2022-03-18

人の言葉はいかなる財宝にもまさる/『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『子産』宮城谷昌光

 ・術と法の違い
 ・策と術は時を短縮
 ・人生の転機は明日にもある
 ・天下を問う
 ・傑人
 ・明るい言葉
 ・孫子の兵法
 ・孫子の兵法 その二
 ・人の言葉はいかなる財宝にもまさる

『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

「この世には、いかなる財宝にもまさる物がある。それが人のことばというものだ」(八巻)
【『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、2010年/講談社文庫、2013年)】

 范蠡〈はんれい〉の言葉である。

言葉の重み/『時宗』高橋克彦

 人は言葉を必要とする。きちんと言葉を掛けられていない子供は大人になって異常性が露呈する場合がある。犯罪者の遠因としてネグレクト(育児放棄)が指摘されることは珍しくない。英語の意味は「意図的な無視」である。コミュニケーションの遮断と言い換えてもよかろう。

 たぶん本当は言葉ではない。感情の共有が必要なのだろう。言葉を知らぬ赤ん坊に対して我々は大袈裟な表情や声の抑揚でコミュニケーションを図る。確実に伝わるのは笑顔だ。驚いた表情も理解されやすい。抱っこをし、優しく揺すり、頬に触れる。コミュニケーションの原型はそこにある。

 言葉にされた思いが相手の心を打つのだ。感情は思考よりも脳の深層に位置する。迷い、悩み、疲れ果てた後に何気ない一言で救われたことは誰しも経験したことがあるだろう。特に心が揺れる若さの季節にどういう人間が周りにいるかで人生は大きく変わる。運不運といっても結局は人に極まる。出会いこそが人生の幸福であり、自分を激変せずにはおかない出会いを知らぬ人生はプラスチックのように無味乾燥であろう。

 あの一言、この一言が胸の底で渾然(こんぜん)となって現在を支えている。その渾(にご)り具合が個性であり人格なのだろう。

2022-03-16

孫子の兵法 その二/『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『子産』宮城谷昌光

 ・術と法の違い
 ・策と術は時を短縮
 ・人生の転機は明日にもある
 ・天下を問う
 ・傑人
 ・明るい言葉
 ・孫子の兵法
 ・孫子の兵法 その二
 ・人の言葉はいかなる財宝にもまさる

『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 どれほど富み栄えている国でも、戦いに負ければ、衰亡する。それが現実であるかぎり、王の近くにいる者は、戦いに無関心であってはならぬ、と胥犴(しょかん)は婉曲(えんきょく)に范蠡(はんれい)を叱ったのである。
 ――これが孫子の兵法か。(中略)
 すぐにあたりから物音が消えたように意識がその文章に吸いこまれた。尋常な兵法書ではないと冒頭の数行を読んでわかった。抽象的で観念的な内容のようにみえるが、著者が徹底的に現実を観察したがゆえに、物事の表皮にとらわれず、哲理といってよい深広(しんこう)さに達したのだ。要するに、ここに書かれているのは、各自が応用可能な原理であり、それこそ、
「法」
 であろう。
 孫子の兵法は、戦場という現実的な闘争の場がすべてではない。その場に到るまで、あるいは、その場に到らないで勝つことの重要さを説いている。もしも人生個人的な戦場であるとみなせば、その兵法は生きかたにも応用できる。こういう英知が呉王を輔けていたのであるから、なるほど新しい発想のできない楚の君臣は退敗(たいはい)するしかなかったであろう。范蠡は身ぶるいをした。
 すぐれた人と思想があれば、たとえそれが敵側にあっても、学ばなければならない。
 これは、できそうでできないことである。悪感情がさきに立つと、それが自身の思考的視界をさえぎってしまう。楚人(そひと)と越人(えつひと)にとって、呉の孫武将軍は悪鬼のごとき人であった。が、憎んでばかりおらず、その深微(しんび)な思想をおくればせながら知ろうとした胥犴の勇気と見識の高さに、范蠡は感嘆した。(七巻)

【『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、2010年/講談社文庫、2013年)】

 呉の敵となる越もまた孫子の兵法を学ぶ。ここに兵法の法たる所以(ゆえん)がある。

「読むべき人が読めば、そう読めるものか」というのが率直な所感である。私は『新訂 孫子』を一度読んでいるが、心に染まったのは「兵とは詭道なり」の一言(いちごん)のみである。

 脳は解釈システムである。世界という函数を解くのが脳の機能であり、具体的には「読む」という行為に現れる(『社会認識の歩み』内田義彦)。何を読むのか? それは因果関係であり物語である。自我を巡る物語は往々にして妄想の罠にとらわれ、誤読がつきものである。世界を正しく認識することは難しい。まして人の数だけ別世界が広がっているとすれば、人の数だけ誤読に溢れているのが世界とも言えよう。

 例えば読めるとはこういうことである。

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 宮城谷昌光は『孫子』を正しく読んでいる。つまり宮城谷は孫武の精神と感応(かんのう)しているのだ。人は時代を超えて人を理解できる。その事実が胸を揺さぶる。

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