてきました。今だって、そんなことを知らずに生きている人はいっぱいいるはずです。われわれは「太陽が昇る」「太陽が沈む」という事柄を心像化して経験出来ますが、「地球が自転している」という事実は経験出来ません。

【『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重〈やまどり・あつし〉(ちくま新書、2002年)以下同】

 山鳥重は神経内科が専門で高次脳機能障害のエキスパート。山田規畝子の著書で知った人物である。話し言葉で書かれていて読みやすい。

 脳が病気や怪我でダメージを受け高次脳機能障害になると心像が変容する。主観と客観が乖離(かいり)し、生活の中で困難な場面が増える。あるいは統合失調症の幻聴・幻覚も内部世界と外部世界の隔絶が顕著な状態だ。しかし、である。私は大なり小なり万人が病んでいると考えているので程度問題に過ぎないと思う。脳が左右に分裂しているのだから思考と感情を完全に統合することは不可能だ。むしろ進化の営みからすれば分離になんらかの優位性があるのだろう。

 私が「想念」と書いてきたものと山鳥の「心像」は一緒である。外部世界を我々はありのままに見ることができない。「私」というフィルターを通して見るためだ。そのフィルターの色や歪みが想念・心像である。山鳥の認識は仏教に迫っている。

 最澄(天台)は心像の基本を十法界(じっぽうかい)と説いた。日蓮がこれを次のように敷衍(ふえん)している。

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとえば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各々別也。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く_若有能持 則持仏身〔若し能く持つことあるは 則ち仏身を持つなり〕等云云。天台云く ̄一帙八軸四七品 六万九千三百八十四 一一文文是真仏 真仏説法利衆生等と書かれて候」(「法蓮鈔」建治元年〈1275年4月〉)

 飢渇(けかつ)に苦しめられた者がガンジス川(恒河)を見れば、「飲みたい」との欲望が火のように起こる。凡夫は生活者の視点から水を捉え、天人(てんにん)は詩を読み、歌い上げる。更に動植物にとって不可欠な物質と見る。あるいは水利や灌漑事業にまで想像が及ぶ。科学者が見れば水素2個と酸素1個の原子である。地球物理学者であれば海水蒸発から降雨を経て川に至るまでのシステムが見える。果報によって見える世界が異なることを説いたものだが、これは心像そのものである。

 心像はこのように経験を通じて形成されます。そして、この心像がわれわれの思考の単位となります。われわれは心像を介して世界に触れ、心像によって自分にも触れるのです。外の世界(客観世界)はそのままではわれわれの手に負えません。われわれは世界を、心像形成というやり方で読み取っているのです。心像という形に再構成しているのです。

 知覚-認識のステップを示したのが五蘊(ごうん)である。一種のフローチャートと考えてよい。これを推し進めると唯識(ゆいしき)に辿り着く。

 知覚心像が意味を持つには、記憶心像という裏付けが必要です。
 脳損傷で、モノはちゃんと見えているが、何なのかわからないという状態が起こることがあります。見えている証拠に、この人たちは見せられたモノをちゃんと写生することが出来ます。でも、写したもの(ママ)が何であるかわからないのです。知覚心像がほかの心像(記憶心像)から切り離されてしまい、ほかの心像と関係づけることが出来なくなってしまっているのです。

 行蘊(ぎょううん)と識蘊(しきうん)の連係が上手くいってないのだろう。 ただし、そう見えているのは外部の人間であって本人ではない。これは我々でも日常的に起こることだ。


 初めて見た物を理解することは難しい。特殊な工具や部品を見て、何に使うかわかるひとは少ない。知識と記憶が結びついた時に初めて「知る」ことができる。

 われわれの祖先がいつごろ言葉を獲得したのかはわかっていません。数十万年前かもしれません。あるいは、わずか数万年前なのかもしれません。いずれにしても、われわれの祖先は言葉を獲得して以来、さまざまなモノやコトに名前をつけ続けてきました。名前をつけるというのは、記憶心像に音声記号を貼り付ける働きです。

 巧みな説明だ。心像は人の数だけ存在する。特に人の名前によって呼び起こされる心像はくっきりと際立つ。例えば安倍晋三とかさ。

大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス


『宗教で得する人、損する人』林雄介

 ・大衆は断言を求める

大衆

 この男は常に大衆を味方に持つであろう。この男は宇宙に確信を持っているように自分に確信を持っているからだ。それが大衆の気に入ることなのである。大衆は断言を求めるので、証拠は求めない。証拠は大衆を動揺させ、当惑させる。大衆は単純であり、単純なことしか理解しない。大衆に対しては、いかにしてとか、どんな具合にとか言ってはならない。ただ、《そうだ》、あるいは《そうではない》といわなければならない。

【『エピクロスの園』アナトール・フランス:大塚幸男訳〈おおつか・ゆきお〉(岩波文庫、1974年/原書、1895年)】

「大衆」と題した随想の全文である。感情が迸(ほとばし)ると衆愚となり、責任と理性を働かせれば集合知となるのだろう。

 小林秀雄の言葉をよくよく考える必要がある。

 だからイデオロギーは匿名ですよ、常に。責任をとりませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力ですよ。責任を持たない力は、まあこれは恐ろしいもんですね。
 集団ってのは責任取りませんからね。どこへでも押し掛けますよ。自分が正しい、と言って。(中略)
 左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに「私(わたくし)」なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。

【『小林秀雄講演 第2巻 信ずることと考えること 新潮CD』】

 群衆の中から石を投げるような人々がいる。嫌がらせの電話で自ら名乗る者は存在しない。一人の平凡な市民が大勢の中で罵声を上げる。左翼のデモは小さな狂気としか映らないが、かつては大学生がヘルメットをかぶりゲバ棒を振るった。そして、民主政もまた「責任を持たない力」である。首長選挙では革新系が当選しているし、知事選だとテレビに出演していた知名度の高い候補が勝ちやすい。所詮、人気投票だ。

「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです」(『歴史とは何か』E・H・カー)。小泉首相が郵政解散をした時、日本国民は彼の断言に従った。台風になびく草原のように。私もその一人であった。「自然の一部」と化したのだろう。