2012-09-15
2012-09-14
クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
試みはいいのだが、あまりいい本ではない。仏教知識が中途半端な上、巻末にクリシュナムルティの質疑応答を録するコンセプトに疑問が残る。「仏教+クリシュナムルティ」という販売戦略であろうか。
クリシュナムルティの応答を一つ紹介しよう。彼は常に聴衆から質問を募ったが、それは「何かを教えるため」ではなかった。その意味では決して解答ではなく、やはり応答とすべきだ。
クリシュナムルティ●あなたはこうたずねられるかも知れません。「あなたは輪廻転生を信じますか?」と。そういうことですね? 私は何も信じません。私が何も信じないというのは回避ではありません。そしてそれは私が無神論者であるとか、神を冒涜(ぼうとく)するとかいったことを意味するのではないのです。その中に入り込み、それが意味するものを見て下さい。それは精神が信念のあらゆるゴタゴタから自由になることを意味するのです。
【『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】
これはクリシュナムルティ流の無記といってよい。
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
クリシュナムルティは「輪廻転生がない」とは言っていない。ただ「信じない」と語っているだけだ。ブッダは沈黙をもって答えた。私なら「あると考えるべきではない」と応じる。
日本の仏教は大半が大乗仏教であり、輪廻転生(りんねてんしょう)を説いている。このため輪廻転生が仏教思想だと誤解している人々が多い。しかし元々はバラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えである。また世界各地に見られるアニミズムと「生まれ変わり」思想は親和性が高いと思われる。
では一歩譲って「来世がある」と仮定してみよう。果たしてそれは「いつ」なのであろうか? 岡野潔によれば神々が回帰(輪廻)する時間は1劫(いっこう)=43億2000万年(ヒンドゥー教の計算法)となる。
とすると1劫ごとに輪廻が繰り返されたとしても、我々の認識では「繰り返し」と見なすことが不可能だ。
【岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一】
さすがに輪廻転生を信じる諸君も気長に待つことはできないだろう。人間は一生という時間単位を前提にものを考える傾向が強いので、我々が思い浮かべる来世はせいぜい数十年後といったところだ。そうじゃないと自分の子や孫とも擦れ違ってしまう(笑)。
そもそも鎌倉仏教の開祖が一人も再誕していないのだから、ま、800年は無理ってな話になりますわな。ブッダもお出ましになっていない以上、2500年は生まれてこない計算となる。
鎌倉時代は天災と戦乱の時代であった。人々は飢饉に責められ、疫病(えきびょう)に苦しみ、高騰する物価に苛(さいな)まれた。浄土宗は「死んだら西方極楽浄土に往生できる」と教えた。生きる望みを失った人々が次々と首を括った。
来世は神と似ている。誰一人確認したことがないにも関わらず、誰もが信じている。
すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。(三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉)
【仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀】
将来とは「将(まさ)に来る」で、未来とは「未だ来たらざる」である。希望の「望」には本来、野望の意味がある。中国では王や将が奪うべき敵地を視察する目的で高台に望台を築いた。
望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。
【『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】
おわかりだろうか? 来世への「望み」が実は自我に基づく「渇愛」から発せられていることを。すなわち輪廻転生とは自我の延長戦であるといってよい。これ自体が死を忌避する思想であり、死という現実から逃避する行為ではあるまいか。我々は「自分が消失する事実」に耐えることができない。それゆえ多くの人々が認知症となることを恐れるのだろう。記憶の崩壊は自我の死を意味する。つまり自我の正体とは記憶なのだ。
「何かになろう」とする企て自体が現在を否定していることに気づくべきであろう。
・努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
・理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
結論――来世を信じる人は今世を軽んじる人である。
2012-09-12
「動かざる者」を支配する原子力発電所/『見よ 月が後を追う』 丸山健二
・『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
・『千日の瑠璃』丸山健二
・「動かざる者」を支配する原子力発電所
語り手はオートバイだ。
そう、私は理知によって世界を知ることができる、誇り高いオートバイなのだ。
【『見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)以下同】
色は青。
私の青は、うねる蒼海の青であり、遠い分水嶺の青であり、亜成層圏辺りに広がる青、
私の青は、世の風潮にほとんど影響されない青であり、神々の審判をきっぱり拒む青。
『野に降る星』の旗、『千日の瑠璃』のオオルリと同じ色だ。青い色は男の心をくすぐる。古来、狩猟は男の仕事であった。それゆえ男性は青空と同じ色に反応する、という説がある。
十数年前に一度読み、再読した。原子力発電所の記述を紹介しよう。
本書のテーマは「動く者」と「動かざる者」との対比である。前者を象徴するのがオートバイと乗り手の若者、後者のシンボルが八角形の楼台と田舎町の人々である。そして「動かざる者」を支配する権力の象徴として原子力発電所が描かれている。
「動かざる者」とは何か? それは変化を忌み嫌い、現状維持に安んじ、定住に満足する生き方だ。自分を「世間に合わせる」生き方といってよい。これに対して「動く者」「流れる者」は一切のしがらみを拒絶し、時に無法の一線を飛び越えることもよしとする自由人だ。
そこかしこに蔓延(はびこ)っている、一生を棒に振り兼ねない、投げ遣りな静観主義。
原子力発電所がある町にはこのような空気があった。
深々と更け渡る夜のなかにあって命の振動音を発しているのは、原子力発電所のみだ、
こんな片田舎でともあれ権勢を誇って生き生きとしているのは、低濃縮ウランだけだ。
稼働してまもない、とかく風評のある、元凶の典型となったそいつ、
人命など物の数ではないといわんばかりに、一意専心事に当たるそいつ、
桁外れの破壊力を秘めながら、普段は目立たない汚染を延々と繰り返すそいつ。
そいつは暗々のうちに練られた計画に従って、高過ぎる利益を生み出している、
そいつは進取的な素振りを見せながら、旧弊家どもの手先として働いている、
そいつは昼夜を問わず制御棒をぶちのめす機会を虎視眈々(たんたん)と狙っている。
およそ人が造り出した物で自然の摂理に逆らわない物はない、と原子力発電所は嘯(うそぶ)く、
たしかに……この私にしてからがそうだ。
鉄やゴム、それに少々のガラスといった材料から成る私も決して例外ではない、
原子炉の比ではないにしても、私もまた、やはりそれなりの毒を撒き散らす者だ、
これまで私が受けてきた非難にしても、謂(いわれ)のない非難というわけではない。
私は気化させたガソリンを連続的に爆発させて、燃えかすと爆音を世間に叩きつける、
私は前後ふたつの車輪を意のままに回転させて、世に満つくだらない不文律を蹴散らす、
私は無意味な高速がもたらす【がき】染みた示威行為によって、進退極まった中年男を悲しみのどん底から救い、陶然と酔わせる。
私にしがみついて疾駆する者は、自ずと他律的に振舞うことをやめるのだ、
私と共にある者は、何事にも怯(ひる)まず、飯代に事欠く立場さえすっかり忘れてしまう、
私といっしょに雲を霞(かすみ)と遁走する者は、私がその潜在意識とやらを充分に汲み取って、ひと思いに死なせてやろう、
むろん独りで死なせはしない。
この小説は実験的な手法が試されており、段落によっては行末を一字ずつずらしてきれいな斜線となっている。
動く者はリスクを恐れない。動かざる者は目前のリスクを恐れることで、かえって将来の大きなリスクを背負ってしまう。損得勘定に目が眩んで、好きでもないことに身をやつすのが大人にふさわしい生き方なのだろう。
私は突っ走ることで主我を確立する。
私が放つ光芒は皮相的な見解を突き破り、外界のありとあらゆる事物や、有象無象の一時も忽(ゆるが)せにできないめまぐるしい変化に鋭く対応する、
私が発する感嘆の声は根拠のない推論を押しのけ、魂も消え入るような思いを叩き伏せ、未だに固持されている旧説を素早く追い越して行く。
動く者はたとえ何歳になろうとも若々しい。過去なんぞ影みたいなものだ。踏みつけて歩けばよい。
それから彼は、自分の両親と娘の家族が郷里を引き払った理由について説明する、
つまり、かれらがそうしたのは大半の住民に倣ったまでのことだ、と言い、町の定住人口を却って激減させてしまったのは当の原子力発電所だ、と語る、
原子力発電所がこの町に居坐るために気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能のせいで、多くの人々が一生に一度の決断を下したのだ、と言う。
「気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能」との対比が鮮やかだ。札束で頬を叩かれれば、誰だって恵比寿顔になる。
とにもかくにも完璧に制御されているものと信じるしかない核反応の恐怖に寄り掛かって惰眠を貪るしかない町、
この町はすでに拒絶する力を失っているのかもしれない、
もしそうだとすれば、身を潜めなくてはならない者にとっては打ってつけの土地だろう。
我々は「拒絶する力」を持っているだろうか? 理不尽な仕事を拒んで会社を去ることができるだろうか? 家庭を省みることもなく形骸と化した夫婦関係に終止符を打つことはできるだろうか? はなっから労働基準法など順守するつもりのないパートタイムの仕事をあっさりとやめることはできるだろうか? 結局のところ、徒手空拳で自分だけの力を頼りにして飯を食ってゆける人間しか「拒絶する力」を有していないのだ。資本主義という経済システムに取り込まれた人生からは「拒絶する力」が奪われてゆく。
思った通りの死せる町、
際立っているのは原子力発電所のみだ、
そいつは既知の事実を誣(し)いる輩、
そいつがせっせと造りつづける電力はあっという間に300キロも遠く懸け隔てた彼方へと、国家の枢機を握っている大都市へと吸い込まれてゆく。
福島も新潟も東京から300km圏内だ。
地元の素封家を差しおいてこの町を牛耳っている原子力発電所、
それは尚も廃家の数を増やしつづけ、生命や文化や尊厳を殺し、ついでに因習や禁忌といったものまでもゆっくりと残害しつづけている。
地方は中央の権力によって侵(おか)されるのだ。権力者は金と暴力にものを言わせる。
外洋の彼方で早くも油然と湧く夏雲、
海水に溶け込んでいる希元素の憂鬱、
改心の見込みなどまるでない放射能。
そして遂に2011年3月11日、放射能はばら撒かれた。
かれらは、安堵の胸を撫でおろしている者ではなく、静座して思索に耽る者でもない、
かれらは、放射能の源に対して舌尖鋭く詰め寄る者ではなく、安く造った電力に法外な値を吹っかけて売りつける企業に一矢を報いる者でもない。
かれらは「我々」でもある。ただ雇用が、働き口が欲しかったのだろう。
郷里にとどまることにした者たちは、常に無能な時の為政者が大仰に述べ立てた言葉を頭から信じたのではないだろう、
さんざん疑った挙句に、ともあれ成り行きに任せてみることにしたのだろう、
そうやって居残った人々は、殺気を孕んだ大気や、前途に横たわる暗流を、現実から遊離した不安として無理矢理片づけてしまったのだろう。
従ってこの地はもはや、汚されたと言い表せるほどの聖域ではなくなっているはずだ、
よしんばプレアデス星団が見て取れるような澄明な夜が続いたとしてもだ。
国も東京電力も安全なデータだけを示して地元住民を篭絡(ろうらく)したはずだ。反対したのは多分、左翼の連中だけだったのはあるまいか。彼らにしても、どうせ政治目的で動員されたことだろう。弱り目に祟り目とはこのことだ。国家は弱者に対して情け容赦がない。
この小説は福島の原発事故が起こる15年前に書かれたものであって、被災者を鞭打つものではない。どうか誤解のなきよう。
・逃げない社会=定住革命/『人類史のなかの定住革命』西田正規
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール:金田耕一訳(風行社、2012年)
100日間で80万人が虐殺された。それも多くはマチェーテと呼ばれる山刀で。なんと数ヶ月前から、そこには国連PKO部隊がいて、危険を察知していた。しかし、彼らは手を拱(こまね)いて傍観するしかなかった。PKO部隊の司令官自身が痛恨の思いで綴る惨劇の顛末(てんまつ)。
・ロメオ・ダレール、ルワンダ虐殺を振り返る
・「私たちは大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきた」/『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治
・『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
2012-09-11
寺田寅彦
5冊読了、というのは真っ赤な嘘だ。読み終えていないのだがカウントしてしまえ。
49~53冊目『寺田寅彦随筆集 全五冊』寺田寅彦(岩波文庫、1947年)/読書家にとって垂涎の随筆と言い切っておこう。実はまだ30ページほどしか読んでいないのだが、私は山海の珍味のごとく少量ずつ楽しむことにした。だから、あらん限りの忍耐力を総動員して遅読に挑む。この滴り落ちるような懐かしさは何なのか? 「ああ、私も日本人であったのだ」という感慨がどっと押し寄せてくる。巻頭の「どんぐり」に胸を突かれた。1963年改版となっており、それ以前のものは旧漢字である。唯一の難点は活字が小さいこと。折を見つけてワイド版を入手しようと思う。以下の順番で読むのも一興か。
ワイド版第一巻 ワイド版第二巻 ワイド版第三巻 ワイド版第四巻 ワイド版第五巻
・枕がないことに気づかぬほどの猛勉強/『福翁自伝』福澤諭吉
・日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編
・『銀の匙』中勘助
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